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人間飼育記録:ポンコツ個体は今日も脱走に失敗する  作者: きなこもち
第2章 『檻の外でも保護対象でした』

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9/11

プロローグ 「檻の外が楽とは限らない」

 


 外の空気は、思っていたよりぬるかった。


 季節のせいじゃない。

 たぶん、ソラの胸の中が熱すぎるだけだ。


「は、っ…は…っ」


 石畳を蹴る足がもつれる。

 息がうるさい。

 心臓がうるさい。

 喉が焼けるみたいに痛い。


 それでも止まれなかった。


 止まったら終わる。

 今度こそ、本当に終わる。


 夜の街は、研究院の中庭なんかよりずっと広くて、ずっと汚くて、ずっと予測がつかない。

 白く磨かれた廊下も、整えられた芝も、魔力灯の柔らかな明かりもない。

 あるのは濡れた石畳、軒先から垂れた布、鼻につく酒と獣の匂い、そして知らない女たちの声だ。


 その全部が、どうしようもなく“外”だった。


 外だ。


 出たんだ。


 あの檻を、本当に出た。


 その事実だけで、本当ならもっと胸が高鳴ってもよかった。

 もっと、泣きたいくらい嬉しくてもよかった。


 でも実際はそんな暇がなかった。


「待て!」


 背後で声が飛ぶ。


 研究院の警備の声ではない。もっと荒っぽくて、もっと露骨に獲物を追う声だ。

 しかも一人じゃない。

 足音が複数ある。

 硬い革靴の音、重いブーツの音、石を蹴る音。

 全部が一気に近づいてくる。


 ソラは振り返らない。


 振り返ったところでどうにもならない。

 顔なんて見たくないし、見たところで走る足が速くなるわけでもない。


 ひとつ角を曲がる。

 次の瞬間、洗濯紐が顔にぶつかった。


「ぶっ」


 情けない声が漏れる。


 布の湿った匂いが鼻を塞ぐ。

 ソラはそれを振り払い、また走る。背後から舌打ちが聞こえた。


「そっちだ!」

「黒髪のガキ、見失うな!」

「人間の男なんて目立つに決まってるだろ!」


 その言葉が、背筋をぞわりと撫でた。


 人間の男。


 名前じゃない。

 ソラじゃない。

 ただそれだけで、追われる理由になる。


 研究院の中で嫌というほど思い知らされてきたことが、檻の外へ出た瞬間、もっと剥き出しの形で飛んできた。


 でも、だからといって戻りたくはない。


 絶対に嫌だ。


「っ、は…!」


 呼吸が乱れる。


 研究院を抜け出してから、もうどれくらい走ったのか分からない。

 最初は勢いでどうにかなった。

 高い壁を越えた時も、結界の薄い一瞬を抜けた時も、心臓が破裂しそうなくらい緊張していたけれど、足は動いた。


 でも街へ入ってからが最悪だった。


 広い。

 人が多い。

 どこへ行けばいいか分からない。

 金もない。

 土地勘もない。

 それに黒髪黒目は想像以上に目立つ。


 そして、走れば走るほど、自分の体力のなさが露呈する。


「くそっ…」


 足が痛い。

 肺が痛い。

 膝も少し痛い。


 やっぱりまだ完全には治ってなかったんじゃねえか、と今さら思っても遅い。

 いや、セレスは最初からそう言っていた。

 だから走るな、だから無理をするな、だからまだ外へ出るべきではないと。


 思い出した瞬間、ソラは奥歯を噛んだ。


 違う。


 今はあいつのことなんか考えるな。


 今考えるべきなのは、どうやって捕まらないか、それだけだ。


 また角を曲がる。


 細い路地。

 行き止まり――ではないが、ひどく狭い。

 木箱と樽が積まれ、古びた看板が斜めにぶら下がっている。

 人が一人通るのがやっとの隙間。

 ソラは反射的にそちらへ滑り込もうとした。


 だが、その瞬間にはもう遅かった。


 背後の足音が、一気に近づく。


「いた!」


 終わった。


 ほんとうに、今度こそ終わった。


 そう思った瞬間。


「こっち!」


 頭上から鋭い声が降ってきた。


 ソラははっとして顔を上げた。


 二階建ての古い建物、そのひさしの上に、小柄な影がしゃがんでいた。


 夜の闇に溶けそうな細い体。

 短い上着。

 金茶の髪。

 ぴんと立った猫耳。

 細くしなる尻尾。


 そして、月明かりを受けてひどくよく光る琥珀色の目。


「ぼさっとしない!」


 そう言うなり、その影は身を翻して先へ跳んだ。

 軽い。

 信じられないくらい軽い。

 建物の縁から縁へと躊躇なく移り、細い路地の先を示す。


 考える余裕はなかった。


 ソラは半ば本能で、その指示に従った。


 木箱を避ける。

 洗濯物の下をくぐる。

 肩が壁にぶつかる。

 痛い。けれど止まれない。


 ひさしの上の影が、今度は地面へ降りてくる。

 着地音がやけに軽い。

 着地した勢いのまま、こちらを振り返りもせず叫んだ。


「右!」


「右ってどっちだよ!」


「今見てる方の逆!」


「わかりづらっ!」


「文句言う元気あるなら走れ!」


 口が悪い。


 だが助かる。

 ものすごく助かる。


 背後で追手が怒鳴る声がした。

 曲がり角をひとつ、またひとつ、先頭の影は迷いなく進む。

 ソラはもう必死についていくだけだ。


 だが、四つ目の角を曲がったあたりで、とうとう足が限界を訴えた。


「っ、待て…無理、ほんと無理…!」


「死ぬの?」


「今はまだ死にたくない!」


「だったら止まるな!」


 細い腕が、ぐいとソラの手首を掴んだ。


 思ったより力が強い。

 そのまま一気に引っ張られ、ソラは細い隙間へ転がり込んだ。

 樽と木箱の間、外からはほとんど見えない暗いくぼみだ。

 生臭い匂いと湿った木の匂いが鼻を刺す。


「黙って」


 低く落とされた声と同時に、口元を手で押さえられる。


 ソラは目を見開いたまま、こくこく頷いた。


 直後、追手たちが路地の入口を駆け抜けていく。


「どこだ!」

「見失うな、まだ近くにいるはずだ!」

「黒髪だぞ、隠れたって目立つ!」


 胸の奥で心臓が嫌な音を立てる。

 口を塞がれたまま、ソラは息を殺した。


 追手の足音が、少しずつ遠ざかる。


 ようやく周囲が静かになった頃、口元を押さえていた手が離れた。


 ソラは壁へ背中を打ちつけるように座り込み、荒い息を吐いた。


「っは、…は…っ、は…」


「うるさい」


「今の状況で静かに呼吸できる奴いないだろ!」


「いる」


「お前基準で言うな!」


 反射的に言い返したところで、ようやくソラは相手の顔をまともに見た。


 若い。

 思ったよりずっと若い。


 十代後半くらいの少女だった。

 くすんだ金茶色の髪をひとつに束ね、琥珀の瞳を細めてこちらを見ている。

 猫系の獣人らしく、耳も尻尾も感情に合わせて小さく動いていた。

 軽装の上着には細い革紐や小袋がいくつもついていて、いかにも路地に馴染んでいる。


 そして何より、ソラを見ても遠慮がない。


 珍しいものを見てはいる。

 でも研究院の連中みたいな“壊れ物に触る前の手つき”ではない。

 もっと雑で、生っぽくて、率直だ。


「…なに」


 ソラが睨むと、少女はあっさり言った。


「いや」


「いや、じゃなくて」


「思ったより弱いなって」


「初対面でそれ言う!?」


「だってほんとだし」


 言い方。


 ソラは口をへの字に曲げた。

 だが、さっきの走りで言い返すだけの勢いすら半分失っている。

 悔しい。


 少女はそんなソラの顔を見て、鼻で笑うように肩をすくめた。


「その顔するくらいなら、もっと隠れるの上手くなりなよ」


「…助けてもらった礼は言うけど、今の言い方はむかつく」


「礼はいらない」


「えっ」


「その代わり、何であんな連中に追われてるか教えて」


 やっぱりそう来る。


 ソラは少しだけ気が楽になった。

 親切だけで助けられるより、何か理由があった方が分かりやすい。

 少なくとも、この世界ではそっちの方がまだ信用できる。


「お前、誰だよ」


「先に聞いたのはあたし」


「先に聞かれたからって、素直に答えるように見える?」


「見えない」


 即答だった。


「でも、体力切れてるし、逃げ場もないし、今あたしが叫んだら終わるよね」


「…」


「ほら」


 にやり、と笑われる。


 腹立つ。

 だが図星だ。


 ソラは壁へ頭を預け、低く呟いた。


「最悪だ…」


「今日何回目の最悪?」


「知らない」


「じゃ、更新しときな。今のはかなり最悪」


「お前ほんと口悪いな」


「よく言われる」


 悪びれもしない。


 ソラは一度だけ深く息を吸い、吐いた。

 匂いは悪いが、研究院の部屋よりは息がしやすい気がした。

 結界もない。

 鍵もない。

 誰かの許可もいらない。


 汚い。

 狭い。

 危ない。

 でも外だ。


 その事実だけは、ちゃんと胸の奥へ届いていた。


「…名前」


「は?」


「名前」


 少女が顎をしゃくる。


「聞いてんだけど」


「何でお前に」


「呼ぶ時困るから」


 それはたしかにそうだ。


 ソラは少しだけ迷ってから、ぶっきらぼうに答えた。


「ソラ」


 少女の耳がぴくりと動く。


「へえ。本当に名前あるんだ」


「あるだろ普通!」


「いや、そういう意味じゃなくて」


 少女は頬杖をつきながら、面白がるように言った。


「あんたらって、外じゃだいたい“人間の男”とか“珍品”とか、そっちで呼ばれるからさ」


 胸の奥が、ちくりと痛む。


 それを見たのか見ていないのか、少女はあっさり続けた。


「あたしはミアラ」


 琥珀の目が細まる。


「で、ソラ。とりあえず、あんたこのままだと三歩でまた捕まる」


「三歩は盛っただろ」


「五歩かも」


「大して変わんねえよ!」


 ミアラはくすくす笑った。


 年相応の、少しだけ悪戯っぽい笑い方だった。


 ソラは深く息を吐く。

 まだ心臓はうるさい。

 でも、さっきまでの終わりみたいな追い詰められ方は少しだけ遠のいていた。


 助かった。

 たぶん、今は。


 ただし、安心はできない。


 ミアラは助けた。

 でも、信用していいかはまだ分からない。

 むしろ、簡単に信用したら終わる気もする。


 それでも。


 研究院を出てから初めて、ソラは自分の名前を“管理記録”ではなく、単なる呼びかけとして口にした。


 それが少しだけ、変な感じだった。


 ミアラはひょいと立ち上がる。


「ほら、行くよ」


「どこに」


「とりあえず、あんたが五歩で捕まらない場所」


「そんな都合いい場所なんてあるのか?」


「あるよ。あたしが知ってる範囲なら」


 言い切る声には妙な自信があった。


 ソラはその顔を見上げ、ほんの少しだけためらう。


 知らない街。

 知らない獣人。

 知らないルール。


 でも、ここで立ち止まっても仕方ない。


「…売るなよ」


 立ち上がりながら言うと、ミアラは肩越しに振り返った。


「今はね」


「今はって何だよ!」


「冗談だって」


「笑えねえよ!」


「そのうち慣れるよ」


「絶対慣れたくない!」


 路地の奥へ進むミアラを、ソラは半分怒鳴りながら追いかける。


 夜の空は高い。

 街は汚い。

 自由はしんどい。


 それでも。


 檻の中よりは、ずっとましだと、今のソラはまだ信じていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

もし作品を気に入っていただけましたら、

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★★★★★を入れていただけると作者のやる気が大幅に上がります(^^)/


また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。

引き続きよろしくお願いいたします。

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