「それでもここにはいたくない」
その夜から数日、ソラは妙に大人しかった。
少なくとも外から見れば、だ。
脱走しない。
窓もいじらない。
西廊下をうろつく回数も減る。
食事は出された分をそこそこ食べ、薬も渋い顔をしながら飲む。
膝の痛みが引くまで無茶も控えた。
研究院の側からすれば、たぶん好ましい変化だったのだろう。
パルナは「やっと学んだかい」と半分本気で言ったし、ガルフは「不気味だな」と露骨に警戒を強めた。
あれはひどい。
少し静かにしているだけで不気味扱いされるのはどうなんだ。
もっとも、ソラ自身も、自分が静かなのは“諦めたから”ではないと分かっていた。
考えていたのだ。
窓辺の椅子に座って、外の庭を眺めながら。
夜、寝台の中で目を閉じながら。
食事の匂いに混じる薬草の気配を嗅ぎながら。
ここ数日、ずっと同じことを考えていた。
ここは安全だ。
その事実は、どうしたって否定できない。
空腹で倒れることもない。
寒さで眠れないこともない。
怪我をすれば薬が来る。
熱が出れば誰かが夜中でも飛んでくる。
それはたぶん、本当に恵まれている。
この世界のどこにでも転がっているものではない。
けれど同時に、それが全部“許されている範囲での生”なのも分かってしまった。
出されたものを食べる。
与えられた部屋で眠る。
決められた時間に外気へ触れる。
見ていい場所と、見てはいけない場所がある。
その一つひとつは小さい。
小さいのに、積み重なると息が詰まる。
ソラは窓の結界へそっと指を触れた。
ひやり、とした感触のあとに、ぴり、と魔力が皮膚を弾く。
以前より強い。
結界出力が微妙に上げられているのが分かった。
たぶん池落ちと、管理区画騒ぎと、客人の一件、その全部のせいだ。
「露骨だなあ…」
ぼやく。
だが、本気で絶望はしていなかった。
それどころか、自分でも少し驚くくらい、気持ちは前よりはっきりしていた。
逃げたい。
やっぱり逃げたい。
しかも今度は、ただ衝動で飛び出すんじゃなくて、もっとちゃんと。
そう思うようになったのは、きっと腹が立ったからだ。
客人たちの会話にも。
“現物”と言われたことにも。
自分が資源みたいに扱われることにも。
そして、セレスに「怖い」と言わせてしまったことにも。
全部ひっくるめて、腹が立った。
だから余計に、ここへ居着くわけにはいかないと思った。
慣れたら終わる。
最初に思ったその感覚は、まだソラの中で生きていた。
むしろ、前より強くなっている。
◇
夕方、空が少しだけ赤く染まる時間だった。
部屋の扉が叩かれる。
「入るわ」
返事を待たずにセレスが入ってきた。
最近この女、前より少しだけ“返事を待たない”回数が減っていた気がする。
気のせいかもしれないが、ソラにはそう見えた。
今日は、ノックの間が以前より長かった。
たぶん、迷ったのだろう。
そんな小さな変化に気づいてしまう自分が嫌だ。
「何」
ぶっきらぼうに言うと、セレスは怒らない。
最初からそれくらいの反応は織り込み済みなのだろう。
「膝を見せて」
「開口一番それかよ?」
「あなたの怪我の経過を確認するのは普通でしょう」
「俺の普通とは違う」
「そうね」
またそれだ。
ソラは小さく鼻を鳴らしつつも、椅子から足を少し前へ出した。
薬布を巻いていた部分はもう薄くなっていて、赤みもだいぶ引いている。
セレスはしゃがみ込み、包帯の端へ指をかけた。
細い指先。
触れ方は相変わらず丁寧で、必要以上の力が入らない。
そういうところだけは本当に完璧で困る。
「痛みは?」
「歩くぶんには平気だって」
「走るのは?」
「ちょっと響く」
「では、まだ駄目ね」
「だからお前はすぐそうやって勝手に決める」
言うと、セレスの手が一瞬だけ止まった。
「…ええ」
短く認める。
「だから今、あなたの言い分を思い出したわ」
「今?」
「ええ。私はすぐ判断してしまうから」
ソラは少しだけ目を瞬いた。
妙に素直だ。拍子抜けする。
「じゃあ聞くけど」
「なに」
「俺が“走れる”って言ったら、どうする」
「疑う」
「なんでだよ」
「でも、前よりは確認する」
「…」
「その違いはあると思うの」
そう言いながら、セレスは薬布を外し終えた。
膝の傷口はもうほとんど塞がっている。
彼女はそれを確かめ、替えの薄い薬布を貼る。
近い距離。
視線を下ろせば、銀金の髪が肩を流れているのが見える。
鼻先をかすめる、ごく淡い白花の香り。
それに少しだけ、薬草と紙の匂い。
逃げたい相手のはずなのに、こういう時だけ妙に落ち着いてしまうのが最悪だった。
ソラはわざと視線を窓の方へ逸らした。
庭の向こう、空が高い。
赤く染まりかけた雲が、結界越しに少しだけ歪んで見える。
前の世界の夕方を思い出す。
部活帰りでも何でもない、ただの放課後。
自転車を押しながら遠回りした帰り道。
コンビニの前に並んだ自販機の光。
家へ帰れば母親に「遅い」と言われるだけの、どうでもいい日。
どうでもよかったはずなのに、今はどうしようもなく恋しい。
「…前さ」
気づけば、口が動いていた。
セレスの手が、膝の上で止まる。
「前?」
「前の…俺がいた場所」
転生という言葉は使わない。
使っても通じないからだ。
けれど今は、それでも少し話したくなった。
セレスは促さない。
ただ待つ。
「夜にさ、喉乾いたら勝手に台所行けたんだよ」
「…ええ」
「別に特別でも何でもなくて。腹減ったら冷蔵庫開けて、怒られるかもしれねえなとか思いながら適当に飲み物出して。で、窓の外に街灯が見えてて」
言葉にしながら、自分でも妙な気分になる。
大した話じゃない。
英雄譚でも、秘密でもない。
ただの生活の断片だ。
なのに、その断片の方が、この世界では何より遠い。
「コンビニとかも」
「こんびに?」
「店。食べ物とか雑貨とか売ってる、小さい…まあ、夜でも明るい店」
「夜でも?」
「うん。普通に。ふらっと行けた」
セレスはそこで、ほんの少しだけ目を細めた。
理解したというより、想像している顔だ。
「誰にも止められずに?」
「そう」
「危険ではなかったの」
「ゼロじゃないけど、少なくとも“行くこと自体”は悪くなかった」
「…そう」
それだけの返事だった。
でもソラには分かった。
セレスはやっぱり、その“普通”をまだ実感できていない。
想像はしても、腹の底では分からないのだろう。
この世界にそんな普通はないのだから。
「だから、ここにいると変なんだよ」
ソラは続けた。
「すげえ丁寧にされてるのに、全部許可制っていうか。優しいのに苦しいっていうか。外の方が危険だって言われても、じゃあここにいろって言われると…なんか、俺じゃなくなる感じがして」
最後の一言は、言ってしまってから少し恥ずかしかった。
何だそれ。
詩人かよ、と自分で思う。
だがセレスは笑わなかった。
薬布を貼り終え、ゆっくり立ち上がる。
その動きはいつも通り静かだ。
けれど彼女はすぐには離れず、寝台の脇でソラを見た。
「分からないわ」
「…だろうな」
「でも」
セレスは続ける。
「それがあなたを作っている感覚なのだということは、分かる」
ソラは顔を上げた。
分からない。
でも、作っている感覚だと分かる。
その言い方は、妙に正確だった。
「否定は、しないんだな」
「否定できるほど知らないもの」
「普通もっと、変な話って言うだろ」
「あなたの話を?」
「前にいた場所がどうとか、夜でも明るい店がどうとか」
セレスは少しだけ首を傾げる。
「私にとって理解しづらい話であることと、あなたにとって大事な話であることは、別でしょう」
ソラは言葉を失った。
こんな返しをされると思っていなかった。
理解できない。
でも否定しない。
それはたぶん、今のソラがいちばん欲しかった反応に近い。
だからこそ、余計に危ない。
危ないというのは、逃げる気持ちが鈍るとか、そういう意味ではない。
もっとやっかいで、曖昧な意味だ。
この女の前では、言いたくないことまで言ってしまいそうになる。
「…ずるい」
ぼそっと漏らすと、セレスは目を瞬いた。
「なにが?」
「そういう返し方」
「褒め言葉かしら」
「最悪の意味でな」
セレスの口元が、ほんの少しだけやわらいだ。
笑った、と言うには淡すぎる。
でも確かに、いつもの無機質な微笑みよりずっと人間っぽい変化だった。
「それで」
彼女が言う。
「あなたは、どうしたいの」
「何が」
「あなたの“前の場所”へは、もう戻れないのでしょう」
「…」
「なら、この先、どうしたいの」
真正面から問われて、ソラは少しだけ黙り込んだ。
答えは簡単だ。
逃げたい。
自由になりたい。
自分で決めたい。
でも、その言葉だけでは足りない気がした。
「俺は」
少しだけ息を吸う。
「俺は、たぶん一人でどこでも生きていけるってわけじゃない」
そこを認めるのは悔しかった。
だが、もう何度も失敗している以上、見栄を張っても仕方ない。
「弱いし、魔力もないし、外に出たら危ないのも分かる。でも、それでも…」
窓の向こうを見る。
高い空。
届かない外。
「それでも、自分で決めたかったんだよ」
どこへ行くか。
何を食うか。
誰のそばにいるか。
戻るか、戻らないか。
全部。
それを口にすると、胸の奥のもやが少しだけ晴れる気がした。
セレスは長く黙っていた。
その沈黙は重い。
けれど、前みたいに拒絶の沈黙ではない。
何かを受け止めようとしている沈黙だった。
「昔の私なら」
やがて彼女は言う。
「たぶん今の話を聞いても、結論は変えなかったわ」
「今も変わってないだろ」
「結論そのものは、まだね」
そこは変わらないのかよ、とソラは思う。
だが声には出さない。
「でも」
セレスは続ける。
「あなたが何に息苦しさを感じているのかは、前より少しだけ見えた気がする」
「…少しだけかよ」
「大きな進歩よ、私にとっては」
その返しに、ソラはなんだか笑いそうになった。
笑わないけれど。
セレスはふと、窓辺へ歩いていく。
結界越しの赤い空を見上げ、静かに言った。
「私はまだ、あなたを外へ出せるとは言えない」
「知ってる」
「でも、あなたが外へ出たいと思うことそのものを、ただの無謀として片づけるのはやめる」
ソラは息を止めた。
それは、たぶん大きな変化だった。
許可ではない。
自由でもない。
でも少なくとも、自分の願いを“幼い反発”や“危険な衝動”だけで済ませないという宣言だ。
「…ほんとに?」
「ええ」
「また途中で理屈に戻るなよ」
「努力するわ」
「努力だけかよ」
「そうね」
この女が自分へ言うのは珍しい。
ソラは少しだけ面食らった。
そのまま、部屋に静かな時間が落ちる。
もう話は終わってもおかしくない。
でもセレスは出ていかないし、ソラも追い出さなかった。
窓の外で、最後の光が細くなっていく。
「…なあ」
「なに」
「前の俺だったらさ」
また、ぽつりと口が開く。
「こういう時間に、家に帰ってたんだよ」
「家に」
「うん。腹減ったなとか思いながら。玄関開けたら、なんか飯の匂いしてて。母親に遅いって言われて。別に大したことじゃないんだけど」
「大したことだったのね」
「今はな」
ソラは苦く笑う。
「帰るって、そういう感じだったんだよ」
セレスはすぐには何も言わなかった。
やがて、とても静かな声で言う。
「なら、私はまだあなたの“帰る場所”ではないのね」
その言葉に、ソラの胸がひくりと鳴った。
思いもよらない角度から刺された感じがした。
帰る場所。
そんなふうに言うのか、この女は。
「…そりゃそうだろ」
かろうじて言い返す。
少し声が掠れたのが自分でも分かった。
「ここ、檻だし」
「ええ」
「俺、まだお前のとこに“戻される”だけだし」
セレスは小さく目を伏せた。
「そうね」
否定しない。
けれど、その肯定が前とは違う重さを持っていた。
傷として受け取っているというか、自分の問題として抱えている感じがする。
それを見てしまうと、ソラは妙に落ち着かなくなる。
「…でも」
なぜか、その先まで口にしていた。
「でも、前よりマシかもな」
セレスが顔を上げる。
「何が?」
「話」
短く答える。
「前はもっと、全部お前の理屈だった」
「今もまだ多いけれど」
「まあな」
「それでも?」
「…まあ」
言葉が歯切れ悪くなる。
認めたくない。
でも全否定もしきれない。
そんな自分に一番いらついている。
セレスはそれ以上問い詰めなかった。
ただ、ほんの少しだけ、気配がやわらぐ。
「ありがとう」
「は?」
「正直に言ってくれて」
「…別に」
照れくさくなって、ソラは顔を背けた。
窓の外はもうほとんど夜だ。
赤みは消え、庭園の木々が深い影になっている。
このままここにいたら危ない。
何が危ないのかは、まだ言葉にしにくい。
でも、危ない。
この女の前では、自分の気持ちが妙に剥き出しになる。
しかも、言ってしまったあとで完全に否定されない。
それが、たぶんかなり危ない。
セレスは少ししてから、ようやく扉へ向かった。
「今日はもう休みなさい」
「いつもそれ言うな」
「必要だから」
「俺を何歳だと思ってる」
「十七」
「分かってんじゃん」
「知っていても言うわ」
扉に手をかける。
そして、珍しくそこで少しだけ振り返った。
「ソラ」
「何」
「昔の私なら、今のあなたを止めていた」
「今も止めてるだろ」
「ええ。でも、今日は止める代わりに聞けたと思う」
「…」
「それは私にとって、大きいことなの」
そう言い残して、セレスは部屋を出ていった。
静けさが戻る。
ソラはしばらく動かずにいた。
窓の外の夜。
結界。
温度の整った部屋。
柔らかい寝台。
全部変わっていない。
何ひとつ自由になっていない。
それなのに、さっきの会話のあとでは、以前より少しだけ息がしやすかった。
たぶん最悪だ。
最悪だけど。
「…帰る、か」
小さく呟く。
前の世界の“帰る”は、もうない。
だからといって、この研究院がそうなるわけでもない。
今はまだ、絶対に違う。
でも、セレスがその言葉を口にしたことだけは、変に胸へ残った。
ソラはその感覚を振り払うように寝台へ倒れ込んだ。
違う。
まだ違う。
ここは檻だ。
自分はまだ、自由に出入りできない鳥だ。
だから逃げる。
その意志だけは、むしろ前よりはっきりしていた。
「次は…」
天井を見上げながら、ぼそっと呟く。
「次は、もう少しちゃんと逃げる」
それは強がりではなく、今のソラにとってかなり本気の誓いだった。
衝動で飛び出すんじゃない。
見て、考えて、ちゃんと準備して。
もしまた誰かを見捨てられなくても、それ込みで何とかできるくらいに。
難しいのは分かっている。
分かっているけれど、やるしかない。
慣れたら終わる。
ここがどれだけ快適でも、どれだけ優しくても、自分で決めることを手放したら終わりだ。
そう思いながら目を閉じる。
なのに、眠りへ落ちる寸前、最後に浮かんだのは前の世界の夕焼けでも、研究院の高い窓でもなく。
“私はまだあなたの帰る場所ではないのね”
と言った時の、セレスの少しだけ寂しそうな横顔だった。
「…だから、そういうのやめろって…」
文句は誰にも届かないまま、夜の中へ溶けた。
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