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人間飼育記録:ポンコツ個体は今日も脱走に失敗する  作者: きなこもち
第1章 『檻の中の脱走計画』

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7/12

「それでもここにはいたくない」

 


 その夜から数日、ソラは妙に大人しかった。


 少なくとも外から見れば、だ。


 脱走しない。

 窓もいじらない。

 西廊下をうろつく回数も減る。

 食事は出された分をそこそこ食べ、薬も渋い顔をしながら飲む。

 膝の痛みが引くまで無茶も控えた。


 研究院の側からすれば、たぶん好ましい変化だったのだろう。


 パルナは「やっと学んだかい」と半分本気で言ったし、ガルフは「不気味だな」と露骨に警戒を強めた。

 あれはひどい。

 少し静かにしているだけで不気味扱いされるのはどうなんだ。


 もっとも、ソラ自身も、自分が静かなのは“諦めたから”ではないと分かっていた。


 考えていたのだ。


 窓辺の椅子に座って、外の庭を眺めながら。

 夜、寝台の中で目を閉じながら。

 食事の匂いに混じる薬草の気配を嗅ぎながら。

 ここ数日、ずっと同じことを考えていた。


 ここは安全だ。


 その事実は、どうしたって否定できない。


 空腹で倒れることもない。

 寒さで眠れないこともない。

 怪我をすれば薬が来る。

 熱が出れば誰かが夜中でも飛んでくる。


 それはたぶん、本当に恵まれている。

 この世界のどこにでも転がっているものではない。


 けれど同時に、それが全部“許されている範囲での生”なのも分かってしまった。


 出されたものを食べる。

 与えられた部屋で眠る。

 決められた時間に外気へ触れる。

 見ていい場所と、見てはいけない場所がある。


 その一つひとつは小さい。

 小さいのに、積み重なると息が詰まる。


 ソラは窓の結界へそっと指を触れた。


 ひやり、とした感触のあとに、ぴり、と魔力が皮膚を弾く。

 以前より強い。

 結界出力が微妙に上げられているのが分かった。

 たぶん池落ちと、管理区画騒ぎと、客人の一件、その全部のせいだ。


「露骨だなあ…」


 ぼやく。


 だが、本気で絶望はしていなかった。


 それどころか、自分でも少し驚くくらい、気持ちは前よりはっきりしていた。


 逃げたい。

 やっぱり逃げたい。

 しかも今度は、ただ衝動で飛び出すんじゃなくて、もっとちゃんと。


 そう思うようになったのは、きっと腹が立ったからだ。


 客人たちの会話にも。

 “現物”と言われたことにも。

 自分が資源みたいに扱われることにも。

 そして、セレスに「怖い」と言わせてしまったことにも。


 全部ひっくるめて、腹が立った。


 だから余計に、ここへ居着くわけにはいかないと思った。


 慣れたら終わる。


 最初に思ったその感覚は、まだソラの中で生きていた。

 むしろ、前より強くなっている。


 ◇


 夕方、空が少しだけ赤く染まる時間だった。


 部屋の扉が叩かれる。


「入るわ」


 返事を待たずにセレスが入ってきた。


 最近この女、前より少しだけ“返事を待たない”回数が減っていた気がする。

 気のせいかもしれないが、ソラにはそう見えた。

 今日は、ノックの間が以前より長かった。

 たぶん、迷ったのだろう。


 そんな小さな変化に気づいてしまう自分が嫌だ。


「何」


 ぶっきらぼうに言うと、セレスは怒らない。

 最初からそれくらいの反応は織り込み済みなのだろう。


「膝を見せて」


「開口一番それかよ?」


「あなたの怪我の経過を確認するのは普通でしょう」


「俺の普通とは違う」


「そうね」


 またそれだ。


 ソラは小さく鼻を鳴らしつつも、椅子から足を少し前へ出した。

 薬布を巻いていた部分はもう薄くなっていて、赤みもだいぶ引いている。


 セレスはしゃがみ込み、包帯の端へ指をかけた。

 細い指先。

 触れ方は相変わらず丁寧で、必要以上の力が入らない。

 そういうところだけは本当に完璧で困る。


「痛みは?」


「歩くぶんには平気だって」


「走るのは?」


「ちょっと響く」


「では、まだ駄目ね」


「だからお前はすぐそうやって勝手に決める」


 言うと、セレスの手が一瞬だけ止まった。


「…ええ」


 短く認める。


「だから今、あなたの言い分を思い出したわ」


「今?」


「ええ。私はすぐ判断してしまうから」


 ソラは少しだけ目を瞬いた。


 妙に素直だ。拍子抜けする。


「じゃあ聞くけど」


「なに」


「俺が“走れる”って言ったら、どうする」


「疑う」


「なんでだよ」


「でも、前よりは確認する」


「…」


「その違いはあると思うの」


 そう言いながら、セレスは薬布を外し終えた。

 膝の傷口はもうほとんど塞がっている。

 彼女はそれを確かめ、替えの薄い薬布を貼る。


 近い距離。

 視線を下ろせば、銀金の髪が肩を流れているのが見える。

 鼻先をかすめる、ごく淡い白花の香り。

 それに少しだけ、薬草と紙の匂い。


 逃げたい相手のはずなのに、こういう時だけ妙に落ち着いてしまうのが最悪だった。


 ソラはわざと視線を窓の方へ逸らした。


 庭の向こう、空が高い。

 赤く染まりかけた雲が、結界越しに少しだけ歪んで見える。


 前の世界の夕方を思い出す。


 部活帰りでも何でもない、ただの放課後。

 自転車を押しながら遠回りした帰り道。

 コンビニの前に並んだ自販機の光。

 家へ帰れば母親に「遅い」と言われるだけの、どうでもいい日。


 どうでもよかったはずなのに、今はどうしようもなく恋しい。


「…前さ」


 気づけば、口が動いていた。


 セレスの手が、膝の上で止まる。


「前?」


「前の…俺がいた場所」


 転生という言葉は使わない。

 使っても通じないからだ。

 けれど今は、それでも少し話したくなった。


 セレスは促さない。

 ただ待つ。


「夜にさ、喉乾いたら勝手に台所行けたんだよ」


「…ええ」


「別に特別でも何でもなくて。腹減ったら冷蔵庫開けて、怒られるかもしれねえなとか思いながら適当に飲み物出して。で、窓の外に街灯が見えてて」


 言葉にしながら、自分でも妙な気分になる。


 大した話じゃない。

 英雄譚でも、秘密でもない。

 ただの生活の断片だ。


 なのに、その断片の方が、この世界では何より遠い。


「コンビニとかも」


「こんびに?」


「店。食べ物とか雑貨とか売ってる、小さい…まあ、夜でも明るい店」


「夜でも?」


「うん。普通に。ふらっと行けた」


 セレスはそこで、ほんの少しだけ目を細めた。

 理解したというより、想像している顔だ。


「誰にも止められずに?」


「そう」


「危険ではなかったの」


「ゼロじゃないけど、少なくとも“行くこと自体”は悪くなかった」


「…そう」


 それだけの返事だった。


 でもソラには分かった。

 セレスはやっぱり、その“普通”をまだ実感できていない。

 想像はしても、腹の底では分からないのだろう。

 この世界にそんな普通はないのだから。


「だから、ここにいると変なんだよ」


 ソラは続けた。


「すげえ丁寧にされてるのに、全部許可制っていうか。優しいのに苦しいっていうか。外の方が危険だって言われても、じゃあここにいろって言われると…なんか、俺じゃなくなる感じがして」


 最後の一言は、言ってしまってから少し恥ずかしかった。

 何だそれ。

 詩人かよ、と自分で思う。


 だがセレスは笑わなかった。


 薬布を貼り終え、ゆっくり立ち上がる。

 その動きはいつも通り静かだ。

 けれど彼女はすぐには離れず、寝台の脇でソラを見た。


「分からないわ」


「…だろうな」


「でも」


 セレスは続ける。


「それがあなたを作っている感覚なのだということは、分かる」


 ソラは顔を上げた。


 分からない。

 でも、作っている感覚だと分かる。


 その言い方は、妙に正確だった。


「否定は、しないんだな」


「否定できるほど知らないもの」


「普通もっと、変な話って言うだろ」


「あなたの話を?」


「前にいた場所がどうとか、夜でも明るい店がどうとか」


 セレスは少しだけ首を傾げる。


「私にとって理解しづらい話であることと、あなたにとって大事な話であることは、別でしょう」


 ソラは言葉を失った。


 こんな返しをされると思っていなかった。


 理解できない。

 でも否定しない。


 それはたぶん、今のソラがいちばん欲しかった反応に近い。


 だからこそ、余計に危ない。


 危ないというのは、逃げる気持ちが鈍るとか、そういう意味ではない。

 もっとやっかいで、曖昧な意味だ。


 この女の前では、言いたくないことまで言ってしまいそうになる。


「…ずるい」


 ぼそっと漏らすと、セレスは目を瞬いた。


「なにが?」


「そういう返し方」


「褒め言葉かしら」


「最悪の意味でな」


 セレスの口元が、ほんの少しだけやわらいだ。


 笑った、と言うには淡すぎる。

 でも確かに、いつもの無機質な微笑みよりずっと人間っぽい変化だった。


「それで」


 彼女が言う。


「あなたは、どうしたいの」


「何が」


「あなたの“前の場所”へは、もう戻れないのでしょう」


「…」


「なら、この先、どうしたいの」


 真正面から問われて、ソラは少しだけ黙り込んだ。


 答えは簡単だ。

 逃げたい。

 自由になりたい。

 自分で決めたい。


 でも、その言葉だけでは足りない気がした。


「俺は」


 少しだけ息を吸う。


「俺は、たぶん一人でどこでも生きていけるってわけじゃない」


 そこを認めるのは悔しかった。

 だが、もう何度も失敗している以上、見栄を張っても仕方ない。


「弱いし、魔力もないし、外に出たら危ないのも分かる。でも、それでも…」


 窓の向こうを見る。


 高い空。

 届かない外。


「それでも、自分で決めたかったんだよ」


 どこへ行くか。

 何を食うか。

 誰のそばにいるか。

 戻るか、戻らないか。


 全部。


 それを口にすると、胸の奥のもやが少しだけ晴れる気がした。


 セレスは長く黙っていた。


 その沈黙は重い。

 けれど、前みたいに拒絶の沈黙ではない。

 何かを受け止めようとしている沈黙だった。


「昔の私なら」


 やがて彼女は言う。


「たぶん今の話を聞いても、結論は変えなかったわ」


「今も変わってないだろ」


「結論そのものは、まだね」


 そこは変わらないのかよ、とソラは思う。

 だが声には出さない。


「でも」


 セレスは続ける。


「あなたが何に息苦しさを感じているのかは、前より少しだけ見えた気がする」


「…少しだけかよ」


「大きな進歩よ、私にとっては」


 その返しに、ソラはなんだか笑いそうになった。

 笑わないけれど。


 セレスはふと、窓辺へ歩いていく。

 結界越しの赤い空を見上げ、静かに言った。


「私はまだ、あなたを外へ出せるとは言えない」


「知ってる」


「でも、あなたが外へ出たいと思うことそのものを、ただの無謀として片づけるのはやめる」


 ソラは息を止めた。


 それは、たぶん大きな変化だった。


 許可ではない。

 自由でもない。

 でも少なくとも、自分の願いを“幼い反発”や“危険な衝動”だけで済ませないという宣言だ。


「…ほんとに?」


「ええ」


「また途中で理屈に戻るなよ」


「努力するわ」


「努力だけかよ」


「そうね」


 この女が自分へ言うのは珍しい。

 ソラは少しだけ面食らった。


 そのまま、部屋に静かな時間が落ちる。


 もう話は終わってもおかしくない。

 でもセレスは出ていかないし、ソラも追い出さなかった。


 窓の外で、最後の光が細くなっていく。


「…なあ」


「なに」


「前の俺だったらさ」


 また、ぽつりと口が開く。


「こういう時間に、家に帰ってたんだよ」


「家に」


「うん。腹減ったなとか思いながら。玄関開けたら、なんか飯の匂いしてて。母親に遅いって言われて。別に大したことじゃないんだけど」


「大したことだったのね」


「今はな」


 ソラは苦く笑う。


「帰るって、そういう感じだったんだよ」


 セレスはすぐには何も言わなかった。


 やがて、とても静かな声で言う。


「なら、私はまだあなたの“帰る場所”ではないのね」


 その言葉に、ソラの胸がひくりと鳴った。


 思いもよらない角度から刺された感じがした。


 帰る場所。


 そんなふうに言うのか、この女は。


「…そりゃそうだろ」


 かろうじて言い返す。

 少し声が掠れたのが自分でも分かった。


「ここ、檻だし」


「ええ」


「俺、まだお前のとこに“戻される”だけだし」


 セレスは小さく目を伏せた。


「そうね」


 否定しない。


 けれど、その肯定が前とは違う重さを持っていた。

 傷として受け取っているというか、自分の問題として抱えている感じがする。


 それを見てしまうと、ソラは妙に落ち着かなくなる。


「…でも」


 なぜか、その先まで口にしていた。


「でも、前よりマシかもな」


 セレスが顔を上げる。


「何が?」


「話」


 短く答える。


「前はもっと、全部お前の理屈だった」


「今もまだ多いけれど」


「まあな」


「それでも?」


「…まあ」


 言葉が歯切れ悪くなる。


 認めたくない。

 でも全否定もしきれない。


 そんな自分に一番いらついている。


 セレスはそれ以上問い詰めなかった。

 ただ、ほんの少しだけ、気配がやわらぐ。


「ありがとう」


「は?」


「正直に言ってくれて」


「…別に」


 照れくさくなって、ソラは顔を背けた。

 窓の外はもうほとんど夜だ。

 赤みは消え、庭園の木々が深い影になっている。


 このままここにいたら危ない。


 何が危ないのかは、まだ言葉にしにくい。

 でも、危ない。


 この女の前では、自分の気持ちが妙に剥き出しになる。

 しかも、言ってしまったあとで完全に否定されない。

 それが、たぶんかなり危ない。


 セレスは少ししてから、ようやく扉へ向かった。


「今日はもう休みなさい」


「いつもそれ言うな」


「必要だから」


「俺を何歳だと思ってる」


「十七」


「分かってんじゃん」


「知っていても言うわ」


 扉に手をかける。

 そして、珍しくそこで少しだけ振り返った。


「ソラ」


「何」


「昔の私なら、今のあなたを止めていた」


「今も止めてるだろ」


「ええ。でも、今日は止める代わりに聞けたと思う」


「…」


「それは私にとって、大きいことなの」


 そう言い残して、セレスは部屋を出ていった。


 静けさが戻る。


 ソラはしばらく動かずにいた。

 窓の外の夜。

 結界。

 温度の整った部屋。

 柔らかい寝台。


 全部変わっていない。

 何ひとつ自由になっていない。


 それなのに、さっきの会話のあとでは、以前より少しだけ息がしやすかった。


 たぶん最悪だ。


 最悪だけど。


「…帰る、か」


 小さく呟く。


 前の世界の“帰る”は、もうない。

 だからといって、この研究院がそうなるわけでもない。

 今はまだ、絶対に違う。


 でも、セレスがその言葉を口にしたことだけは、変に胸へ残った。


 ソラはその感覚を振り払うように寝台へ倒れ込んだ。


 違う。

 まだ違う。

 ここは檻だ。

 自分はまだ、自由に出入りできない鳥だ。


 だから逃げる。


 その意志だけは、むしろ前よりはっきりしていた。


「次は…」


 天井を見上げながら、ぼそっと呟く。


「次は、もう少しちゃんと逃げる」


 それは強がりではなく、今のソラにとってかなり本気の誓いだった。


 衝動で飛び出すんじゃない。

 見て、考えて、ちゃんと準備して。

 もしまた誰かを見捨てられなくても、それ込みで何とかできるくらいに。


 難しいのは分かっている。

 分かっているけれど、やるしかない。


 慣れたら終わる。

 ここがどれだけ快適でも、どれだけ優しくても、自分で決めることを手放したら終わりだ。


 そう思いながら目を閉じる。


 なのに、眠りへ落ちる寸前、最後に浮かんだのは前の世界の夕焼けでも、研究院の高い窓でもなく。


 “私はまだあなたの帰る場所ではないのね”

 と言った時の、セレスの少しだけ寂しそうな横顔だった。


「…だから、そういうのやめろって…」


 文句は誰にも届かないまま、夜の中へ溶けた。



最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。

引き続きよろしくお願いいたします。

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