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人間飼育記録:ポンコツ個体は今日も脱走に失敗する  作者: きなこもち
第1章 『檻の中の脱走計画』

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6/12

「人間の男は高く売れる」

 


 傷は浅いのに、妙に動きづらい日というものがある。


 翌日のソラは、まさにそれだった。


 膝の痛み自体は前日より引いている。

 歩くだけなら問題ない。

 階段だって、たぶん手すりがあればいける。

 なのに研究院側はやたら慎重で、午前の行動範囲はまた西廊下までに制限された。


 昨日の件が響いているのは明らかだった。


「過保護すぎるだろ」


 昼前、窓辺の椅子へ腰を下ろしたままソラが呟くと、扉の外から即座に返事が来た。


「適正だ」


 ガルフだった。


「会話聞いてたのかよ!」


「聞こえた」


「最悪だ!」


「知っている」


 最近こればっかだな、とソラは思う。


 研究院は広い。

 廊下は長い。

 部屋は上等。

 なのに気配は近い。

 誰かしらが常にこちらを見ていて、常に体調も行動も把握されている。

 放っておかれない。

 雑にも扱われない。

 でも、一人にはなれない。


 この窒息しそうな感じを、どう説明すればいいのか、ソラはまだうまく言えなかった。


 机の上には果物と薬湯、それから昼食前の軽い菓子まで置かれている。

 膝を打っただけでこの手厚さだ。

 病弱な小鳥か何かだと思われているんじゃないかと本気で疑う。


「…かごの中の鳥って、こんな感じなのかな」


 ぽつりと漏らして、自分で少しだけ嫌になる。


 その時、廊下の奥から複数の足音が聞こえた。


 研究員のそれではない。

 もっと整っていて、歩幅も揃っている。

 客人か、あるいはそれに近い立場の人間たちの歩き方だ。


 ソラは反射的に顔を上げた。


 足音はそのまま通り過ぎず、西廊下の途中で止まる。

 低い声。

 女ばかりだ。

 ひとりは研究院の職員で、もうひとりは外の人間らしい。

 言葉の抑え方が違う。


「本日は面会を許可できません」

「承知の上で来ています。こちらは聖環教国の正式な照会状です」

「照会に対する回答は文書で返送済みです」

「文書では足りません。現物の状態確認が必要です」


 現物。


 ソラの背筋がひやりとした。


 現物ってなんだ。

 いや、考えるまでもなく嫌な予感しかしない。


 椅子から立ち上がり、扉へ近づく。

 もちろん開けはしない。

 耳を寄せるわけにもいかない。

 そんなことをすれば外のガルフに即座に気づかれる。

 だから呼吸を殺して、普通に部屋の中へいるふりをしながら聞く。


「管理責任は研究院側にあります」

「保護責任にも優先順位があります。原初人種の男を、学術機関が単独で保持し続けるのは不適切では?」

「その表現は訂正を願います。“保持”ではありません」

「では何です?」

「保護と管理です」


 聞き覚えのある声だった。

 セレスだ。


 ソラの喉が、ひどく嫌な形で乾く。


 外の相手はすぐに返した。


「言い換えに過ぎませんね」

「少なくとも、売買や宗教利用を前提にした引き取り要求よりは健全です」

「ずいぶん棘のある言い方をなさる」

「事実の確認です」


 空気が冷えているのが、扉越しでも分かった。


 ソラは壁に背をつけた。

 心臓が変に速い。

 現物、保持、引き取り。全部、自分のことだ。

 名前は出ない。

 ソラではなく、“原初人種の男”として話されている。


 息苦しい。


 それでも、耳は勝手に次を拾う。


「竜侯国側も正式な照会を準備しています」

「知っています」

「商盟も水面下で接触を試みていると」

「それも」

「ならばなおさら、研究院のみで抱え込める案件ではないでしょう」

「抱え込んでいるつもりはありません」

「ではなぜ公開しないのですか?」

「公開は保護と両立しません」

「それは、誰のための保護ですか?」


 言葉が、一つひとつ胸の奥へ刺さる。


 誰のための保護。


 それはソラも知りたい。

 セレスのためか。

 研究院のためか。

 制度のためか。

 それとも、本当に自分のためなのか。


 少しの沈黙のあと、セレスの声がした。


「少なくとも、あなた方のように“価値”から話を始める者に渡すためのものではありません」


 その言い方は真っ直ぐだった。


 ソラはほんの一瞬だけ、ほっとしかける。


 けれど次に続いた別の声――おそらくアルノーだ――が、そのわずかな安堵をすぐ消した。


「本件は研究院の管理下にあります。状態は安定、健康も維持され、適応観察も順調です。現時点で移送の必要は認められません」


 状態。

 健康維持。

 適応観察。


 やっぱりそうだ。


 守っている。

 でも同時に、管理している。

 観察している。


 ソラはぎゅっと拳を握った。


 扉一枚隔てた向こうで、自分が荷物みたいに扱われている。

 いや、荷物よりたちが悪い。

 高価な生き物。

 珍しい資源。

 そういうものとして、丁寧に丁寧に扱われている。


 腹が立つ。

 気持ち悪い。

 そして少しだけ、怖い。


「…最悪だ」


 小さく漏れた声に、外の足音が一つ近づいた。


 やばい、と思った時にはもう遅い。

 扉が二度、軽く叩かれる。


「ソラ」


 セレスの声だ。


 返事をするか、一瞬迷った。

 無視したい。

 聞いていなかったふりをしたい。

 でも今さらそれは無理だ。

 向こうだって、たぶん分かっている。


「何」


「入るわ」


 扉が開き、セレスが部屋へ入ってくる。

 廊下には外部の客人らしき気配がまだ残っているが、こちらまでは連れてこなかったらしい。

 そこだけは評価してもいい。


 ただ、今のソラはそんなことすら素直に思えなかった。


「聞いてた」


 セレスが扉を閉める前に、ソラは先に言った。


「ええ。たぶん、そうだろうと思った」


 落ち着いた返事だった。


 その落ち着きが、今は逆に腹立たしい。


「現物って何だよ」


「…」


「保持って何だよ。状態が安定って何だよ。俺、棚に置かれてんのか?」


 言葉が思ったより鋭く飛び出した。


 セレスはすぐには答えなかった。否定しない。その沈黙だけで、余計に痛い。


「ソラ」


「名前で呼べば誤魔化せると思うなよ」


「誤魔化すつもりはないわ」


「じゃあ答えろよ」


 ソラは一歩踏み出した。膝が少し痛む。だが今はどうでもよかった。


「外の奴らが最悪なのは分かる。価値だの引き取りだの、ふざけたこと言ってんのも分かる。でもお前らも同じじゃん。言葉が丁寧なだけで」


 セレスの翡翠の瞳が、わずかに揺れる。


 傷ついたようにも見えた。だが今は、そこへ気を遣いたくなかった。


「健康管理。適応観察。管理下。全部そうだろ」


「…ええ」


 認めるのかよ、と今度は別の意味で胸が詰まった。


「現時点では、否定できない」


「最悪だな」


「そうね」


「そこで同意すんなよ!」


 思わず声が裏返る。

 情けない。

 だがセレスは笑わなかった。


「私はあなたを、あの人たちに渡したくない」


「それ、前にも聞いた」


「ええ」


「でも俺を自由にしたいわけじゃない」


「今の私には、そこまで言えない」


 静かな声だった。

 逃げも言い訳もない。

 ただ事実だけを置く言い方。


 それがどれだけ誠実でも、痛いものは痛い。


「…だったら同じだろ」


 絞り出すように言う。


「渡したくない。囲っときたい。危ないから出せない。全部、自分の都合じゃん」


「あなたの安全も考えている」


「俺の意思は?」


 セレスが黙る。


 その沈黙が答えだった。


 喉がひどく熱くなる。

 怒りなのか悔しさなのか、もうよく分からない。

 ただ、このまま黙っているのは無理だった。


「お前さ」


 ソラは拳を握りしめた。


「俺を、自分のかごに入れておきたいだけだろ」


 言った瞬間、部屋の空気が完全に止まった。


 セレスが、ほんの一瞬だけ息を失う。

 目を見開き、すぐには何も言えない。


 その顔を見て、ソラは自分でも分からない感情に襲われた。


 やっと言えた気持ち。

 言いすぎたかもしれない後悔。

 でも撤回したくない意地。


 混ざり合って、胸の中がめちゃくちゃだった。


「…そう見えるのね」


 やがてセレスは、小さくそう言った。


 怒ってはいない。

 否定もしない。

 ただ、その一言がひどく重かった。


「見える」


「そう」


「違うなら違うって言えよ」


 セレスは唇を結んだ。

 答えようとして、答えを探して、見つけきれない顔だった。


「私は」


 声がかすかに掠れる。


「私は、あなたを守りたい」


「そのために閉じ込めるんだろ」


「今はそうするしかないと――」


「ほら!」


 ソラは遮った。


「そういうとこだよ。結局、俺がどうしたいかより先にお前が決める」


「…」


「優しい顔して、何でも俺のためみたいに言って、でも最後は絶対離さない」


 息が上がる。

 怒鳴っているわけではないのに、呼吸だけが荒くなる。


「だったら、外の奴らと何が違うんだよ」


 それを言った瞬間、セレスの顔がわずかに強張った。


 初めて、はっきり傷ついた顔だった。


 ソラもそれに気づいた。

 気づいたが、もう引き返せない。


 セレスはしばらく何も言わなかった。

 部屋の中には、遠くの廊下を行き交う足音だけがかすかに響く。


 やがて彼女は、ごく低い声で言った。


「違うと言い切りたかったわ」


「…」


「でも今の私には、それを完全には否定できない」


 ソラは言葉を失った。


 まさか、そこまで認めるとは思っていなかった。


 認めてしまえば、もっと楽になるわけじゃない。

 むしろ苦しいだけだ。

 なのにセレスは、そこから目を逸らさなかった。


「あなたを“渡したくない”と思った」


 彼女は続ける。


「それが保護責任だけではないことも、分かってしまった」


「それ、何だよ」


「分からないわ」


 即答だった。


「少なくとも、きれいなものではないかもしれない」


 その言葉が、ソラの胸の奥へ落ちる。


 恋だとか、愛だとか、そんな甘い名はまだつかない。

 もっと重くて、もっと厄介で、もっと間違っている何か。


 それをセレス自身も分かっているらしいことが、余計にやっかいだった。


「…俺は、それ嫌いだ」


「ええ」


「怖い」


 ぽろっと出た本音に、自分で一番驚いた。


 怖い。

 そうだ。怖かったのだ。

 好かれているかもしれないことじゃない。

 大事にされていることでもない。


 その大事さが、閉じ込める理由になることが。


 セレスはその言葉を聞いて、ゆっくり目を閉じた。長い睫毛が頬へ影を落とす。


「ごめんなさい」


 とても小さい声だった。


 ソラは息を呑む。


 この女が謝るところを、初めて見た気がした。


「…謝って済むなら楽だよな」


「楽ではないわ」


「だろうな」


「でも、怖がらせたことには謝るべきだと思ったの」


 ソラは視線を逸らす。


 胸の奥が、さっきまでとは違う意味で痛い。

 怒りだけで押し切れた方が、たぶん楽だった。

 セレスがもっとひどい奴なら、たぶん簡単だった。


 でも、そうじゃない。


 そうじゃないから、こんなに面倒なのだ。


 しばらくして、セレスが静かに言う。


「今日の面会は打ち切るわ」


「…へえ」


「あなたの前で、ああいう話はもうさせない」


「それじゃ根本的な解決にならないだろ」


「分かっている」


「分かってるなら――」


「でも、今の私にできるのはそこまで」


 またそれだ。

 今できること。

 現時点。

 段階。


 腹が立つ。だが、何もしていないわけではないのも分かってしまう。


 ソラは舌打ちし、寝台へ腰を落とした。

 さっきまで立っていたせいか、膝の奥が少し重い。


「好きにしろよ」


「そうするわ」


 セレスは扉の方へ向かいかけて、ふと止まる。


「ソラ」


「何」


「あなたが“怖い”と言ったこと、忘れない」


「忘れろよ」


「無理ね」


 振り返った顔は、少しだけ疲れて見えた。たぶんさっきの客人たちのせいだけではない。


「私が考えなければならないことだから」


 それだけ言って、今度こそ出ていく。


 扉が閉まり、部屋に静寂が戻った。


 ソラはしばらくそのまま動けなかった。

 怒っている。

 腹も立っている。

 でも、それだけでは終わらない。


 自分の言葉でセレスを傷つけた手応えが、変に残っていた。

 いや、傷つけたくなかったわけじゃない。

 分からせたかった。

 ぶつけたかった。

 黙っていたら、自分の方が先に擦り減る気がしたから。


 なのに。


「…なんだよこれ」


 ぼそっと呟く。


 勝った感じがしない。

 言いたいことは言った。

 でも全然すっきりしない。


 窓の向こう、夕方の光が少しずつ赤く傾いていく。

 研究院の庭は相変わらず綺麗だ。

 平和で、整っていて、気持ち悪いくらい穏やかだ。


 その穏やかさの中で、自分だけが“人間の男”として欲しがられている。


 聖環教国。

 竜侯国。

 商盟。

 名前しか知らない相手にまで、自分は何かの価値として見られている。


 気持ち悪い。


 そして、ここにいる限り、それは終わらない。


「…俺は、一人の人間なんだけどな」


 ぽつりとこぼす。


 前の世界では、それで足りていた。

 ただの名前で。

 クラスに一人の、どこにでもいるような男子高校生で。

 誰かに価値を見積もられることもなく、珍しいものとして触れられることもなく。


 それが今は、ただの名前でいることの方が難しい。


 ソラは寝台へ倒れ込み、腕で目元を覆った。


 このままここにいたら、たぶんずっとそうだ。

 大事にされる。

 守られる。

 でも“自分”ではなく、希少な何かとして扱われる。


 そんなのは嫌だ。


 絶対に嫌だ。


 その思いだけが、さっきよりもはっきり胸の中に残った。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。

引き続きよろしくお願いいたします。

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