「人間の男は高く売れる」
傷は浅いのに、妙に動きづらい日というものがある。
翌日のソラは、まさにそれだった。
膝の痛み自体は前日より引いている。
歩くだけなら問題ない。
階段だって、たぶん手すりがあればいける。
なのに研究院側はやたら慎重で、午前の行動範囲はまた西廊下までに制限された。
昨日の件が響いているのは明らかだった。
「過保護すぎるだろ」
昼前、窓辺の椅子へ腰を下ろしたままソラが呟くと、扉の外から即座に返事が来た。
「適正だ」
ガルフだった。
「会話聞いてたのかよ!」
「聞こえた」
「最悪だ!」
「知っている」
最近こればっかだな、とソラは思う。
研究院は広い。
廊下は長い。
部屋は上等。
なのに気配は近い。
誰かしらが常にこちらを見ていて、常に体調も行動も把握されている。
放っておかれない。
雑にも扱われない。
でも、一人にはなれない。
この窒息しそうな感じを、どう説明すればいいのか、ソラはまだうまく言えなかった。
机の上には果物と薬湯、それから昼食前の軽い菓子まで置かれている。
膝を打っただけでこの手厚さだ。
病弱な小鳥か何かだと思われているんじゃないかと本気で疑う。
「…かごの中の鳥って、こんな感じなのかな」
ぽつりと漏らして、自分で少しだけ嫌になる。
その時、廊下の奥から複数の足音が聞こえた。
研究員のそれではない。
もっと整っていて、歩幅も揃っている。
客人か、あるいはそれに近い立場の人間たちの歩き方だ。
ソラは反射的に顔を上げた。
足音はそのまま通り過ぎず、西廊下の途中で止まる。
低い声。
女ばかりだ。
ひとりは研究院の職員で、もうひとりは外の人間らしい。
言葉の抑え方が違う。
「本日は面会を許可できません」
「承知の上で来ています。こちらは聖環教国の正式な照会状です」
「照会に対する回答は文書で返送済みです」
「文書では足りません。現物の状態確認が必要です」
現物。
ソラの背筋がひやりとした。
現物ってなんだ。
いや、考えるまでもなく嫌な予感しかしない。
椅子から立ち上がり、扉へ近づく。
もちろん開けはしない。
耳を寄せるわけにもいかない。
そんなことをすれば外のガルフに即座に気づかれる。
だから呼吸を殺して、普通に部屋の中へいるふりをしながら聞く。
「管理責任は研究院側にあります」
「保護責任にも優先順位があります。原初人種の男を、学術機関が単独で保持し続けるのは不適切では?」
「その表現は訂正を願います。“保持”ではありません」
「では何です?」
「保護と管理です」
聞き覚えのある声だった。
セレスだ。
ソラの喉が、ひどく嫌な形で乾く。
外の相手はすぐに返した。
「言い換えに過ぎませんね」
「少なくとも、売買や宗教利用を前提にした引き取り要求よりは健全です」
「ずいぶん棘のある言い方をなさる」
「事実の確認です」
空気が冷えているのが、扉越しでも分かった。
ソラは壁に背をつけた。
心臓が変に速い。
現物、保持、引き取り。全部、自分のことだ。
名前は出ない。
ソラではなく、“原初人種の男”として話されている。
息苦しい。
それでも、耳は勝手に次を拾う。
「竜侯国側も正式な照会を準備しています」
「知っています」
「商盟も水面下で接触を試みていると」
「それも」
「ならばなおさら、研究院のみで抱え込める案件ではないでしょう」
「抱え込んでいるつもりはありません」
「ではなぜ公開しないのですか?」
「公開は保護と両立しません」
「それは、誰のための保護ですか?」
言葉が、一つひとつ胸の奥へ刺さる。
誰のための保護。
それはソラも知りたい。
セレスのためか。
研究院のためか。
制度のためか。
それとも、本当に自分のためなのか。
少しの沈黙のあと、セレスの声がした。
「少なくとも、あなた方のように“価値”から話を始める者に渡すためのものではありません」
その言い方は真っ直ぐだった。
ソラはほんの一瞬だけ、ほっとしかける。
けれど次に続いた別の声――おそらくアルノーだ――が、そのわずかな安堵をすぐ消した。
「本件は研究院の管理下にあります。状態は安定、健康も維持され、適応観察も順調です。現時点で移送の必要は認められません」
状態。
健康維持。
適応観察。
やっぱりそうだ。
守っている。
でも同時に、管理している。
観察している。
ソラはぎゅっと拳を握った。
扉一枚隔てた向こうで、自分が荷物みたいに扱われている。
いや、荷物よりたちが悪い。
高価な生き物。
珍しい資源。
そういうものとして、丁寧に丁寧に扱われている。
腹が立つ。
気持ち悪い。
そして少しだけ、怖い。
「…最悪だ」
小さく漏れた声に、外の足音が一つ近づいた。
やばい、と思った時にはもう遅い。
扉が二度、軽く叩かれる。
「ソラ」
セレスの声だ。
返事をするか、一瞬迷った。
無視したい。
聞いていなかったふりをしたい。
でも今さらそれは無理だ。
向こうだって、たぶん分かっている。
「何」
「入るわ」
扉が開き、セレスが部屋へ入ってくる。
廊下には外部の客人らしき気配がまだ残っているが、こちらまでは連れてこなかったらしい。
そこだけは評価してもいい。
ただ、今のソラはそんなことすら素直に思えなかった。
「聞いてた」
セレスが扉を閉める前に、ソラは先に言った。
「ええ。たぶん、そうだろうと思った」
落ち着いた返事だった。
その落ち着きが、今は逆に腹立たしい。
「現物って何だよ」
「…」
「保持って何だよ。状態が安定って何だよ。俺、棚に置かれてんのか?」
言葉が思ったより鋭く飛び出した。
セレスはすぐには答えなかった。否定しない。その沈黙だけで、余計に痛い。
「ソラ」
「名前で呼べば誤魔化せると思うなよ」
「誤魔化すつもりはないわ」
「じゃあ答えろよ」
ソラは一歩踏み出した。膝が少し痛む。だが今はどうでもよかった。
「外の奴らが最悪なのは分かる。価値だの引き取りだの、ふざけたこと言ってんのも分かる。でもお前らも同じじゃん。言葉が丁寧なだけで」
セレスの翡翠の瞳が、わずかに揺れる。
傷ついたようにも見えた。だが今は、そこへ気を遣いたくなかった。
「健康管理。適応観察。管理下。全部そうだろ」
「…ええ」
認めるのかよ、と今度は別の意味で胸が詰まった。
「現時点では、否定できない」
「最悪だな」
「そうね」
「そこで同意すんなよ!」
思わず声が裏返る。
情けない。
だがセレスは笑わなかった。
「私はあなたを、あの人たちに渡したくない」
「それ、前にも聞いた」
「ええ」
「でも俺を自由にしたいわけじゃない」
「今の私には、そこまで言えない」
静かな声だった。
逃げも言い訳もない。
ただ事実だけを置く言い方。
それがどれだけ誠実でも、痛いものは痛い。
「…だったら同じだろ」
絞り出すように言う。
「渡したくない。囲っときたい。危ないから出せない。全部、自分の都合じゃん」
「あなたの安全も考えている」
「俺の意思は?」
セレスが黙る。
その沈黙が答えだった。
喉がひどく熱くなる。
怒りなのか悔しさなのか、もうよく分からない。
ただ、このまま黙っているのは無理だった。
「お前さ」
ソラは拳を握りしめた。
「俺を、自分のかごに入れておきたいだけだろ」
言った瞬間、部屋の空気が完全に止まった。
セレスが、ほんの一瞬だけ息を失う。
目を見開き、すぐには何も言えない。
その顔を見て、ソラは自分でも分からない感情に襲われた。
やっと言えた気持ち。
言いすぎたかもしれない後悔。
でも撤回したくない意地。
混ざり合って、胸の中がめちゃくちゃだった。
「…そう見えるのね」
やがてセレスは、小さくそう言った。
怒ってはいない。
否定もしない。
ただ、その一言がひどく重かった。
「見える」
「そう」
「違うなら違うって言えよ」
セレスは唇を結んだ。
答えようとして、答えを探して、見つけきれない顔だった。
「私は」
声がかすかに掠れる。
「私は、あなたを守りたい」
「そのために閉じ込めるんだろ」
「今はそうするしかないと――」
「ほら!」
ソラは遮った。
「そういうとこだよ。結局、俺がどうしたいかより先にお前が決める」
「…」
「優しい顔して、何でも俺のためみたいに言って、でも最後は絶対離さない」
息が上がる。
怒鳴っているわけではないのに、呼吸だけが荒くなる。
「だったら、外の奴らと何が違うんだよ」
それを言った瞬間、セレスの顔がわずかに強張った。
初めて、はっきり傷ついた顔だった。
ソラもそれに気づいた。
気づいたが、もう引き返せない。
セレスはしばらく何も言わなかった。
部屋の中には、遠くの廊下を行き交う足音だけがかすかに響く。
やがて彼女は、ごく低い声で言った。
「違うと言い切りたかったわ」
「…」
「でも今の私には、それを完全には否定できない」
ソラは言葉を失った。
まさか、そこまで認めるとは思っていなかった。
認めてしまえば、もっと楽になるわけじゃない。
むしろ苦しいだけだ。
なのにセレスは、そこから目を逸らさなかった。
「あなたを“渡したくない”と思った」
彼女は続ける。
「それが保護責任だけではないことも、分かってしまった」
「それ、何だよ」
「分からないわ」
即答だった。
「少なくとも、きれいなものではないかもしれない」
その言葉が、ソラの胸の奥へ落ちる。
恋だとか、愛だとか、そんな甘い名はまだつかない。
もっと重くて、もっと厄介で、もっと間違っている何か。
それをセレス自身も分かっているらしいことが、余計にやっかいだった。
「…俺は、それ嫌いだ」
「ええ」
「怖い」
ぽろっと出た本音に、自分で一番驚いた。
怖い。
そうだ。怖かったのだ。
好かれているかもしれないことじゃない。
大事にされていることでもない。
その大事さが、閉じ込める理由になることが。
セレスはその言葉を聞いて、ゆっくり目を閉じた。長い睫毛が頬へ影を落とす。
「ごめんなさい」
とても小さい声だった。
ソラは息を呑む。
この女が謝るところを、初めて見た気がした。
「…謝って済むなら楽だよな」
「楽ではないわ」
「だろうな」
「でも、怖がらせたことには謝るべきだと思ったの」
ソラは視線を逸らす。
胸の奥が、さっきまでとは違う意味で痛い。
怒りだけで押し切れた方が、たぶん楽だった。
セレスがもっとひどい奴なら、たぶん簡単だった。
でも、そうじゃない。
そうじゃないから、こんなに面倒なのだ。
しばらくして、セレスが静かに言う。
「今日の面会は打ち切るわ」
「…へえ」
「あなたの前で、ああいう話はもうさせない」
「それじゃ根本的な解決にならないだろ」
「分かっている」
「分かってるなら――」
「でも、今の私にできるのはそこまで」
またそれだ。
今できること。
現時点。
段階。
腹が立つ。だが、何もしていないわけではないのも分かってしまう。
ソラは舌打ちし、寝台へ腰を落とした。
さっきまで立っていたせいか、膝の奥が少し重い。
「好きにしろよ」
「そうするわ」
セレスは扉の方へ向かいかけて、ふと止まる。
「ソラ」
「何」
「あなたが“怖い”と言ったこと、忘れない」
「忘れろよ」
「無理ね」
振り返った顔は、少しだけ疲れて見えた。たぶんさっきの客人たちのせいだけではない。
「私が考えなければならないことだから」
それだけ言って、今度こそ出ていく。
扉が閉まり、部屋に静寂が戻った。
ソラはしばらくそのまま動けなかった。
怒っている。
腹も立っている。
でも、それだけでは終わらない。
自分の言葉でセレスを傷つけた手応えが、変に残っていた。
いや、傷つけたくなかったわけじゃない。
分からせたかった。
ぶつけたかった。
黙っていたら、自分の方が先に擦り減る気がしたから。
なのに。
「…なんだよこれ」
ぼそっと呟く。
勝った感じがしない。
言いたいことは言った。
でも全然すっきりしない。
窓の向こう、夕方の光が少しずつ赤く傾いていく。
研究院の庭は相変わらず綺麗だ。
平和で、整っていて、気持ち悪いくらい穏やかだ。
その穏やかさの中で、自分だけが“人間の男”として欲しがられている。
聖環教国。
竜侯国。
商盟。
名前しか知らない相手にまで、自分は何かの価値として見られている。
気持ち悪い。
そして、ここにいる限り、それは終わらない。
「…俺は、一人の人間なんだけどな」
ぽつりとこぼす。
前の世界では、それで足りていた。
ただの名前で。
クラスに一人の、どこにでもいるような男子高校生で。
誰かに価値を見積もられることもなく、珍しいものとして触れられることもなく。
それが今は、ただの名前でいることの方が難しい。
ソラは寝台へ倒れ込み、腕で目元を覆った。
このままここにいたら、たぶんずっとそうだ。
大事にされる。
守られる。
でも“自分”ではなく、希少な何かとして扱われる。
そんなのは嫌だ。
絶対に嫌だ。
その思いだけが、さっきよりもはっきり胸の中に残った。
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