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人間飼育記録:ポンコツ個体は今日も脱走に失敗する  作者: きなこもち
第1章 『檻の中の脱走計画』

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5/12

「檻の中にも弱いものはいる」

 


 翌朝、ソラは自分でも嫌になるくらい普通に朝食を食べた。


 昨日の夜の会話が効いたのか、単に空腹に負けただけなのか、自分でもよく分からない。

 分からないが、焼きたての薄いパンに蜂蜜を塗って二枚目へ手を伸ばした時点で、少なくとも食欲は健在だった。


「元気だねえ」


 向かいでパルナが湯を注ぎながら言う。


「失礼だな。いつも元気だろ」


「池に落ちた翌朝とは思えないって意味さ」


「もう昨日の話だろ」


「昨日の話だから言ってんだよ」


 正論だった。


 ソラはむっとしながらも、パンをちぎって口へ入れる。

 研究院の朝食は腹立たしいくらい手が込んでいる。

 焼き加減も、蜂蜜の量も、温かい飲み物の温度までちょうどいい。

 こういうところまで完璧だと、もはや嫌がらせに思えてくる。


 パルナは果物皿をテーブルへ置いた。やはり柑橘は入っていない。


 ソラがじっと皿を見ていると、パルナがにやりとした。


「何だい」


「…別に」


「素直に“ありがとう”って言えばいいのに」


「言わない」


「可愛げがないねえ」


「可愛がられたくもない」


「はいはい」


 軽く流されて、ソラは鼻を鳴らした。


 だが、本題はそこではなかった。


 昨夜から、頭の片隅にずっと引っかかっているものがある。

 前に脱走未遂で見かけた、普段は通らない区画。

 閉ざされた扉。

 小さな物音。

 ガルフが「見るな」と言ったあの一角。


 気になる。


 というか、気にしないようにする方が無理だ。


「なあ、パルナ」


「何だい」


「西廊下の奥って、何の区画なんだ」


 パルナの手がほんの少し止まった。

 ほんの少しだが、ソラは見逃さなかった。


「どこのことだい」


「とぼけんなよ。洗濯室の先、普段閉じてる方のだよ」


「…気にしなくていい場所さ」


「そう言われると余計に気になるんだが…」


「気になっても駄目なもんは駄目」


「何があるんだよ」


 パルナは答えなかった。代わりに、少しだけ真面目な顔になる。


「あんたが知ったところで、いいことにはならないよ」


「俺にとって?」


「たぶん、みんなにとってさ」


 その言い方が、妙に引っかかった。


 ソラは口の中のパンを飲み込み、テーブルへ肘をつく。


「それ、俺みたいなのが他にもいるってこと?」


「そういうんじゃない」


「じゃあ何」


「ソラ」


 今度はパルナが、少しだけ低い声で名前を呼んだ。


 その響きに、ソラは黙る。

 冗談では流せない時の声だ。


「あんたは、自分のことで手いっぱいでいなさい」


「それができるなら苦労してない」


「してないねえ…」


 パルナは困ったように目尻を下げた。


 その顔は、完全に否定ではなかった。

 つまり、何かはある。

 そしてたぶん、“見ない方がいい”と思われている。


 だったらなおさら見たくなるのが、ソラという人間だった。


 ◇


 午前の終わり頃、廊下の一角で小さな騒ぎが起きた。


 ソラはちょうど許可された西廊下をぶらついていた。

 表向きは散歩、実際には人の動きの観察である。

 洗濯室の前を何度目かに通った時、中からバタバタと慌ただしい足音が聞こえた。


「ちょっと、結界の調整誰がやったの!」

「先に搬入を止めて!」

「いや、そっちじゃない、管理箱の方!」


 珍しく職員たちの声が尖っている。


 ソラは足を止めた。

 廊下の角から、洗濯室のさらに奥へ続く通路が半分だけ見える。

 普段は閉じている扉が、今は開いていた。


 淡い青白い光。

 結界の明滅。

 それと、かすかな鳴き声。


 鳴き声?


 ソラは反射的に一歩踏み出した。


 すぐ横から低い声が飛ぶ。


「止まれ」


 ガルフだ。


 いつの間にいたんだよ、と言いかける前に、その手がソラの肩を軽く押さえた。


「向こうへ行くな」


「何があったんだよ」


「関係ない」


「俺が見たら困ること?」


「そうだ」


 あまりにもはっきり言われて、ソラは眉をしかめた。


 通路の先では、研究員らしき女性が二人、結界の調整盤を操作している。

 その足元には、細い銀の枠で囲われた小型の透明箱がいくつか並んでいた。


 箱。


 その言葉だけで、喉の奥がざらつく。


「…何が入ってんの?」


「ソラ」


「何」


「戻れ」


「答えろよ」


 ガルフの声は低い。強く押しつけてくるわけではないのに、動けなくなる圧がある。


 だが、その一瞬の隙に、ソラは見てしまった。


 通路の奥、ひとつだけ開きかけた管理箱の中。

 白くて小さな、羽毛のようなものがばたついている。

 鳥…いや、鳥に似た何かだ。

 翼はあるが、羽の先に淡い光が宿っていて、目だけがやけに大きい。


 しかもかなり怯えている。

 箱の隅へ身体を押しつけ、結界の明滅に合わせて小さく震えていた。


 ソラは思わず息を呑んだ。


 丁寧に管理されている。

 箱は清潔で、餌も水も入っている。

 でも、怯えている。


 それは妙に、見覚えのある光景だった。


「…俺と同じじゃん」


 ぽつりと漏れた声を、ガルフは聞き逃さなかった。


「違う」


「何が」


「お前とは違う」


「箱に入ってんのは同じだろ」


「ソラ」


「しかも“保護”なんだろ。丁寧に世話して、逃げないようにして、弱いからって」


 言っているうちに、自分でも声が尖っていくのが分かった。

 腹立たしい。

 何に腹が立っているのかも、半分くらいしか整理できていないのに、とにかく腹立たしかった。


 ガルフは短く息をついた。


「お前は感情移入しすぎている」


「お前らは冷たすぎる」


「仕事だ」


「便利な言葉だな」


 昨日の自分がセレスに吐いたのと同じようなことを、今度はガルフに言っている。

 少しだけおかしくて、でも笑えなかった。


 その時だった。


 ばちり、と嫌な音がした。


 通路奥の結界が、一瞬だけ強く明滅する。

 研究員の一人が「待って!」と叫ぶ。

 次の瞬間、開きかけていた小型の管理箱が完全に弾かれて、軽い音を立てて倒れた。


 小さな白い生き物が、箱から飛び出す。


 といっても、飛ぶというより、転がるに近い。

 翼がうまく広がらないのか、石床の上でもつれるように跳ねて、そのまま通路の端へ追い詰められた。


 結界の明滅が続く。

 怯えきった鳴き声。

 研究員たちの慌てた声。


 ソラはほとんど反射で、ガルフの手を振り切っていた。


「おい!」


 背後でガルフが叫ぶ。


 だがもう遅い。

 ソラは通路へ飛び込んでいた。

 自分でも何をしているのか半分分からない。

 逃げたいだの自由だの言っているくせに、どうしてこういう時に足が勝手に動くのか、本当に分からない。


 白い小型種は、通路の隅でぶるぶる震えていた。

 目が合った瞬間、その瞳がさらに大きく見開かれる。

 怯えている。結界にも、人にも、たぶんこの状況全部に。


「大丈夫、って言っても通じねえか…」


 ソラはしゃがみ込んだ。


 後ろでは研究員たちが調整盤と格闘している。

 結界が不安定なせいで、むやみに近寄ると逆に弾かれるらしい。ガルフが舌打ちする音が聞こえた。


「ソラ、下がれ!」


「今は無理!」


 白い生き物が、さらに奥へ逃げようと羽をばたつかせる。

 だが石床で滑り、うまく動けない。

 翼の片方が少し赤くなっている。たぶん管理箱が倒れた時にぶつけたのだ。


 放っておけるか、そんなの。


 ソラは毛布も何もない素手のまま、そっと手を伸ばした。

 怯えさせないように、できるだけ低く、ゆっくりと。

 何の知識があるわけでもない。

 ただ、自分だったら急に大きな手を出されたら嫌だなと思っただけだ。


 白い生き物はぎりぎりまで身を縮め、最後には観念したように小さく鳴いた。


「よし、よし…」


 ようやく指先が触れた、その時。


 足元で結界がまた不規則に走った。


 青白い光が石床を舐め、ソラは反射的に身をひねる。

 だが避けきれない。ぱちん、と鋭い痛みが脛を打った。


「っ、い…!」


 バランスが崩れる。


 前につんのめり、膝を強く床へ打ちつける。

 痛みがずんと響いた。

 白い小型種が、びくっと跳ねる。


「ソラ!」


 今度の声はガルフではなく、もっと近い位置からだった。


 振り向く間もなく、通路へ銀金の影が滑り込んでくる。


 セレスだ。


 どうしてここにと思うより早く、彼女は状況を一目で把握したらしい。

 研究員へ短く指示を飛ばしながら、まっすぐソラの方へ来る。


「調整を停止して。部分解除は東側から、今すぐ」

「し、しかし、管理個体が」

「そちらは私がやるわ」


 声が硬い。


 セレスがこんなふうに命令を飛ばすのを、ソラはあまり見たことがなかった。

 いつもは静かでも、もっと温度のある口調だ。

 今はそれがほとんど削ぎ落ちている。


 彼女はソラの前へ膝をつくと、まず白い小型種ではなく、ソラの脛と膝を見た。


「どこを打ったの」


「今それかよ!?」


「そうよ」


 ものすごい既視感のあるやり取りだった。


 だが今のセレスは、池の時よりさらに怖い。

 声が低く、顔色まで薄く見える。

 怒っているのではない。

 たぶん、怒るより先の何かだ。


「足首は?」


「平気」

「膝」

「打った」

「痺れは」

「ない!」


「そう」


 短く確認してから、セレスはようやく白い小型種の方へ視線を向けた。

 すると不思議なことに、その生き物はソラの足元から離れず、震えたまま縮こまっている。


 セレスは少しだけ目を見開き、それからごく静かに息を吐いた。


「あなた、どうして…」


 言いかけて、やめる。


 代わりに彼女は、自分の羽織の裾を外し、小型種をやわらかく包んだ。

 さっきソラへかけた時と同じ手つきだった。

 乱暴さが一切ない。

 包まれた白い生き物は、小さく鳴いて動きを止める。


 結界の明滅がようやく落ち着く。研究員たちが安堵の息を漏らした。


 ガルフがすぐ横まで来て、ソラを睨み下ろす。


「言ったよな。下がれと」


「…うるさい」


「怪我人が増えたら意味がない」


「見てるだけなんて無理だった」


「そういうところだ」


 呆れ半分、本気半分の声だった。


 セレスは羽織にくるんだ小型種を研究員へ渡し、それからソラへ向き直る。

 翡翠の瞳が、まっすぐこちらを捉える。


 その瞬間、ソラは妙な居心地の悪さを覚えた。


 怒られる。

 たぶん今度こそちゃんと怒られる。


 だがセレスの顔には、怒りよりもっと切迫したものがあった。


「立てる?」


「立てる」


「嘘ね」


 即答だった。


 ソラが言い返す前に、セレスの手が脇へ差し入れられる。

 支えられて立ち上がるしかない。

 膝にずきりと痛みが走り、思わず顔が歪んだ。


「ほら」


「…平気だって」


「その顔で?」


「お前、そういうとこほんと嫌い」


「私も今のあなたの行動はかなり嫌いよ」


 低い声だった。


 けれどその直後、セレスは少しだけ呼吸を乱したように見えた。

 ごく小さなことなのに、ソラはそれに気づいてしまう。


 怖がっている。


 この女、今たぶん、本気で怖がっていた。


「どうしてあなたは」


 セレスが言いかける。


 その声はさっきよりずっと静かで、だからこそ余計に重かった。


「どうしてあなたは、自分が傷つく方を選ぶの」


 問いかけられて、ソラは言葉を失った。


 言い返したかった。

 選んでねえよ、勝手に足が動いただけだ、とか。

 目の前であんなの見たら無理だろ、とか。

 お前らだって保護とか言うくせに、とか。


 でも、うまくまとまらない。


 自分でもなぜ戻ったのか、完全には説明できなかったからだ。


 逃げる隙なら、あったかもしれない。

 少なくとも、あの小さな白い生き物に手を伸ばした瞬間、ソラは自分の逃亡計画をぜんぶ忘れていた。


 ただ、見捨てたくなかった。


 それだけだった。


「…知らない」


 ようやく出たのは、情けないくらい頼りない答えだった。


 セレスの眉がわずかに寄る。


 怒ったわけではない。

 失望でもない。


 もっと別の、どうしようもないものを前にした顔だ。


「知らない、じゃないだろ」


 と、横からガルフがぼそっと言った。


「お前は毎回そうだ。計算より先に情で動く」


「悪いかよ」


「悪い」


 間髪入れない即答に、ソラは歯を食いしばる。


 だがその前に、セレスが静かに口を開いた。


「悪いとは言っていないわ」


 ガルフが一瞬だけ黙る。


 セレスはソラから目を逸らさなかった。


「でも、怖いの」


 その一言は、奇妙なほど真っ直ぐだった。


 ソラは息を止めた。


 怖い。


 この女が、そんなふうに言うのか。


「あなたは弱いのに、自分でそれを忘れるでしょう」


 セレスの手が、ソラの腕を支えたまま少しだけ強くなる。


「痛みも、限界も、危険も。見えなくなるくらい、目の前のものに手を伸ばす」


「…」


「それが、怖いのよ」


 ガルフも、周囲の研究員たちも、その瞬間だけ妙に遠く感じた。


 通路の空気がひどく静かになる。

 結界の調整音すら、どこか離れたところの出来事みたいだった。


 ソラは自分の脈が変に早くなっているのを感じた。

 怒鳴られたわけでもない。

 責められたわけでもない。


 ただ、怖いと言われただけ。


 なのに、妙に胸の奥へ入ってくる。


「…知らねえよ、そんなの」


 かろうじてそう返すと、セレスは小さく目を伏せた。


「ええ。あなたはそうでしょうね」


 その言い方は、責めるでも諦めるでもなく、ただ認めるようだった。


 それがまた、ソラにはどうにも落ち着かなかった。


 ◇


 部屋へ戻されたあと、膝に湿布代わりの薬布を貼られ、脛の赤くなった場所にも処置をされ、ついでにしばらく安静命令まで追加された。


 踏んだり蹴ったりである。


 寝台の端に座ったまま、ソラは唸った。


「くそ…」


 膝がじんじんする。


 動けないほどではない。

 けれど走れば確実に響く痛みだ。

 今日中の脱走は無理。

 いや、もともと今日やるつもりはなかったけれど、可能性を勝手に潰されると腹が立つ。


 机の上には新しい薬湯。

 テーブルには軽めの夕食。

 扉の外にはたぶんガルフか別の警備。

 完璧すぎて笑えてくる。


 でも一番腹立たしいのは、あの通路での自分だった。


 何やってんだよ、ほんとに。


 逃げたいんじゃなかったのか。

 自由になりたいんじゃなかったのか。

 それなのに、目の前で怯えてるものがいたら、そっちへ行く。自分でも馬鹿みたいだと思う。


 だが、じゃあ見捨てられたかと問われれば、たぶん無理だ。


「最悪…」


 小さく呟く。


 その声に応えるように、扉が控えめに叩かれた。


「入るわ」


 返事を待たずにセレスが入ってくる。


 今日は何度も会っているのに、来るたびに空気が変わる女だな、とソラは思った。

 今のセレスは研究室にいた時とも、通路で見た時とも違う。

 少しだけ疲れて見える。

 けれど背筋はきれいに伸びたままだ。


「何」


「薬は飲んだ?」


「まだ」


「先に飲みなさい」


「また?」


「また、よ」


 ソラは渋い顔をしながらも薬湯を手に取った。

 苦い。

 毎回思うが、本当に苦い。

 これだけ管理が行き届いているなら、味の改良もしてほしい。


 飲み終えると、セレスは空の杯を受け取った。

 細い指がふちに沿う。


「…あれ、何だったんだ」


 ソラがふいに訊くと、セレスは少しだけ首を傾げた。


「何が」


「今日の白いやつ」


 セレスは杯を机へ置き、少し考えるように沈黙した。


「ルミナ鳥の幼体よ」


「鳥なんだ」


「半分くらいは」


「半分?」


「説明すると長いわ」


「じゃあ今度でいい」


 言ってから、自分で“今度”と言ったことに少し引っかかった。

 今度も聞くつもりみたいじゃないか。

 実際たぶん聞くのだが。


 セレスは小さく頷く。


「生まれつき結界波に弱い種なの。調整が乱れると、強い刺激になる」


「じゃああそこで管理すんなよ」


「だから本来はああならないようにしているのよ」


「今日なってたけど」


「そうね」


 そこは否定しない。


 ソラは鼻を鳴らした。


「怯えてた」


「ええ」


「俺、なんか…見てらんなかった」


 自分で言うのも変な感じだったが、他に言い方がなかった。


 セレスはしばらく黙っていた。やがて、静かな声で言う。


「そういうところが、あなたらしいのだと思う」


「褒めるなって」


「褒めてはいないわ」


「じゃあ何だよ」


「困っているの」


 その返事に、ソラは思わず顔を上げた。


 セレスは笑っていない。

 ごまかしてもいない。

 本当に困っている顔だった。


「私はあなたを危険から遠ざけたい。でも、あなたは目の前に弱いものがいれば手を伸ばしてしまう。そこを削ってしまったら、あなたはあなたでなくなる気もする」


「…」


「だから困るの」


 真面目すぎるだろ、と思う。


 こんな話を、こんな顔でするな。

 もっと適当に流してくれた方が楽なのに。


 ソラは視線を逸らした。


「知らねえよ。俺だって困ってるし」


「そうでしょうね」


「逃げたいのに、余計なことばっかしてる」


「余計、ではないと私は思うけれど」


「俺にとっては余計なんだよ。毎回そこで計画狂うんだから」


「そこは改善しなさい」


「冷静だな、おい」


「改善点があるのは事実でしょう」


 ほんの少しだけ、会話の温度が戻る。


 それだけで、さっきまで胸にあった変な重さが少しだけ薄れた。


 セレスは寝台の脇に立ったまま、ソラの膝へ視線を落とす。


「痛みは?」


「ある」


「歩ける?」


「歩けるけど走れない」


「走らなくて結構」


「俺にそれ言う?」


「言うわ」


 即答だった。


 ソラは毛布を引っ張り寄せ、膝の上へかける。

 セレスの視線がまだそこにあるのが妙に落ち着かない。


「…なあ」


「なに」


「さっきの」


「どれかしら」


「怖い、ってやつ」


 自分からそこへ触れるのは、少しだけ勇気が要った。

 触れない方が楽だ。

 楽だが、さっきから引っかかって仕方ない。


 セレスは少しだけ間を置いた。


「本心よ」


「俺、お前にそんなふうに言われる筋合いある?」


「あるとかないとかではなく、そう感じたの」


「…」


「今日だけじゃないわ。前から何度も」


 池。

 通気口。

 外壁。

 魔獣。

 思い当たる節が多すぎて、ソラは黙った。


「あなた、自分の限界を低く見積もるのではなく、忘れるでしょう」


 セレスは静かに続ける。


「弱いことを恥じているからかもしれない。けれど、弱いことと無謀であることは別よ」


「分かってる」


「分かっているなら、もう少し考えて」


「だから考えてるって」


「今日の行動は?」


「…考えてなかった」


 言わされた感がすごい。

 でも否定できない。


 セレスはそこでようやく、小さく息をついた。

 叱責というより、力が抜けたような息だった。


「なら、次は考えて」


「次がある前提なんだ」


「あなたがやめるとは思っていないもの」


「信用されてんのかされてないのか分かんねえな」


「その両方かもしれないわ」


 ソラは少しだけ口元を歪めた。

 セレスもほんのわずか、目元をやわらげる。


 長い沈黙が落ちる。


 だがさっきまでの沈黙とは少し違った。

 刺さるような重さはなく、ただ、お互い何かを持て余している感じだ。


「…あのさ」


 ソラは毛布の端をいじりながら、小さく言った。


「今日のあれ、見てて思ったんだけど」


「ええ」


「丁寧に世話してても、怯えるもんは怯えるんだな」


 セレスは答えなかった。


 ただ、その沈黙自体が答えみたいだった。


「だから俺、やっぱここ嫌いだ」


「そうでしょうね」


「でも、あの白いやつにとっては、あそこが安全なんだろ」


「…ええ」


「それも分かる」


 分かる、という言葉を口にした瞬間、胸の中に妙な苦さが広がった。


 分かってしまうのだ。

 危険な外に出せないという理屈も。

 弱いものを守るために管理するという理屈も。


 分かった上で、それでも嫌だと思ってしまう。


 だからこんなに厄介なのだ。


「分かるのに嫌なんだよ」


 吐き出すように言うと、セレスは少しだけ目を伏せた。


「ええ」


「それが一番むかつく」


「そうでしょうね」


 また同じ答えだ。

 なのに、今はそれが少しだけ救いに思えてしまう。


 嫌になる。


 セレスはしばらく立ったまま黙っていたが、やがてソラの膝の上の毛布をほんの少しだけ整えた。

 子ども扱いするなと言いたくなるような仕草なのに、不思議と今はその気になれない。


「今日はもう、何もしないで休みなさい」


「命令?」


「助言」


「また都合よく分ける」


「必要な区別よ」


 セレスはそう言って手を離した。


 その手が離れる瞬間、なぜかほんの少しだけ、空気が冷えた気がした。

 気のせいだろう。

 たぶん。


 扉へ向かう背中を見ながら、ソラはぼそっと言う。


「…なあ、セレス」


 彼女は振り返る。


 名前を呼んだのは自分なのに、少しだけ心臓が変な鳴り方をした。


「何かあっても、毎回そんな顔すんなよ」


「そんな顔?」


「怖がってる顔」


 言ってしまってから、ちょっと余計だったかもしれないと思う。


 だがセレスは怒らなかった。驚いたように一度目を瞬き、それからごく小さく息を吐く。


「努力はするわ」


「できてないじゃん」


「難しいもの」


 その返事が思いのほか素直で、ソラは返す言葉を失った。


 セレスは今度こそ扉を開ける。

 出ていく直前、こちらを見ずに言った。


「あなたが傷つくのは、本当に嫌なの」


 それだけ残して、扉は静かに閉まった。


 部屋に沈黙が戻る。


 ソラはしばらく、その閉じた扉を見つめていた。


 嫌だ、と思う。


 そういうことを言うな。

 そういう言い方をするな。

 逃げにくくなるだろ。


 けれど同時に、胸の奥のどこかが少しだけ熱を持ったみたいで、それが余計に気に入らなかった。


「…ほんと、最悪だ」


 独り言は誰にも届かない。


 だが、その夜ソラは眠りにつく直前まで、白い小型種の震えと、通路で自分を見たセレスの顔を交互に思い出していた。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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