「檻の中にも弱いものはいる」
翌朝、ソラは自分でも嫌になるくらい普通に朝食を食べた。
昨日の夜の会話が効いたのか、単に空腹に負けただけなのか、自分でもよく分からない。
分からないが、焼きたての薄いパンに蜂蜜を塗って二枚目へ手を伸ばした時点で、少なくとも食欲は健在だった。
「元気だねえ」
向かいでパルナが湯を注ぎながら言う。
「失礼だな。いつも元気だろ」
「池に落ちた翌朝とは思えないって意味さ」
「もう昨日の話だろ」
「昨日の話だから言ってんだよ」
正論だった。
ソラはむっとしながらも、パンをちぎって口へ入れる。
研究院の朝食は腹立たしいくらい手が込んでいる。
焼き加減も、蜂蜜の量も、温かい飲み物の温度までちょうどいい。
こういうところまで完璧だと、もはや嫌がらせに思えてくる。
パルナは果物皿をテーブルへ置いた。やはり柑橘は入っていない。
ソラがじっと皿を見ていると、パルナがにやりとした。
「何だい」
「…別に」
「素直に“ありがとう”って言えばいいのに」
「言わない」
「可愛げがないねえ」
「可愛がられたくもない」
「はいはい」
軽く流されて、ソラは鼻を鳴らした。
だが、本題はそこではなかった。
昨夜から、頭の片隅にずっと引っかかっているものがある。
前に脱走未遂で見かけた、普段は通らない区画。
閉ざされた扉。
小さな物音。
ガルフが「見るな」と言ったあの一角。
気になる。
というか、気にしないようにする方が無理だ。
「なあ、パルナ」
「何だい」
「西廊下の奥って、何の区画なんだ」
パルナの手がほんの少し止まった。
ほんの少しだが、ソラは見逃さなかった。
「どこのことだい」
「とぼけんなよ。洗濯室の先、普段閉じてる方のだよ」
「…気にしなくていい場所さ」
「そう言われると余計に気になるんだが…」
「気になっても駄目なもんは駄目」
「何があるんだよ」
パルナは答えなかった。代わりに、少しだけ真面目な顔になる。
「あんたが知ったところで、いいことにはならないよ」
「俺にとって?」
「たぶん、みんなにとってさ」
その言い方が、妙に引っかかった。
ソラは口の中のパンを飲み込み、テーブルへ肘をつく。
「それ、俺みたいなのが他にもいるってこと?」
「そういうんじゃない」
「じゃあ何」
「ソラ」
今度はパルナが、少しだけ低い声で名前を呼んだ。
その響きに、ソラは黙る。
冗談では流せない時の声だ。
「あんたは、自分のことで手いっぱいでいなさい」
「それができるなら苦労してない」
「してないねえ…」
パルナは困ったように目尻を下げた。
その顔は、完全に否定ではなかった。
つまり、何かはある。
そしてたぶん、“見ない方がいい”と思われている。
だったらなおさら見たくなるのが、ソラという人間だった。
◇
午前の終わり頃、廊下の一角で小さな騒ぎが起きた。
ソラはちょうど許可された西廊下をぶらついていた。
表向きは散歩、実際には人の動きの観察である。
洗濯室の前を何度目かに通った時、中からバタバタと慌ただしい足音が聞こえた。
「ちょっと、結界の調整誰がやったの!」
「先に搬入を止めて!」
「いや、そっちじゃない、管理箱の方!」
珍しく職員たちの声が尖っている。
ソラは足を止めた。
廊下の角から、洗濯室のさらに奥へ続く通路が半分だけ見える。
普段は閉じている扉が、今は開いていた。
淡い青白い光。
結界の明滅。
それと、かすかな鳴き声。
鳴き声?
ソラは反射的に一歩踏み出した。
すぐ横から低い声が飛ぶ。
「止まれ」
ガルフだ。
いつの間にいたんだよ、と言いかける前に、その手がソラの肩を軽く押さえた。
「向こうへ行くな」
「何があったんだよ」
「関係ない」
「俺が見たら困ること?」
「そうだ」
あまりにもはっきり言われて、ソラは眉をしかめた。
通路の先では、研究員らしき女性が二人、結界の調整盤を操作している。
その足元には、細い銀の枠で囲われた小型の透明箱がいくつか並んでいた。
箱。
その言葉だけで、喉の奥がざらつく。
「…何が入ってんの?」
「ソラ」
「何」
「戻れ」
「答えろよ」
ガルフの声は低い。強く押しつけてくるわけではないのに、動けなくなる圧がある。
だが、その一瞬の隙に、ソラは見てしまった。
通路の奥、ひとつだけ開きかけた管理箱の中。
白くて小さな、羽毛のようなものがばたついている。
鳥…いや、鳥に似た何かだ。
翼はあるが、羽の先に淡い光が宿っていて、目だけがやけに大きい。
しかもかなり怯えている。
箱の隅へ身体を押しつけ、結界の明滅に合わせて小さく震えていた。
ソラは思わず息を呑んだ。
丁寧に管理されている。
箱は清潔で、餌も水も入っている。
でも、怯えている。
それは妙に、見覚えのある光景だった。
「…俺と同じじゃん」
ぽつりと漏れた声を、ガルフは聞き逃さなかった。
「違う」
「何が」
「お前とは違う」
「箱に入ってんのは同じだろ」
「ソラ」
「しかも“保護”なんだろ。丁寧に世話して、逃げないようにして、弱いからって」
言っているうちに、自分でも声が尖っていくのが分かった。
腹立たしい。
何に腹が立っているのかも、半分くらいしか整理できていないのに、とにかく腹立たしかった。
ガルフは短く息をついた。
「お前は感情移入しすぎている」
「お前らは冷たすぎる」
「仕事だ」
「便利な言葉だな」
昨日の自分がセレスに吐いたのと同じようなことを、今度はガルフに言っている。
少しだけおかしくて、でも笑えなかった。
その時だった。
ばちり、と嫌な音がした。
通路奥の結界が、一瞬だけ強く明滅する。
研究員の一人が「待って!」と叫ぶ。
次の瞬間、開きかけていた小型の管理箱が完全に弾かれて、軽い音を立てて倒れた。
小さな白い生き物が、箱から飛び出す。
といっても、飛ぶというより、転がるに近い。
翼がうまく広がらないのか、石床の上でもつれるように跳ねて、そのまま通路の端へ追い詰められた。
結界の明滅が続く。
怯えきった鳴き声。
研究員たちの慌てた声。
ソラはほとんど反射で、ガルフの手を振り切っていた。
「おい!」
背後でガルフが叫ぶ。
だがもう遅い。
ソラは通路へ飛び込んでいた。
自分でも何をしているのか半分分からない。
逃げたいだの自由だの言っているくせに、どうしてこういう時に足が勝手に動くのか、本当に分からない。
白い小型種は、通路の隅でぶるぶる震えていた。
目が合った瞬間、その瞳がさらに大きく見開かれる。
怯えている。結界にも、人にも、たぶんこの状況全部に。
「大丈夫、って言っても通じねえか…」
ソラはしゃがみ込んだ。
後ろでは研究員たちが調整盤と格闘している。
結界が不安定なせいで、むやみに近寄ると逆に弾かれるらしい。ガルフが舌打ちする音が聞こえた。
「ソラ、下がれ!」
「今は無理!」
白い生き物が、さらに奥へ逃げようと羽をばたつかせる。
だが石床で滑り、うまく動けない。
翼の片方が少し赤くなっている。たぶん管理箱が倒れた時にぶつけたのだ。
放っておけるか、そんなの。
ソラは毛布も何もない素手のまま、そっと手を伸ばした。
怯えさせないように、できるだけ低く、ゆっくりと。
何の知識があるわけでもない。
ただ、自分だったら急に大きな手を出されたら嫌だなと思っただけだ。
白い生き物はぎりぎりまで身を縮め、最後には観念したように小さく鳴いた。
「よし、よし…」
ようやく指先が触れた、その時。
足元で結界がまた不規則に走った。
青白い光が石床を舐め、ソラは反射的に身をひねる。
だが避けきれない。ぱちん、と鋭い痛みが脛を打った。
「っ、い…!」
バランスが崩れる。
前につんのめり、膝を強く床へ打ちつける。
痛みがずんと響いた。
白い小型種が、びくっと跳ねる。
「ソラ!」
今度の声はガルフではなく、もっと近い位置からだった。
振り向く間もなく、通路へ銀金の影が滑り込んでくる。
セレスだ。
どうしてここにと思うより早く、彼女は状況を一目で把握したらしい。
研究員へ短く指示を飛ばしながら、まっすぐソラの方へ来る。
「調整を停止して。部分解除は東側から、今すぐ」
「し、しかし、管理個体が」
「そちらは私がやるわ」
声が硬い。
セレスがこんなふうに命令を飛ばすのを、ソラはあまり見たことがなかった。
いつもは静かでも、もっと温度のある口調だ。
今はそれがほとんど削ぎ落ちている。
彼女はソラの前へ膝をつくと、まず白い小型種ではなく、ソラの脛と膝を見た。
「どこを打ったの」
「今それかよ!?」
「そうよ」
ものすごい既視感のあるやり取りだった。
だが今のセレスは、池の時よりさらに怖い。
声が低く、顔色まで薄く見える。
怒っているのではない。
たぶん、怒るより先の何かだ。
「足首は?」
「平気」
「膝」
「打った」
「痺れは」
「ない!」
「そう」
短く確認してから、セレスはようやく白い小型種の方へ視線を向けた。
すると不思議なことに、その生き物はソラの足元から離れず、震えたまま縮こまっている。
セレスは少しだけ目を見開き、それからごく静かに息を吐いた。
「あなた、どうして…」
言いかけて、やめる。
代わりに彼女は、自分の羽織の裾を外し、小型種をやわらかく包んだ。
さっきソラへかけた時と同じ手つきだった。
乱暴さが一切ない。
包まれた白い生き物は、小さく鳴いて動きを止める。
結界の明滅がようやく落ち着く。研究員たちが安堵の息を漏らした。
ガルフがすぐ横まで来て、ソラを睨み下ろす。
「言ったよな。下がれと」
「…うるさい」
「怪我人が増えたら意味がない」
「見てるだけなんて無理だった」
「そういうところだ」
呆れ半分、本気半分の声だった。
セレスは羽織にくるんだ小型種を研究員へ渡し、それからソラへ向き直る。
翡翠の瞳が、まっすぐこちらを捉える。
その瞬間、ソラは妙な居心地の悪さを覚えた。
怒られる。
たぶん今度こそちゃんと怒られる。
だがセレスの顔には、怒りよりもっと切迫したものがあった。
「立てる?」
「立てる」
「嘘ね」
即答だった。
ソラが言い返す前に、セレスの手が脇へ差し入れられる。
支えられて立ち上がるしかない。
膝にずきりと痛みが走り、思わず顔が歪んだ。
「ほら」
「…平気だって」
「その顔で?」
「お前、そういうとこほんと嫌い」
「私も今のあなたの行動はかなり嫌いよ」
低い声だった。
けれどその直後、セレスは少しだけ呼吸を乱したように見えた。
ごく小さなことなのに、ソラはそれに気づいてしまう。
怖がっている。
この女、今たぶん、本気で怖がっていた。
「どうしてあなたは」
セレスが言いかける。
その声はさっきよりずっと静かで、だからこそ余計に重かった。
「どうしてあなたは、自分が傷つく方を選ぶの」
問いかけられて、ソラは言葉を失った。
言い返したかった。
選んでねえよ、勝手に足が動いただけだ、とか。
目の前であんなの見たら無理だろ、とか。
お前らだって保護とか言うくせに、とか。
でも、うまくまとまらない。
自分でもなぜ戻ったのか、完全には説明できなかったからだ。
逃げる隙なら、あったかもしれない。
少なくとも、あの小さな白い生き物に手を伸ばした瞬間、ソラは自分の逃亡計画をぜんぶ忘れていた。
ただ、見捨てたくなかった。
それだけだった。
「…知らない」
ようやく出たのは、情けないくらい頼りない答えだった。
セレスの眉がわずかに寄る。
怒ったわけではない。
失望でもない。
もっと別の、どうしようもないものを前にした顔だ。
「知らない、じゃないだろ」
と、横からガルフがぼそっと言った。
「お前は毎回そうだ。計算より先に情で動く」
「悪いかよ」
「悪い」
間髪入れない即答に、ソラは歯を食いしばる。
だがその前に、セレスが静かに口を開いた。
「悪いとは言っていないわ」
ガルフが一瞬だけ黙る。
セレスはソラから目を逸らさなかった。
「でも、怖いの」
その一言は、奇妙なほど真っ直ぐだった。
ソラは息を止めた。
怖い。
この女が、そんなふうに言うのか。
「あなたは弱いのに、自分でそれを忘れるでしょう」
セレスの手が、ソラの腕を支えたまま少しだけ強くなる。
「痛みも、限界も、危険も。見えなくなるくらい、目の前のものに手を伸ばす」
「…」
「それが、怖いのよ」
ガルフも、周囲の研究員たちも、その瞬間だけ妙に遠く感じた。
通路の空気がひどく静かになる。
結界の調整音すら、どこか離れたところの出来事みたいだった。
ソラは自分の脈が変に早くなっているのを感じた。
怒鳴られたわけでもない。
責められたわけでもない。
ただ、怖いと言われただけ。
なのに、妙に胸の奥へ入ってくる。
「…知らねえよ、そんなの」
かろうじてそう返すと、セレスは小さく目を伏せた。
「ええ。あなたはそうでしょうね」
その言い方は、責めるでも諦めるでもなく、ただ認めるようだった。
それがまた、ソラにはどうにも落ち着かなかった。
◇
部屋へ戻されたあと、膝に湿布代わりの薬布を貼られ、脛の赤くなった場所にも処置をされ、ついでにしばらく安静命令まで追加された。
踏んだり蹴ったりである。
寝台の端に座ったまま、ソラは唸った。
「くそ…」
膝がじんじんする。
動けないほどではない。
けれど走れば確実に響く痛みだ。
今日中の脱走は無理。
いや、もともと今日やるつもりはなかったけれど、可能性を勝手に潰されると腹が立つ。
机の上には新しい薬湯。
テーブルには軽めの夕食。
扉の外にはたぶんガルフか別の警備。
完璧すぎて笑えてくる。
でも一番腹立たしいのは、あの通路での自分だった。
何やってんだよ、ほんとに。
逃げたいんじゃなかったのか。
自由になりたいんじゃなかったのか。
それなのに、目の前で怯えてるものがいたら、そっちへ行く。自分でも馬鹿みたいだと思う。
だが、じゃあ見捨てられたかと問われれば、たぶん無理だ。
「最悪…」
小さく呟く。
その声に応えるように、扉が控えめに叩かれた。
「入るわ」
返事を待たずにセレスが入ってくる。
今日は何度も会っているのに、来るたびに空気が変わる女だな、とソラは思った。
今のセレスは研究室にいた時とも、通路で見た時とも違う。
少しだけ疲れて見える。
けれど背筋はきれいに伸びたままだ。
「何」
「薬は飲んだ?」
「まだ」
「先に飲みなさい」
「また?」
「また、よ」
ソラは渋い顔をしながらも薬湯を手に取った。
苦い。
毎回思うが、本当に苦い。
これだけ管理が行き届いているなら、味の改良もしてほしい。
飲み終えると、セレスは空の杯を受け取った。
細い指がふちに沿う。
「…あれ、何だったんだ」
ソラがふいに訊くと、セレスは少しだけ首を傾げた。
「何が」
「今日の白いやつ」
セレスは杯を机へ置き、少し考えるように沈黙した。
「ルミナ鳥の幼体よ」
「鳥なんだ」
「半分くらいは」
「半分?」
「説明すると長いわ」
「じゃあ今度でいい」
言ってから、自分で“今度”と言ったことに少し引っかかった。
今度も聞くつもりみたいじゃないか。
実際たぶん聞くのだが。
セレスは小さく頷く。
「生まれつき結界波に弱い種なの。調整が乱れると、強い刺激になる」
「じゃああそこで管理すんなよ」
「だから本来はああならないようにしているのよ」
「今日なってたけど」
「そうね」
そこは否定しない。
ソラは鼻を鳴らした。
「怯えてた」
「ええ」
「俺、なんか…見てらんなかった」
自分で言うのも変な感じだったが、他に言い方がなかった。
セレスはしばらく黙っていた。やがて、静かな声で言う。
「そういうところが、あなたらしいのだと思う」
「褒めるなって」
「褒めてはいないわ」
「じゃあ何だよ」
「困っているの」
その返事に、ソラは思わず顔を上げた。
セレスは笑っていない。
ごまかしてもいない。
本当に困っている顔だった。
「私はあなたを危険から遠ざけたい。でも、あなたは目の前に弱いものがいれば手を伸ばしてしまう。そこを削ってしまったら、あなたはあなたでなくなる気もする」
「…」
「だから困るの」
真面目すぎるだろ、と思う。
こんな話を、こんな顔でするな。
もっと適当に流してくれた方が楽なのに。
ソラは視線を逸らした。
「知らねえよ。俺だって困ってるし」
「そうでしょうね」
「逃げたいのに、余計なことばっかしてる」
「余計、ではないと私は思うけれど」
「俺にとっては余計なんだよ。毎回そこで計画狂うんだから」
「そこは改善しなさい」
「冷静だな、おい」
「改善点があるのは事実でしょう」
ほんの少しだけ、会話の温度が戻る。
それだけで、さっきまで胸にあった変な重さが少しだけ薄れた。
セレスは寝台の脇に立ったまま、ソラの膝へ視線を落とす。
「痛みは?」
「ある」
「歩ける?」
「歩けるけど走れない」
「走らなくて結構」
「俺にそれ言う?」
「言うわ」
即答だった。
ソラは毛布を引っ張り寄せ、膝の上へかける。
セレスの視線がまだそこにあるのが妙に落ち着かない。
「…なあ」
「なに」
「さっきの」
「どれかしら」
「怖い、ってやつ」
自分からそこへ触れるのは、少しだけ勇気が要った。
触れない方が楽だ。
楽だが、さっきから引っかかって仕方ない。
セレスは少しだけ間を置いた。
「本心よ」
「俺、お前にそんなふうに言われる筋合いある?」
「あるとかないとかではなく、そう感じたの」
「…」
「今日だけじゃないわ。前から何度も」
池。
通気口。
外壁。
魔獣。
思い当たる節が多すぎて、ソラは黙った。
「あなた、自分の限界を低く見積もるのではなく、忘れるでしょう」
セレスは静かに続ける。
「弱いことを恥じているからかもしれない。けれど、弱いことと無謀であることは別よ」
「分かってる」
「分かっているなら、もう少し考えて」
「だから考えてるって」
「今日の行動は?」
「…考えてなかった」
言わされた感がすごい。
でも否定できない。
セレスはそこでようやく、小さく息をついた。
叱責というより、力が抜けたような息だった。
「なら、次は考えて」
「次がある前提なんだ」
「あなたがやめるとは思っていないもの」
「信用されてんのかされてないのか分かんねえな」
「その両方かもしれないわ」
ソラは少しだけ口元を歪めた。
セレスもほんのわずか、目元をやわらげる。
長い沈黙が落ちる。
だがさっきまでの沈黙とは少し違った。
刺さるような重さはなく、ただ、お互い何かを持て余している感じだ。
「…あのさ」
ソラは毛布の端をいじりながら、小さく言った。
「今日のあれ、見てて思ったんだけど」
「ええ」
「丁寧に世話してても、怯えるもんは怯えるんだな」
セレスは答えなかった。
ただ、その沈黙自体が答えみたいだった。
「だから俺、やっぱここ嫌いだ」
「そうでしょうね」
「でも、あの白いやつにとっては、あそこが安全なんだろ」
「…ええ」
「それも分かる」
分かる、という言葉を口にした瞬間、胸の中に妙な苦さが広がった。
分かってしまうのだ。
危険な外に出せないという理屈も。
弱いものを守るために管理するという理屈も。
分かった上で、それでも嫌だと思ってしまう。
だからこんなに厄介なのだ。
「分かるのに嫌なんだよ」
吐き出すように言うと、セレスは少しだけ目を伏せた。
「ええ」
「それが一番むかつく」
「そうでしょうね」
また同じ答えだ。
なのに、今はそれが少しだけ救いに思えてしまう。
嫌になる。
セレスはしばらく立ったまま黙っていたが、やがてソラの膝の上の毛布をほんの少しだけ整えた。
子ども扱いするなと言いたくなるような仕草なのに、不思議と今はその気になれない。
「今日はもう、何もしないで休みなさい」
「命令?」
「助言」
「また都合よく分ける」
「必要な区別よ」
セレスはそう言って手を離した。
その手が離れる瞬間、なぜかほんの少しだけ、空気が冷えた気がした。
気のせいだろう。
たぶん。
扉へ向かう背中を見ながら、ソラはぼそっと言う。
「…なあ、セレス」
彼女は振り返る。
名前を呼んだのは自分なのに、少しだけ心臓が変な鳴り方をした。
「何かあっても、毎回そんな顔すんなよ」
「そんな顔?」
「怖がってる顔」
言ってしまってから、ちょっと余計だったかもしれないと思う。
だがセレスは怒らなかった。驚いたように一度目を瞬き、それからごく小さく息を吐く。
「努力はするわ」
「できてないじゃん」
「難しいもの」
その返事が思いのほか素直で、ソラは返す言葉を失った。
セレスは今度こそ扉を開ける。
出ていく直前、こちらを見ずに言った。
「あなたが傷つくのは、本当に嫌なの」
それだけ残して、扉は静かに閉まった。
部屋に沈黙が戻る。
ソラはしばらく、その閉じた扉を見つめていた。
嫌だ、と思う。
そういうことを言うな。
そういう言い方をするな。
逃げにくくなるだろ。
けれど同時に、胸の奥のどこかが少しだけ熱を持ったみたいで、それが余計に気に入らなかった。
「…ほんと、最悪だ」
独り言は誰にも届かない。
だが、その夜ソラは眠りにつく直前まで、白い小型種の震えと、通路で自分を見たセレスの顔を交互に思い出していた。
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