「外へは出せない」
その日の夜、ソラはあまり眠れなかった。
いや、正確に言うと、眠りたくなかった。
目を閉じると、昼間の会話が頭の中で勝手に再生される。
個体。
記録。
管理。
そしてセレスの、あの妙に静かな声。
――私の前では違う。
――あなたが思っているより、私はあなたを大事に思っているわ。
大事に思われていることなんて、知っている。
そこが問題なのだ。
ぞんざいに扱われているなら、たぶんもっと簡単だった。
怒ればいい。噛みつけばいい。嫌えばいい。
でも実際には、食事は出るし、体調は見られるし、嫌いな果物は抜かれるし、池に落ちれば先に風邪を心配される。
それでいて自由はない。
このねじれた優しさが、どうしようもなく腹立たしかった。
ソラは寝台の中で寝返りを打った。毛布がするりと擦れる。
部屋の空気はちょうどよく温められていて、寒くも暑くもない。そういうところも腹立たしい。
窓の向こうはもう真っ暗で、結界越しに月の光がぼんやり滲んでいた。
前の世界なら。
そんな考えが浮かぶ。
前の世界なら、夜中に勝手に起きて、冷蔵庫を開けて、適当に飲み物を取って、またベッドに戻れた。
誰にも報告はいらない。
許可もいらない。
起きるも寝るも、自分で決められた。
それがどれだけ大きなことだったのか、死んでから知るなんて最悪だ。
「…くそ」
小さく吐き捨てた、その時だった。
扉が、控えめに二回叩かれる。
ソラは顔をしかめた。こんな時間に来る相手など、だいたい予想がつく。
「なに」
「入ってもいいかしら」
やっぱりセレスだった。
断る理由はある。あるが、断ったところで帰る女でもない。
むしろ「体調が悪いのかもしれない」と判断して余計に入ってくる可能性がある。
「勝手にしろ」
言うと、扉が静かに開いた。
夜着の上に薄い羽織を一枚。
昼間より少しだけ髪がゆるんでいて、それが妙に目についた。
いつも完璧に整っているのに、こういう少しだけ隙のある姿を見せられると調子が狂う。
セレスは部屋へ入るなり、まず魔力灯の明るさを少し落とした。眠る前の光量に合わせたのだろう。
「…何しに来たんだよ」
「あなたが起きている気がしたから」
「気がした、で来るな」
「当たっていたでしょう」
事実なので返しにくい。
セレスは寝台から少し離れた位置にある椅子へ腰を下ろした。
近すぎず遠すぎず、絶妙に逃げ場のない距離だ。ソラは毛布の端を引き寄せ、睨むように見返した。
「体調は?」
「元気だよ」
「機嫌は悪そうだけれど」
「お前のせいでな」
「そうね」
またそれだ。
この女は、ときどきこっちが想定していた反論をあっさり飛び越える。
しばらく沈黙が落ちた。
灯りが柔らかいせいで、部屋の輪郭まで少しやわらいで見える。こんな空気の中で話すのはずるい。怒鳴るにも勢いがつかない。
先に口を開いたのはセレスだった。
「昼間のことだけれど」
「聞きたくない」
「私はあるわ」
「俺はない」
「それでも話すわね」
「そういうとこだよ」
ソラが吐き捨てると、セレスはわずかに目を細めた。だが引かない。
「あなたが怒る理由は分かる」
「分かってない」
「少なくとも、分かろうとしているつもりよ」
「つもり、だろ」
「ええ。まだ、つもりの段階」
正直であることと腹立たしさは両立する。ソラは今、それを身をもって知っていた。
「…何だよ」
「昼間、あなたに言われたことを考えていたの」
「“俺の前だけ違っても意味ない”ってやつ?」
「ええ」
セレスは手の上で指を組み、少しだけ視線を落とした。
灯りの下で、長い睫毛が影をつくる。
こういう顔をすると、いつもの理性的な研究者というより、ただ静かに考え込んでいる女に見えるから困る。
「私は、あなたを個体としてだけ見ているわけではない」
「でも個体としても見てる」
「…否定はしないわ」
「ほらな」
「けれど、その二つが両立していることを、あなたがどれだけ苦痛に感じているかは、たぶん今まで軽く見ていた」
その言葉に、ソラは一瞬だけ口を閉ざした。
軽く見ていた。
そこを認めるのか。
もっと理屈で押し切られると思っていた。
外は危険だとか、お前は弱いとか、そんな話に戻されるとばかり。
セレスは続ける。
「私にとっては、あなたを守ることと、管理することは、かなり近い意味だったの。少なくともこれまでは」
「それが最悪なんだよ」
「そうね」
また肯定された。
肯定されるたびに、怒りの置き場が少しずつずれていく。腹立たしいのに、完全に殴れない。
「…じゃあ何。今さら改めますって?」
「簡単にはいかないわ」
「だろうな」
「あなたは外へ出れば危険に晒される。低魔力で、身体も強くない。人間の男というだけで狙われる。そこはどうしても変わらない」
「知ってる」
「だったら」
「でもそれでも、勝手に決めんな」
語尾が少し強くなった。
セレスが顔を上げる。翡翠の目が、まっすぐこっちを見る。
ソラは毛布の上で拳を握った。今度は逸らしたくなかった。
「俺が外で死ぬかもしれないのも、馬鹿みたいな失敗するのも、全部分かってる。分かってるけど、それでも俺が決めたいんだよ」
喉の奥が熱くなる。
「お前らはすぐ“守る”って言うけどさ。守るって、なんでも先回りして決めることじゃないだろ」
言いながら、自分でもどこまでうまく伝わっているか分からなかった。
でも黙るのはもっと嫌だった。
「前の…」
前の世界、と言いかけて止まる。
また説明のつかない話になる。転生の概念なんてこの世界にはない。
言ったところで、変わった記憶障害か、人間特有の幻想か、その程度にしか扱われない。
それでも、セレスは待っていた。急かさない。言葉を埋めない。
その待ち方が、余計にずるい。
「前はさ」
結局、少しだけ形を変えて続けた。
「こんなふうに、息をするだけで誰かに管理されるの、普通じゃなかったんだよ。外へ出るのも、飯食うのも、寝るのも、自分で決めてた。大したことじゃないみたいだけど、今はそれが…」
喉が詰まる。
ばかみたいだ。
コンビニだの夜道だの、そんなくだらない記憶にこんなにしがみつくなんて。
でも今のソラにとって、それはくだらなくなかった。
「それが、欲しいのね」
セレスの声はとても静かだった。
ソラは眉を寄せる。
「欲しいに決まってるだろ」
「ええ」
「何だよその言い方」
「あなたが何を欲しがっているのか、もっと単純に考えればよかったと思っただけ」
セレスは少しだけ視線を伏せた。
「私は、危険を避けることばかり考えていた。飢えさせない、病ませない、寒さに晒さない。少しでも長く無事でいられるように、そういうことばかり」
「それの何が悪いんだよ、って顔してるな」
「半分はそう思っているわ」
そこを隠さないのが、この女らしい。
「でももう半分は…それだけでは足りないのだろうとも思ってる」
ソラは黙った。
完全に分かり合えたわけではない。
たぶん、まだかなり遠い。
でも今の言葉は、初めて少しだけこちら側へ寄ってきた気がした。
セレスは椅子から立ち上がり、窓辺まで歩く。結界越しの月明かりが横顔を淡く縁取った。
「けれど」
そこで彼女は続ける。
「だからといって、私は明日あなたを外へ出せるわけではないの」
「…だろうな」
「そこは譲れないわ」
「だと思ったよ」
「怒ってる?」
「怒ってる」
「そう」
セレスは振り返る。表情はやわらかいわけではない。
むしろ、いつもより少し硬い。
その硬さは、こっちを拒絶しているからではなく、自分の中で揺れているものを押さえているせいに見えた。
「あなたは大事だから」
その言葉に、ソラは思わず鼻で笑いそうになった。
だが笑えなかった。
セレスの言い方が、あまりにもまっすぐだったからだ。
「…それ、便利な言葉だよな」
「便利?」
「大事だから閉じ込める。大事だから決める。大事だから危ないことさせない。何でもそれで通るじゃん」
セレスは少しだけ目を見開いた。
「そう聞こえるのね」
「聞こえる」
「私は」
そこで彼女は言葉を切った。
何かを選んでいるみたいな間だった。
「私は、あなたを失いたくないだけなのかもしれない」
ソラの喉がひくりと鳴った。
予想していなかったわけではない。
でも、今その言葉が来るとは思っていなかった。
失いたくない。
研究対象だからか。
希少だからか。
それとも、それ以外なのか。
そこが分からないから、余計に怖い。
「…何だよ、それ」
「分からないわ。まだ、うまく」
セレスは珍しく言い淀んだ。
完璧に答えを持っていそうなこの女が、こんなふうに言葉を探すのはずるい。
見たくなかったし、知りたくもなかった。
「でも、あなただけは、何かあるたびに心が乱れるの。あなたが怪我をすると嫌なの。熱を出すのも、無茶をするのも、外へ行こうとするのも、全部」
「それ管理責任の話だろ」
「そう思おうとしていたわ」
さらりと返されて、ソラは息を詰まらせた。
思おうとしていた。
それは、違うと自分でも分かり始めている言い方だ。
部屋の中がしんと静まり返る。遠くで時計代わりの魔導具が低く鳴った。
たぶん夜半を告げる音だろう。
ソラは目を逸らしたくなった。
でも逸らしたら負ける気がした。何に負けるのかは分からない。
「…それでも」
ようやく絞り出すように言う。
「それでも、逃げたい」
「ええ」
「ここにいたら俺、だめになる」
「そう思うのね」
「思う」
「私はまだ、そこを完全には実感できていない」
「だろうな」
「でも、あなたが本気でそう思っていることは分かった」
その返事は、すとんと落ちた。
理解ではない。
納得でもない。
ただ、本気だと認める言葉。
それだけで、胸のあたりが妙に痛くなった。
セレスはまた少し黙り、それから窓から離れた。
「今夜はもう寝なさい」
「話は終わりか?」
「終わりではないわ」
「じゃあ何だよ」
「今日は、ここまでにした方がいいと思うの」
言葉をぶつけ続けても、たぶん平行線のままだと、彼女なりに判断したのだろう。
それはたぶん正しい。正しいのに、少しだけ物足りないのが腹立たしい。
「…逃げるなよ」
つい言ってしまうと、セレスの足が止まった。
振り返った顔に、ほんのわずかだけ驚きが浮かぶ。
「私が?」
「今、うまく言えないとか、今日はここまでとか、そういうの」
ソラは毛布を握りしめたまま、ぶっきらぼうに続ける。
「分かんないなら分かんないで、考えろよ。お前、頭いいんだろ」
沈黙のあと、セレスはごく小さく息を吐いた。
笑ったのかもしれない。
でもそれは、からかう笑いじゃなかった。
「…考えるわ」
「ちゃんと?」
「ええ。あなたが嫌がるくらい、ちゃんと」
「それはそれで嫌だな」
「でしょうね」
少しだけ空気がやわらぐ。
ほんの少しだけ。
セレスは今度こそ扉へ向かった。手をかけ、開ける寸前でまた止まる。
「ソラ」
「何」
「あなたが怒ってくれて、少し安心したわ」
「は?」
「諦めていないということでしょう」
それだけ言って、彼女は出ていった。
扉が閉まる。
一人になった部屋で、ソラはしばらく呆然とした。
怒ってくれて安心した。
そんな言い方、あるか?
「…ほんと、何なんだよ」
低く呟く。
むかつく。
むかつくのに、さっきより少しだけ息がしやすい。
それも腹立たしい。
寝台へ背中を預け、天井を見上げる。白い布が揺れている。静かな部屋。温度も明るさも完璧で、だからこそたちが悪い。
でも、さっきの会話でひとつ分かったこともある。
セレスは、自分のことを分かっていない。
ただ、それを分かっていないまま押し通そうとしているだけの女でもない。
考える、と言った。
あの女が言ったなら、たぶん本当に考えるのだろう。
だから何だ、という話ではある。
逃げる理由がなくなるわけじゃない。
外へ出たい気持ちは消えない。
それどころか、余計にはっきりした気すらする。
ここは安全だ。
でも安全なだけだ。
ここにいたら、たぶん自分で何かを選ぶ力ごと鈍っていく。
それだけは嫌だった。
ソラは毛布を頭まで引き上げる。
眠くはない。
でも目を閉じる。
闇の中で、ふと昔の記憶がよぎった。
夜中、喉が渇いて台所へ行った時の冷たい床。
冷蔵庫の灯り。
窓の外に見えた住宅街の街灯。
誰にも止められない、ただそれだけの自由。
胸の奥が少しだけきしむ。
「…やっぱ、欲しいよな」
小さくこぼして、ソラは目を閉じた。
怒っている。
腹も立っている。
セレスに言いたいことは山ほどある。
それでも。
今日、自分の言葉を途中で切らずに聞いたのがあの女だったことを、少しだけ覚えてしまった。
それが良いことなのか悪いことなのかはまだよく分からないままだ。
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