「雑な脱走計画」
昼まで廊下へ出るな。
そう言われた時点で、ソラの中ではもう半分くらい次の脱走計画が始まっていた。
もちろん、即座に動くほど馬鹿ではない。
…いや、馬鹿ではないと言い切るには過去の実績がやや不安だが、少なくとも今回は少し考えた。
前回は勢いが勝ちすぎた。シーツ製ロープは論外だったし、外壁の高さを甘く見たのも悪い。
つまり反省点はある。
あるなら改善すればいい。
「よし」
ソラは机に肘をつき、窓の外を眺めながら小さく頷いた。
問題は、この研究院が無駄に機能的すぎることだった。
朝は早い。
食事の運搬、洗濯物の回収、薬品棚の補充、研究員たちの移動、警備の巡回。
人が多いくせに、流れは決まっている。決まっているなら隙はある。あるはずだ。
少なくともソラはそう信じた。
部屋の外、廊下を歩く足音が三つ。
軽いのが一つ、重いのが二つ。軽い方はたぶんパルナだ。
足の運びが速くて、でも急ぎすぎない。
重い二つは警備か、それとも資材運びか。
昨日までなら「足音なんて気にしたことない」で終わっただろうことを、今のソラはずっと拾っている。
拾わざるを得ない。
ここでは、そうでもしないと何も自分のものにならないからだ。
こつ、こつ、こつ。
扉の前で足音が止まる。
かちゃり、と魔導錠が外れる音。
「食器下げるよー」
間延びした声と一緒にパルナが顔を出した。昼前の柔らかい光を背負って、いつものように盆を抱えている。
ソラは寝台の端に座ったまま、できるだけ無害そうな顔を作った。
「なにその顔」
「どの顔だよ」
「悪さ考えてる時の顔」
「失礼だな」
「じゃあ普通の顔かい?」
「普通の顔」
「なお悪いね」
即答されて、ソラは不満げに眉を寄せた。パルナは気にした様子もなく、空になった皿を盆へ重ねていく。
その手つきは慣れている。効率がよく、無駄がない。室内に目を走らせる癖まである。たぶん小さな異変ならすぐ気づくのだろう。厄介だ。
「昼からは少し廊下に出てもいいってさ」
食器を持ち上げながら、パルナが言った。
「ほんと?」
「ただし西廊下まで。庭園側はだめ。階段もだめ。研究区画は論外だって」
「散歩じゃなくて放牧じゃん」
「贅沢言わない」
ソラは内心で舌打ちした。
庭園側がだめということは、つまり昨日の池落ちをだいぶ重く見られている。
階段も封じられるとなると、縦の移動はしばらく厳しい。
研究区画が駄目なのはいつものことだが、逆に言えば研究区画には何かある、という話でもある。
パルナはそんなソラの顔を見て、あきらかに察した顔になった。
「言っとくけど、今日は見張りを増やしてるからね」
「見張りっていうなよ」
「じゃあ警備」
「同じだろ」
「違うよ。見張りは悪い子にするもんで、警備は大事な子にするんだ」
「それがいちばん嫌なんだけど」
パルナは少しだけ笑った。慰めるような笑い方ではない。ソラの嫌さを分かったうえで、でもどうにもならないことも知っている人の顔だった。
「ま、気持ちは分かるさ」
「分かってたらもっと味方してくれ」
「してるよ。あんたに靴を履けって毎回言ってるだろうに」
「そこなんだよなあ…」
なぜこの人は毎回そこなのか。
パルナが去ったあと、ソラは寝台へひっくり返り、天井を見上げた。
白い布、淡い影、柔らかな光。相変わらず完璧な部屋だった。
完璧な管理は、隙を見つけにくい。
でも隙がゼロなわけではない。
昨日の失敗だって、全部が無意味だったわけではない。外壁の段差は知った。中庭の池の位置も知った。巡回が思ったより遅い場所もあったし、結界の強弱にも確かに波があった。
問題は最後の詰めだ。
「次はもっとちゃんと…」
独り言を呟きながら、ソラは上体を起こす。
まず必要なのは鍵だ。
いや、本物の鍵そのものは難しい。セレスが持っている束は常に身につけられているし、机に置く時ですら視界から消えない。だったら形だけでも知れればいい。
鍵穴の構造。
回す深さ。
それに近いものを作れれば――
「…作れれば?」
そこまで考えて、ソラは机の上を見回した。
小さな果物用の銀叉。
飾り気の少ない真鍮の留め具。
本の装丁についている細い金具。
水差しの蓋の蝶番。
やれそうな気がしてきた。
その“やれそう”が危険だということを、ソラはまだ半分しか学んでいなかった。
◇
昼過ぎ、許可された西廊下はやたら静かだった。
研究院の中でもこのあたりは生活区画に近く、壁には季節外れの花の絵がかかっている。窓は高く、外には整えられた芝と白い石畳。逃げるには何の役にも立たない美しさだ。
ソラは表向きには散歩しているふりをしながら、実際には足音の反響や扉の位置を見ていた。
右手に洗濯室。
その先に給仕用の出入口。
角を曲がると資材運搬用の小さな昇降機。
巡回の警備は十五分に一回。たぶん。
“たぶん”が多いのが良くないのだが、今はそこに目をつぶるしかない。
ふと、向こうの角からガルフが現れた。
狼系獣人の警備主任。銀灰の短髪に、隙のない身体つき。
目だけで人を黙らせられそうな女である。
ソラにとっては、脱走未遂のたびにだいたい最後に出てくる嫌な相手だ。
「外を歩いてるな」
「許可されてるからな」
「壁は見るな」
「見てない」
「見てる」
ガルフはぴしゃりと言って、ソラの横を通り過ぎる。その直前、一瞬だけ鼻先が動いた。匂いでも嗅がれたのかもしれない。嫌すぎる。
「お前、また何か良からぬことを考えてるだろ」
「なんでそんな決めつけるんだよ」
「前科があるからな」
短い。正論。つらい。
ソラは口をへの字に曲げた。
「今回はまだ何もしてない」
「“まだ”か」
「言葉の綾だろ」
「お前の考えはだいたいろくでもない」
それだけ言って、ガルフは去っていく。
だが歩幅を数えれば分かる。完全に離れたわけではない。
一定の距離を取って、たぶん見ている。
護衛というには近すぎ、見張りというには露骨すぎない絶妙な距離。
「ちっ」
舌打ちしたくもなる。
廊下の窓に映る自分は、今日も相変わらず華奢で、弱そうで、守られて当然みたいな顔をしていた。
いや、自分の顔に文句を言っても仕方ない。
大事なのは中身だ。
少なくとも中身まで大人しくしてやる義理はない。
◇
夕方、セレスの研究室へ呼ばれた。
別に珍しいことではない。体調確認の追加か、昨夜の件の再説明か、そのどちらかだろうと思っていた。
研究室は、ソラの部屋とはまた違う意味で整っていた。
棚いっぱいの本。
標本箱。
魔導具。
薬品瓶。
整理され尽くした机。
窓際には白い花が挿してある。
紙と薬草の匂いに、セレス自身の淡い香りが混じっている。この部屋に入ると、いつも少しだけ息が詰まる。
セレスは机の向こうではなく、窓際の丸テーブルについていた。こっちへ、と視線だけで促す。
「何だよ」
「座って」
「用件だけ言えよ」
「喉はもう完全に治った?」
「…たぶん」
「たぶんでは困るのだけれど」
「咳もないし熱もない。これでいいだろ」
ソラが椅子へどかりと座ると、セレスは小さく息をついた。だがそれ以上は何も言わない。代わりに手元の紙を一枚伏せる。
その一瞬、ソラの目に見えた。
細長い線がいくつも描かれた図。
鍵の断面図みたいなもの。
まさか。
「…それ、何」
セレスは一拍だけ黙ってから答えた。
「昨日、あなたの机の引き出しから出てきたものに近い図よ」
終わった。
ソラの背中をいやな汗が伝う。
引き出しの奥に隠していた、即席の鍵の試作メモだ。細い金具で削ろうとして失敗したあと、紙に書き起こしていたやつ。まさか見つかっていたとは。
「勝手に見たのかよ」
「確認は必要でしょう」
「紙だぞ」
「あなたが使えば危険物になりうるわ」
「言い方!」
セレスはそこで初めて、ごくわずかに口元を緩めた。笑ったのか、それとも呆れたのか分からない微妙な表情だ。
「器用なのは知っていたけれど、思ったより観察していたのね」
「…別に」
「褒めているのよ」
「褒めるな」
「どうして」
「脱走の準備を褒める管理責任者があるか」
「たしかにそうね」
あっさり引かれて、ソラは余計にむっとした。
セレスは図面を畳み、机の端へ寄せる。
「ただ、あれでは開かないわ」
「は?」
「食糧庫の簡易錠くらいならともかく、生活区画の魔導錠は無理。山の高さが足りないし、何より回転時の噛み合わせが雑すぎる」
「…」
「その顔を見るに、本気でいけると思っていたのね」
ソラは真顔でセレスを見返した。
この女、今、めちゃくちゃ自然に脱走技術の講評をしたな?
「お前さ」
「なに」
「何でそんな詳しいんだよ」
「研究施設の管理者が錠の構造を知らないと困るでしょう」
「俺が困ってるのはそこじゃない」
ソラは頭を抱えたくなった。せっかく秘密裏に進めていた脱走技術向上計画が、知らないうちに本人から添削されている。最悪である。
だが同時に、耳が勝手に覚えてしまった。
山の高さ。
回転時の噛み合わせ。
雑すぎる。
そうか、雑なのか。
いや今はそうじゃない。
「安心して。今すぐ拘束具を増やしたりはしないわ」
セレスがそう言った瞬間、ソラは顔をしかめた。
「安心できる要素どこだよ」
「一応、配慮したつもりだったのだけれど」
「基準が終わってる」
セレスは少しだけ首を傾げた。本人としては本当にそうなのだろう。この女のそういうところが厄介だ。
「では、確認するけれど」
「何をだよ」
「あなたは、次もやるの?」
真っ直ぐに問われる。
ソラは一瞬だけ黙った。
やるに決まっている。
でも真正面から言うのも馬鹿らしい。
いや、隠したところでこの女にはだいたいばれる。
「…やるだろ、そりゃ」
「そう」
怒るでもなく、止めるでもなく、セレスは静かに頷いた。
「なら、せめて死なない範囲でして頂戴」
「それができたら苦労してねえよ」
「でしょうね」
会話が成立しているのが腹立たしい。
ソラは椅子の背にもたれ、窓の外を見た。夕方の光が細く差して、研究室の床へ長い影を落としている。白い花の影まで綺麗で、ほんとうに嫌になる。
その時、廊下の向こうから人の気配がした。研究員が二人、足を止めて話しているらしい。閉じた扉越しでも、声の響きで何となく分かる。
「――回収は済んだそうだ」
「池へ落ちたと聞いた」
「希少個体にしては随分活動的ね」
「活動的というより逸脱傾向でしょう」
ソラの指先がぴくりと動く。
希少個体。
逸脱傾向。
自分のことだ、と思った。
名前はない。
人間の男、でもない。
個体。
ソラはゆっくりと拳を握った。
セレスもたぶん聞こえているはずだが、何も言わない。あるいは、どう声をかけるか迷っているのかもしれない。
沈黙が続く。
その沈黙が、やけに痛かった。
「…俺さ」
「ええ」
「お前以外の奴が俺のことそう呼ぶの、ほんとに嫌いなんだよ」
セレスの視線が、静かにソラへ戻る。
「知っているわ」
「知ってるなら、何とかしろよ」
「制度と慣習を、一朝一夕に変えることはできない」
「ほら、そうやって」
ソラは立ち上がった。椅子の脚が床を擦って音を立てる。
「すぐ制度とか言う。慣習とか、管理とか、安全とか。そういう話じゃなくて」
「ソラ」
「俺は個体番号でも飼育対象でも観察対象でもないって言ってんだよ」
言い切った瞬間、胸がどくどくした。
怒鳴ってはいない。
でも声は思ったより強く出ていた。
セレスは立ち上がらない。ただソラを見上げる形になる。位置だけならソラの方が上なのに、変な威圧感は相変わらず向こうの方が強い。ずるい。
「そうね」
やがてセレスは言った。
「あなたは番号でも記録でもない」
「だったら」
「けれど、この研究院の中であなたが“そう扱われずに済む場所”は、今のところ多くないわ」
静かだった。
反論ではなく、事実として置かれる声音。
それがいちばん厄介だ。
ソラは唇を噛んだ。
「…じゃあ、ここにいたらずっとそのままってことじゃん」
「私の前では違う」
「お前の前だけ違っても意味ないんだよ」
それは言ってしまってから、自分でも思った以上に重かった。
セレスの目が、ほんの少しだけ細くなる。傷ついたようにも見えた。たぶん気のせいではない。
だが撤回はしたくなかった。
違うのだ。
セレスだけが名前で呼んでくれることも。
セレスだけが本当に見てくれることも。
池に落ちた時、先に風邪を心配したことも。
そんなものじゃ足りない。
足りなくて困っているのは、たぶん自分の方だった。
「…帰っていいか」
低く言うと、セレスは少し黙ってから頷いた。
「ええ」
あっさりした返事だった。
ソラはそのまま扉へ向かう。出る直前、背中越しに声が掛けられる。
「ソラ」
足が止まる。
「あなたが思っているより、私はあなたを大事に思っているわ」
振り返らないまま、ソラは短く答えた。
「…知ってる」
知っている。
知っているから困るのだ。
軽く扱われていない。
雑に放ってもおかれない。
大事にはされている。
そのうえで自由がないから、余計に苦しい。
廊下へ出る。扉が後ろで静かに閉まった。
長い廊下の先、夕暮れの光が赤く床へ落ちている。研究員たちの会話はもう消えていた。
代わりに、遠くで洗濯籠を運ぶ音がする。からり、からり、と軽い木枠のぶつかる音。
洗濯室。
ソラは足を止めた。
給仕口、洗濯区画、食糧庫。
生活区画の裏側は、表より人の流れが複雑だ。複雑なら、見られにくい時間もあるかもしれない。
鍵だけじゃない。
正面から扉を開けなくても、抜け道はある。
たぶん。
いや、あるはずだ。
ソラはゆっくりと口の端を上げた。
「…今度は、もうちょいまともにやる」
誰も聞いていない廊下で、小さく呟く。
反省はしている。
しているから、次は改善する。
少なくとも食糧庫に突っ込むよりはましな方法で。
そう考えたところで、横の窓に自分の顔が映った。
黒髪、黒目、ややむっとした表情。
華奢で、弱そうで、守られて当然みたいな顔。
「…その顔やめろよ」
自分に向かって悪態をついたところで、窓の向こうから低い声が飛んだ。
「ひとり言か」
ぎょっとして振り返ると、いつの間にかガルフが廊下の角に立っていた。
「うわっ、出た」
「化け物みたいな扱いするな」
「気配消すなよ!」
「消してない。お前が考え事をしていただけだ」
正論で殴られるの、ほんとやめてほしい。
ガルフは腕を組み、ソラを上から下まで見た。
「研究室の帰りか」
「だったら何だよ」
「顔がいつも以上に険しいな」
「ほっとけ」
「そうもいかん」
そう言って歩き出したので、ソラも反射的についていく形になる。並びたくないのに、歩幅が広すぎて自然に護送みたいな構図になってしまうのが腹立たしい。
「お前、さっき洗濯室の方を見ていたな」
ぎくりとした。
「別に」
「次はそこから行く気か」
「行かない」
「じゃあ食糧庫か」
「なんで二択なんだよ!」
「前科があるからな」
「くっそ…」
否定しきれないのがまたつらい。ガルフは鼻で笑うような息をひとつ漏らした。
「まあ、何を考えようと勝手だ」
「へえ、優しいじゃん」
「捕まえるのは私だからな。多少泳がせた方が動きが読める」
「最悪だ!」
「知っている」
この研究院、返しがいちいち似ているのは何なんだろう。教育でもされているのか。
部屋の前まで送られ、ガルフは扉を開けながら言った。
「お前は弱い」
唐突で、しかも最悪の言葉だった。
ソラが睨み上げると、ガルフは続ける。
「だが弱いくせに、じっとしていない。そこが厄介だ」
「褒めてんのか?」
「面倒だと言っている」
「知ってるよ」
「ならいい」
ガルフはそれだけ言って、扉を閉めた。
部屋に一人になる。
静かだった。
完璧に整えられた空間。少し前まで誰かが開けていた窓の気配も、今はもうなくなっている。机の上には新しい果物皿。嫌いな柑橘は入っていない。
…やっぱり抜かれている。
「なんなんだよ、ほんとに」
椅子に腰を下ろしながら、ソラは小さくぼやいた。
優しい。
細かい。
分かってるようで、分かってない。
でも、少なくともさっきひとつだけ分かったことがある。
自分はこのまま“個体”で終わりたくない。
大事にされるだけでも駄目だ。
名前で呼ばれるだけでも、まだ足りない。
ここにいる限り、自分はずっと何かの“対象”のままだ。
だから出る。
出なければならない。
ソラは机の引き出しを開けた。見つかったはずのメモの代わりに、別の紙を引っ張り出す。今度はもっと簡単なとこからだ。
洗濯室の位置。
給仕口。
西廊下の死角。
巡回の時間。
ぐしゃぐしゃでもいい。
今はまだ雑でもいい。
ただ、前より一歩はましにする。
「…今度こそ」
紙の上に線を引く。
その線はまだ頼りなく、どこへ続くかも分からなかった。
それでも昨日のシーツよりは、少しだけまともだと思えた。
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