「愛か所有か」
セレスの「渡したくない」が耳に残ったまま、その場の空気はしばらく動かなかった。
細い脇道。
通りから少し外れただけなのに、人の気配は遠い。
聞こえるのは、どこかの店先で食器が触れ合う音と、風が布を鳴らす音、それから自分たちの呼吸だけだった。
誰にも渡したくない。
その言葉は甘くなかった。
むしろ、甘さからいちばん遠いところにあった。
欲しい。
離したくない。
自分の手の届く場所に置いておきたい。
そういう感情の形をしているのに、セレス本人がそれをどう扱えばいいか分かっていない、そんな響きだった。
だから余計に怖い。
「…離せよ」
ソラがもう一度言うと、セレスははっとしたように手を緩めた。
だが完全には離さない。
そこがまた、ソラにはたまらなく嫌だった。
「ソラ、聞いて」
「聞いてるだろ」
「ちゃんと」
「ちゃんと聞いた結果がこれなんだけど」
手首を掴まれたまま、ソラはセレスを睨み上げる。
近い。
翡翠の目が揺れている。
こんなふうに感情が表に出たセレスを見るのは、たぶん初めてではない。
けれど、今はそれが前よりずっとはっきり見えた。
理性が追いついていない顔だ。
「ヴァルシアは危険よ」
「知ってる」
「あなたを“欲しいもの”として見ている」
「それも知ってる」
「だったら――」
「だったら、お前のとこならいいのかよ」
遮った瞬間、セレスが黙る。
ソラの胸の中で何かがひどく熱くなった。
怒りだ。
たぶん。
でも、それだけじゃない。
「ヴァルシアは正面から欲しいって言った。最悪だけど、まだ分かりやすい」
「…」
「お前は違うだろ」
ソラは一歩だけ踏み込んだ。
逃げるためじゃない。
ぶつけるために。
「守るって言う。保護だって言う。危ないから出せないって言う。優しい顔して、丁寧にして、俺のためみたいに言う」
喉が熱い。
声を荒げているわけではないのに、ひどく刺々しい響きになっているのが自分でも分かった。
「でも結局、最後はお前が決めるんだろ」
「違うわ」
セレスが反射的に言う。
「何が」
「私は、あなたを――」
「守りたい?」
ソラが言うと、セレスはその先を飲み込んだ。
「そう言うと思った」
自分でもびっくりするくらい冷たい声が出た。
「でもそれって、俺の意思を抜いたままでも成立するんだろ。危ないから。弱いから。狙われるから。そうやって」
セレスは何か言おうとして、言葉を探している。
その隙が、今日はやけにソラを苛立たせた。
「ヴァルシアの金の檻も嫌だよ」
ソラは続ける。
「でも、研究院の檻の方がマシだなんて思わない」
「ソラ」
「お前、また閉じ込める気だろ」
セレスの指先がぴくりと震える。
「今の状況で、外に出しておけるわけがないわ」
その返答を聞いた瞬間、ソラの中で何かがひとつ、冷たく固まった。
ああ、やっぱりそうだ。
理屈はある。
正しさもある。
でもその正しさの中には、結局自分の意思が入っていない。
「ほらな」
ソラは笑いそうになって、できなかった。
「お前、やっぱりそういうとこだよ」
「あなたが今どれだけ危うい立場か、分かっているの?」
「分かってる」
「分かっていないわ」
「分かってるって!」
ついに声が上ずる。
「教国も商盟も管理局も、ヴァルシアまで出てきた。どこ行っても囲われるって、嫌ってほど分かったよ!」
セレスの目が少しだけ見開かれる。
「でも、それで研究院に戻るしかないって話になるのが、俺は一番嫌なんだよ」
胸が苦しい。
息がうまく入らない。
それでも言わなければ、たぶん自分が先に壊れる。
「何で分かんないんだよ」
絞り出すように言う。
「お前だけは、そこじゃない答え持ってくるかもしれないって、ちょっと思ってたのに」
言ってしまってから、ソラは自分で息を止めた。
しまった、と思った。
言いたくなかった。
でも、もう遅い。
期待していた。
その事実を、自分の口で認めてしまった。
セレスの顔から、はっきりと色が引いた。
「…そう」
小さく落ちた声は、ひどく静かだった。
ソラは目を逸らしたくなった。
でも逸らせない。
ここで逸らしたら、全部ごまかしになってしまう気がした。
「俺、ヴァルシアが嫌なのと同じくらい」
低く、ゆっくりと言う。
「お前が、その顔で“渡したくない”って言うのも嫌だ」
セレスが、ひどく小さく息を呑む。
「怖いんだよ」
その言葉は、予想よりずっとまっすぐ出た。
「優しいくせに、結局は自分のとこへ戻そうとするのが」
「私は…」
セレスが言葉を探す。
「私は、あなたを傷つけたいわけじゃない」
「でも傷ついてる」
「それは」
「それは何だよ」
返事は来なかった。
ソラは奥歯を噛んだ。
この沈黙が一番嫌いだ。
理屈で押し切るでもなく、綺麗に嘘をつくでもなく、ただ答えきれないまま揺れる沈黙。
それが、むしろ本気なのだと分かってしまうから。
「お前も」
ソラは言った。
「自分の檻に入れておきたいだけだろ」
空気が凍った。
今度こそ、セレスは何も言えなかった。
否定しない。
できない。
その事実が、ソラの胸に深く刺さる。
違うと言ってほしかったのだと、今さら思い知らされる。
研究院の管理者としてではなく。
保護責任としてでもなく。
もっと別の、でも所有ではない言葉を、どこかで期待していた。
馬鹿みたいだ。
「…答えろよ」
声が少しだけ掠れる。
「違うって言えよ」
セレスの唇が、かすかに震えた。
けれど、その口から出たのは、否定ではなかった。
「今の私には」
途切れ途切れの声。
「完全には、否定できないわ」
その瞬間、ソラは何も言えなくなった。
頭の中が、ひどく静かになる。
ああ、そうなんだ、と思った。
傷つく時というのは、もっと派手だと思っていた。
怒鳴るとか。
泣くとか。
何か壊すとか。
でも本当に痛い時は、こんなふうに静かに落ちるものらしい。
「…そっか」
ようやく出た声は、ひどく薄かった。
セレスが一歩近づこうとする。
ソラは反射的に、半歩下がった。
その動きに、セレスの足が止まる。
「来るな」
低く言う。
「ソラ」
「来るなって」
今度ははっきりとした拒絶だった。
セレスの顔が歪む。
それを見て、ソラも痛い。
でも、今はそれ以上に近づかれる方が無理だった。
「俺、ヴァルシアにも渡されたくない」
ソラは言う。
「でも、お前のところに戻されるのも嫌だ」
「…」
「誰のものにもなりたくないんだよ」
その一言だけは、変にぶれなかった。
セレスはしばらく何も言わなかった。
脇道の向こうで、人の足音が遠く響く。
昼の街はまだ動いているのに、この場所だけが切り離されたみたいに静かだ。
やがてセレスが、ひどく静かな声で言う。
「ごめんなさい」
謝られても、どうしていいか分からなかった。
今ほしいのは謝罪じゃない。
でも、じゃあ何がほしいのかと訊かれたら、ソラにも答えられない。
「…謝るくらいなら」
絞り出すように言う。
「最初から、そういう顔で言うなよ」
セレスは目を閉じた。
ほんの一瞬だけ。
それから、ゆっくりと手を離す。
解放された手首がやけに軽くて、同時に少しだけ冷えた。
「今はもう、追わないわ」
セレスが言う。
その言葉が本心かどうか、ソラには分からない。
でも少なくとも今この場で、それ以上近づく気はないらしい。
「…そう」
ソラはそれだけ返す。
他に言葉がなかった。
セレスは何か言いかけて、やめた。
翡翠の目の中には、まだ言葉になっていないものがいくつも沈んでいる。
けれど今は、それを聞く余裕がソラにはない。
背を向ける。
足が少し震えているのが自分でも分かった。
「ソラ」
最後に一度だけ、名前を呼ばれる。
ソラは止まらなかった。
止まったら、何かがまた戻ってしまう気がしたからだ。
◇
ミアラの隠れ場所へ戻った時、ソラはひどく疲れていた。
走ったわけでもない。
追われたわけでもない。
なのに、身体の芯が空っぽみたいに重い。
「…うわ」
中へ入るなり、ルッカが変な声を出した。
「何その顔」
「どういう意味だよ」
「いや…いつもの“最悪”の顔じゃなくて、もっとこう…」
「余計なお世話」
ルッカが黙る。
奥からミアラが出てきた。ソラを見るなり、耳がぴくりと動く。
「会ったんだ」
問いではなく確認だった。
ソラは少しだけ迷ってから、頷いた。
「うん」
「で」
「…だめだった」
その言葉に、自分で少しだけ驚いた。
だめだった。
何がだめだったのか。
話し合いか。
期待か。
自分の甘さか。
たぶん全部だ。
ミアラは深くは聞かなかった。
ただ、少しだけ近づいてきて、ソラの顔を覗き込む。
「泣く?」
「泣かない」
「そう」
「子ども扱いすんな」
「してない。確認しただけ」
ソラは壁際へ座り込んだ。
背中がひどく重い。
しばらく沈黙が落ちる。
ルッカは空気を読んだのか、読まなかったのか、奥の方へ消えた。
ミアラだけが、少し離れた場所へ腰を下ろす。
「…言われた?」
ぽつりと訊かれる。
「何を」
「嫌なこと」
ソラは少しだけ笑いそうになって、やめた。
「俺も言った」
「そっか」
「お前、そこは責めないんだな」
「責めないよ。傷ついた時って、だいたいお互い様だし」
その返しが妙に優しくて、ソラは少しだけ目を伏せた。
「…期待してたんだよ」
気づけば、こぼれていた。
「何か違う答え、持ってくるかもって」
ミアラは何も言わない。
その沈黙がありがたかった。
励まされるのも、慰められるのも、たぶん今は違う。
「でも結局、お前も自分の檻に入れておきたいだけだろ、って」
そこまで言って、ソラは口をつぐむ。
「言ったんだ」
「言った」
「で、否定されなかった」
ミアラの耳が、ほんの少しだけ伏せられる。
それはたぶん、気の毒に思った時の動きだ。
気づきたくないのに、もう少しずつ読めるようになってしまっている。
「…最悪だな」
ミアラが小さく言う。
「だろ」
「うん」
短いやり取り。
でも、それだけで少しだけ息がしやすくなる。
ソラは膝を抱えた。
ヴァルシアの金の檻。
セレスの優しい檻。
外の保護施設。
教国の正しい囲い。
商盟の金の囲い。
形は違う。
でも全部、自分の意思より先に“こちらのため”を差し出してくる。
もう、研究院が嫌だから逃げる、だけではない。
もっと根っこのところで、自分はそういうもの全部から逃げたいのだと、今はっきり思った。
「…俺」
ソラは低く言う。
「研究院から逃げたつもりだったんだけど」
ミアラが見る。
「違ったっぽい」
「何が」
ソラは顔を上げた。
「俺、研究院から逃げたいんじゃなくて」
「誰のものにもなりたくないんだ」
その言葉は、不思議なくらい静かに落ちた。
口にした瞬間、何かが少しだけ定まる。
そうだ。
たぶんそれが、一番近い。
研究院が嫌だった。
でも、嫌だったのは研究院だけじゃない。
誰かの善意でも、正しさでも、欲望でも、自分の意思を抜いたまま“お前はここにいろ”と言われること、そのものが嫌なのだ。
ミアラはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「うん」
「何だよ」
「今の、たぶん本当」
「…そうだよ」
「じゃあ、それでいいんじゃない」
その言い方は、驚くほどあっさりしていた。
でも今のソラには、その軽さがちょうどよかった。
「研究院だけが敵だった頃より、面倒だけどね」
ミアラが付け足す。
ソラは小さく息を吐く。
「だな」
「でも前よりはっきりしたでしょ」
「うん」
「なら、まだマシ」
その“まだマシ”に、ソラは少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
外は相変わらず最悪だ。
面倒ばかり増える。
値札もつくし、囲いもあるし、逃げても終わらない。
それでも、今は少なくとも、自分が何から逃げたいのかだけは前よりはっきりしていた。
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