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人間飼育記録:ポンコツ個体は今日も脱走に失敗する  作者: きなこもち
第3章 『金の檻は誰のもの』

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「愛か所有か」

 


 セレスの「渡したくない」が耳に残ったまま、その場の空気はしばらく動かなかった。


 細い脇道。

 通りから少し外れただけなのに、人の気配は遠い。

 聞こえるのは、どこかの店先で食器が触れ合う音と、風が布を鳴らす音、それから自分たちの呼吸だけだった。


 誰にも渡したくない。


 その言葉は甘くなかった。

 むしろ、甘さからいちばん遠いところにあった。


 欲しい。

 離したくない。

 自分の手の届く場所に置いておきたい。


 そういう感情の形をしているのに、セレス本人がそれをどう扱えばいいか分かっていない、そんな響きだった。


 だから余計に怖い。


「…離せよ」


 ソラがもう一度言うと、セレスははっとしたように手を緩めた。


 だが完全には離さない。

 そこがまた、ソラにはたまらなく嫌だった。


「ソラ、聞いて」


「聞いてるだろ」


「ちゃんと」


「ちゃんと聞いた結果がこれなんだけど」


 手首を掴まれたまま、ソラはセレスを睨み上げる。


 近い。

 翡翠の目が揺れている。

 こんなふうに感情が表に出たセレスを見るのは、たぶん初めてではない。

 けれど、今はそれが前よりずっとはっきり見えた。


 理性が追いついていない顔だ。


「ヴァルシアは危険よ」


「知ってる」


「あなたを“欲しいもの”として見ている」


「それも知ってる」


「だったら――」


「だったら、お前のとこならいいのかよ」


 遮った瞬間、セレスが黙る。


 ソラの胸の中で何かがひどく熱くなった。

 怒りだ。

 たぶん。

 でも、それだけじゃない。


「ヴァルシアは正面から欲しいって言った。最悪だけど、まだ分かりやすい」


「…」


「お前は違うだろ」


 ソラは一歩だけ踏み込んだ。

 逃げるためじゃない。

 ぶつけるために。


「守るって言う。保護だって言う。危ないから出せないって言う。優しい顔して、丁寧にして、俺のためみたいに言う」


 喉が熱い。

 声を荒げているわけではないのに、ひどく刺々しい響きになっているのが自分でも分かった。


「でも結局、最後はお前が決めるんだろ」


「違うわ」


 セレスが反射的に言う。


「何が」


「私は、あなたを――」


「守りたい?」


 ソラが言うと、セレスはその先を飲み込んだ。


「そう言うと思った」


 自分でもびっくりするくらい冷たい声が出た。


「でもそれって、俺の意思を抜いたままでも成立するんだろ。危ないから。弱いから。狙われるから。そうやって」


 セレスは何か言おうとして、言葉を探している。

 その隙が、今日はやけにソラを苛立たせた。


「ヴァルシアの金の檻も嫌だよ」


 ソラは続ける。


「でも、研究院の檻の方がマシだなんて思わない」


「ソラ」


「お前、また閉じ込める気だろ」


 セレスの指先がぴくりと震える。


「今の状況で、外に出しておけるわけがないわ」


 その返答を聞いた瞬間、ソラの中で何かがひとつ、冷たく固まった。


 ああ、やっぱりそうだ。


 理屈はある。

 正しさもある。

 でもその正しさの中には、結局自分の意思が入っていない。


「ほらな」


 ソラは笑いそうになって、できなかった。


「お前、やっぱりそういうとこだよ」


「あなたが今どれだけ危うい立場か、分かっているの?」


「分かってる」


「分かっていないわ」


「分かってるって!」


 ついに声が上ずる。


「教国も商盟も管理局も、ヴァルシアまで出てきた。どこ行っても囲われるって、嫌ってほど分かったよ!」


 セレスの目が少しだけ見開かれる。


「でも、それで研究院に戻るしかないって話になるのが、俺は一番嫌なんだよ」


 胸が苦しい。

 息がうまく入らない。


 それでも言わなければ、たぶん自分が先に壊れる。


「何で分かんないんだよ」


 絞り出すように言う。


「お前だけは、そこじゃない答え持ってくるかもしれないって、ちょっと思ってたのに」


 言ってしまってから、ソラは自分で息を止めた。


 しまった、と思った。

 言いたくなかった。

 でも、もう遅い。


 期待していた。


 その事実を、自分の口で認めてしまった。


 セレスの顔から、はっきりと色が引いた。


「…そう」


 小さく落ちた声は、ひどく静かだった。


 ソラは目を逸らしたくなった。

 でも逸らせない。


 ここで逸らしたら、全部ごまかしになってしまう気がした。


「俺、ヴァルシアが嫌なのと同じくらい」


 低く、ゆっくりと言う。


「お前が、その顔で“渡したくない”って言うのも嫌だ」


 セレスが、ひどく小さく息を呑む。


「怖いんだよ」


 その言葉は、予想よりずっとまっすぐ出た。


「優しいくせに、結局は自分のとこへ戻そうとするのが」


「私は…」


 セレスが言葉を探す。


「私は、あなたを傷つけたいわけじゃない」


「でも傷ついてる」


「それは」


「それは何だよ」


 返事は来なかった。


 ソラは奥歯を噛んだ。

 この沈黙が一番嫌いだ。

 理屈で押し切るでもなく、綺麗に嘘をつくでもなく、ただ答えきれないまま揺れる沈黙。


 それが、むしろ本気なのだと分かってしまうから。


「お前も」


 ソラは言った。


「自分の檻に入れておきたいだけだろ」


 空気が凍った。


 今度こそ、セレスは何も言えなかった。


 否定しない。

 できない。

 その事実が、ソラの胸に深く刺さる。


 違うと言ってほしかったのだと、今さら思い知らされる。


 研究院の管理者としてではなく。

 保護責任としてでもなく。

 もっと別の、でも所有ではない言葉を、どこかで期待していた。


 馬鹿みたいだ。


「…答えろよ」


 声が少しだけ掠れる。


「違うって言えよ」


 セレスの唇が、かすかに震えた。


 けれど、その口から出たのは、否定ではなかった。


「今の私には」


 途切れ途切れの声。


「完全には、否定できないわ」


 その瞬間、ソラは何も言えなくなった。


 頭の中が、ひどく静かになる。


 ああ、そうなんだ、と思った。


 傷つく時というのは、もっと派手だと思っていた。

 怒鳴るとか。

 泣くとか。

 何か壊すとか。


 でも本当に痛い時は、こんなふうに静かに落ちるものらしい。


「…そっか」


 ようやく出た声は、ひどく薄かった。


 セレスが一歩近づこうとする。

 ソラは反射的に、半歩下がった。


 その動きに、セレスの足が止まる。


「来るな」


 低く言う。


「ソラ」


「来るなって」


 今度ははっきりとした拒絶だった。


 セレスの顔が歪む。

 それを見て、ソラも痛い。

 でも、今はそれ以上に近づかれる方が無理だった。


「俺、ヴァルシアにも渡されたくない」


 ソラは言う。


「でも、お前のところに戻されるのも嫌だ」


「…」


「誰のものにもなりたくないんだよ」


 その一言だけは、変にぶれなかった。


 セレスはしばらく何も言わなかった。


 脇道の向こうで、人の足音が遠く響く。

 昼の街はまだ動いているのに、この場所だけが切り離されたみたいに静かだ。


 やがてセレスが、ひどく静かな声で言う。


「ごめんなさい」


 謝られても、どうしていいか分からなかった。


 今ほしいのは謝罪じゃない。

 でも、じゃあ何がほしいのかと訊かれたら、ソラにも答えられない。


「…謝るくらいなら」


 絞り出すように言う。


「最初から、そういう顔で言うなよ」


 セレスは目を閉じた。

 ほんの一瞬だけ。


 それから、ゆっくりと手を離す。


 解放された手首がやけに軽くて、同時に少しだけ冷えた。


「今はもう、追わないわ」


 セレスが言う。


 その言葉が本心かどうか、ソラには分からない。

 でも少なくとも今この場で、それ以上近づく気はないらしい。


「…そう」


 ソラはそれだけ返す。


 他に言葉がなかった。


 セレスは何か言いかけて、やめた。

 翡翠の目の中には、まだ言葉になっていないものがいくつも沈んでいる。

 けれど今は、それを聞く余裕がソラにはない。


 背を向ける。

 足が少し震えているのが自分でも分かった。


「ソラ」


 最後に一度だけ、名前を呼ばれる。


 ソラは止まらなかった。


 止まったら、何かがまた戻ってしまう気がしたからだ。


 ◇


 ミアラの隠れ場所へ戻った時、ソラはひどく疲れていた。


 走ったわけでもない。

 追われたわけでもない。


 なのに、身体の芯が空っぽみたいに重い。


「…うわ」


 中へ入るなり、ルッカが変な声を出した。


「何その顔」


「どういう意味だよ」


「いや…いつもの“最悪”の顔じゃなくて、もっとこう…」


「余計なお世話」


 ルッカが黙る。


 奥からミアラが出てきた。ソラを見るなり、耳がぴくりと動く。


「会ったんだ」


 問いではなく確認だった。


 ソラは少しだけ迷ってから、頷いた。


「うん」


「で」


「…だめだった」


 その言葉に、自分で少しだけ驚いた。


 だめだった。

 何がだめだったのか。

 話し合いか。

 期待か。

 自分の甘さか。


 たぶん全部だ。


 ミアラは深くは聞かなかった。

 ただ、少しだけ近づいてきて、ソラの顔を覗き込む。


「泣く?」


「泣かない」


「そう」


「子ども扱いすんな」


「してない。確認しただけ」


 ソラは壁際へ座り込んだ。

 背中がひどく重い。


 しばらく沈黙が落ちる。

 ルッカは空気を読んだのか、読まなかったのか、奥の方へ消えた。


 ミアラだけが、少し離れた場所へ腰を下ろす。


「…言われた?」


 ぽつりと訊かれる。


「何を」


「嫌なこと」


 ソラは少しだけ笑いそうになって、やめた。


「俺も言った」


「そっか」


「お前、そこは責めないんだな」


「責めないよ。傷ついた時って、だいたいお互い様だし」


 その返しが妙に優しくて、ソラは少しだけ目を伏せた。


「…期待してたんだよ」


 気づけば、こぼれていた。


「何か違う答え、持ってくるかもって」


 ミアラは何も言わない。


 その沈黙がありがたかった。

 励まされるのも、慰められるのも、たぶん今は違う。


「でも結局、お前も自分の檻に入れておきたいだけだろ、って」


 そこまで言って、ソラは口をつぐむ。


「言ったんだ」


「言った」


「で、否定されなかった」


 ミアラの耳が、ほんの少しだけ伏せられる。


 それはたぶん、気の毒に思った時の動きだ。

 気づきたくないのに、もう少しずつ読めるようになってしまっている。


「…最悪だな」


 ミアラが小さく言う。


「だろ」


「うん」


 短いやり取り。


 でも、それだけで少しだけ息がしやすくなる。


 ソラは膝を抱えた。


 ヴァルシアの金の檻。

 セレスの優しい檻。

 外の保護施設。

 教国の正しい囲い。

 商盟の金の囲い。


 形は違う。

 でも全部、自分の意思より先に“こちらのため”を差し出してくる。


 もう、研究院が嫌だから逃げる、だけではない。


 もっと根っこのところで、自分はそういうもの全部から逃げたいのだと、今はっきり思った。


「…俺」


 ソラは低く言う。


「研究院から逃げたつもりだったんだけど」


 ミアラが見る。


「違ったっぽい」


「何が」


 ソラは顔を上げた。


「俺、研究院から逃げたいんじゃなくて」


「誰のものにもなりたくないんだ」


 その言葉は、不思議なくらい静かに落ちた。


 口にした瞬間、何かが少しだけ定まる。


 そうだ。

 たぶんそれが、一番近い。


 研究院が嫌だった。

 でも、嫌だったのは研究院だけじゃない。

 誰かの善意でも、正しさでも、欲望でも、自分の意思を抜いたまま“お前はここにいろ”と言われること、そのものが嫌なのだ。


 ミアラはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


「うん」


「何だよ」


「今の、たぶん本当」


「…そうだよ」


「じゃあ、それでいいんじゃない」


 その言い方は、驚くほどあっさりしていた。


 でも今のソラには、その軽さがちょうどよかった。


「研究院だけが敵だった頃より、面倒だけどね」


 ミアラが付け足す。


 ソラは小さく息を吐く。


「だな」


「でも前よりはっきりしたでしょ」


「うん」


「なら、まだマシ」


 その“まだマシ”に、ソラは少しだけ笑った。


 本当に少しだけ。


 外は相変わらず最悪だ。

 面倒ばかり増える。

 値札もつくし、囲いもあるし、逃げても終わらない。


 それでも、今は少なくとも、自分が何から逃げたいのかだけは前よりはっきりしていた。





最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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