「逃げる理由」
その夜、ソラは珍しくよく眠れなかった。
身体は疲れている。
目を閉じれば、すぐ眠ってもおかしくないくらいだ。
なのに、頭の中だけが変に冴えている。
ヴァルシアの目。
セレスの沈黙。
ミアラの「それでいいんじゃない」。
全部が、眠りの手前で何度も浮かんでは沈む。
誰のものにもなりたくない。
口にした時、あれはかなり本音だった。
たぶん今までで一番、自分の気持ちに近い言葉だったと思う。
研究院が嫌。
外の囲いも嫌。
守る名目も、欲しがる視線も嫌。
それを全部まとめるなら、ああなる。
誰のものにもなりたくない。
「…重いな」
自分で呟いて、自分で少しだけ苦くなる。
でも、軽い言葉ではもう無理だった。
◇
翌朝、ソラは水路沿いの石段に座っていた。
ミアラは少し離れた場所で、朝の情報を拾いに行っている。
ルッカもどこかへ走っていった。
ひとりになる時間は珍しくないが、今日は妙に静かだった。
水の流れる音。
遠くの市場のざわめき。
朝の冷たい風。
研究院の朝はもっと整っていたな、と一瞬だけ思って、ソラはすぐに顔をしかめた。
「ほんと、しつこいな…」
身体は記憶している。
温度、匂い、光の差し方まで。
でも、それと戻りたいかどうかは別だ。
そこだけはもう、だいぶはっきりしている。
ソラは膝へ頬杖をつき、流れる水を見た。
結局のところ、自分はずっと“場所”の話をしていたのかもしれない。
研究院の中か、外か。
どこへ逃げるか。
どこへ隠れるか。
でも本当は、もっと違うところが問題だった。
たとえ豪華な部屋でも、自分で出られなければかごだ。
たとえ安全でも、自分の意思が後回しなら息苦しい。
逆に、外が寒くても不便でも、自分の足で選んでいるならまだ耐えられる。
「自由って、面倒だな」
ぽつりとこぼす。
前の世界にいた頃は、そんなこと考えたこともなかった。
コンビニへ行くことも、夜道を歩くことも、誰かと距離を取ることも、全部当たり前すぎて“自由”なんて言葉にすらならなかった。
失ってから、その大きさを知るなんて最悪だ。
だが同時に、その最悪のおかげで見えてきたものもある。
誰のものにもならない。
それは単なる反抗ではなく、自分が自分でいるための最低限なのだ。
「難しい顔」
背後から声がして、ソラは振り返った。
ミアラが戻ってきていた。
片手に紙袋、もう片手に水筒。耳はいつも通りぴんとしているが、目だけ少し眠そうだ。
たぶん朝から走り回っていたのだろう。
「お前も大概だろ」
「人の顔見るの好きだから」
「知ってる」
ミアラは隣へ腰を下ろし、紙袋を押しつけてきた。
中にはまだ温かい薄焼きのパンが二つ入っている。
「今日の朝飯」
「…ありがと」
「はいはい」
雑な返し。
でも少し安心する。
ソラはパンをひと口かじった。
温かい。
昨日までよりは少しまともな朝だ。
それだけで胃がほっとする自分が嫌で、でも悪くもなかった。
「で」
ミアラが水筒の蓋を開けながら言う。
「顔、少しマシになった」
「昨日ひどかったってことか」
「ひどかったよ」
「即答だな」
「だってほんとだし」
そこはぶれないらしい。
「でも今は、怒ってるだけじゃない顔」
「何だそれ」
「決めた顔」
ソラは少しだけ目を細めた。
決めた。
たしかに、そうかもしれない。
セレスとの決裂で傷ついた。
ヴァルシアの圧にもぞっとした。
外の世界の構造にも、何度も気持ち悪くなった。
でもその結果、前よりはっきりした。
「…研究院から逃げたんじゃないんだな、たぶん」
ソラが言うと、ミアラは「うん」とだけ返した。
「誰のものにもならないために逃げる」
言葉にしてみる。
重い。
でも、しっくりくる。
「それ、前よりいい」
ミアラが言った。
「何が」
「逃げる理由」
「理由に良し悪しあんのかよ」
「あるでしょ。前のは“嫌だから逃げる”だった。今のは“こうありたいから逃げる”」
その言い方に、ソラは少しだけ黙った。
たしかに違う。
第1巻の頃の自分は、とにかく研究院が嫌だった。
息苦しくて、閉じ込められていて、慣れたら終わる気がして。
だから逃げる。
今はそれに加えて、もっと根っこの部分が見えている。
自分で決めたい。
誰かの管理の一部ではなく、自分として選びたい。
そのために逃げる。
「…お前、そういうとこたまにうまいこと言うな」
「たまにじゃなくていつも」
「調子乗るな」
ミアラは小さく笑った。
朝の風が少しだけやわらぐ。
水路の水面が揺れる。
街はもう動き始めている。
「で、どうするの」
ミアラが問う。
「逃げ続けるの?」
「それしかないだろ」
「今のところはね」
「何だよ、その含みある言い方」
「いや。逃げるだけじゃ足りなくなる時も来るかなって」
その言葉に、ソラは少しだけ考える。
たしかに、今はもう“どこへ逃げるか”だけでは済まない。
自分を狙うものが増えすぎた。
けれどだからといって、今すぐ何かを変えられる力があるわけでもない。
「今は、逃げる」
ソラは言う。
「でも、ただ逃げるだけで終わりたくはない」
「うん」
「それもたぶん本当」
自分で言って、少しだけ驚く。
昨日までなら、そこまで先のことは考えられなかった。
でも今は、“逃げた先で何を守るか”まで、ほんの少しだけ視界に入ってきている気がする。
まだ早い。
まだ自分は弱い。
それでも、考えないではいられない。
「ソラ」
ミアラが低く呼ぶ。
「なに」
「その顔、今の方がいい」
「どんな顔だよ」
「逃げるだけじゃなくて、ちゃんと前見てる顔」
そんな顔しているだろうか、とソラは思った。
分からない。
でも、昨日の自分よりは少しだけマシかもしれない。
パンを食べ終え、水をひと口飲む。冷たい。生きてる、と思う。
「…俺」
ソラは立ち上がった。
「研究院から逃げたんじゃない」
自分に言い聞かせるみたいに、ゆっくり言う。
「誰のものにもならないために逃げるんだ」
その言葉は、朝の空気に静かに落ちた。
もう、研究院だけが相手じゃない。
ヴァルシアも、教国も、商盟も、管理局も、たぶん全部面倒だ。
でもそれでいい。
相手が増えたなら、なおさら自分が何を守るのかだけは見失いたくなかった。
ミアラは立ち上がったソラを見上げ、少しだけ目を細めた。
「うん」
それだけだった。
でも、その短い返事で十分だった。
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