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人間飼育記録:ポンコツ個体は今日も脱走に失敗する  作者: きなこもち
第3章 『金の檻は誰のもの』

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「逃げる理由」

 


 その夜、ソラは珍しくよく眠れなかった。


 身体は疲れている。

 目を閉じれば、すぐ眠ってもおかしくないくらいだ。

 なのに、頭の中だけが変に冴えている。


 ヴァルシアの目。

 セレスの沈黙。

 ミアラの「それでいいんじゃない」。


 全部が、眠りの手前で何度も浮かんでは沈む。


 誰のものにもなりたくない。


 口にした時、あれはかなり本音だった。

 たぶん今までで一番、自分の気持ちに近い言葉だったと思う。


 研究院が嫌。

 外の囲いも嫌。

 守る名目も、欲しがる視線も嫌。


 それを全部まとめるなら、ああなる。


 誰のものにもなりたくない。


「…重いな」


 自分で呟いて、自分で少しだけ苦くなる。


 でも、軽い言葉ではもう無理だった。


 ◇


 翌朝、ソラは水路沿いの石段に座っていた。


 ミアラは少し離れた場所で、朝の情報を拾いに行っている。

 ルッカもどこかへ走っていった。

 ひとりになる時間は珍しくないが、今日は妙に静かだった。


 水の流れる音。

 遠くの市場のざわめき。

 朝の冷たい風。


 研究院の朝はもっと整っていたな、と一瞬だけ思って、ソラはすぐに顔をしかめた。


「ほんと、しつこいな…」


 身体は記憶している。

 温度、匂い、光の差し方まで。


 でも、それと戻りたいかどうかは別だ。


 そこだけはもう、だいぶはっきりしている。


 ソラは膝へ頬杖をつき、流れる水を見た。


 結局のところ、自分はずっと“場所”の話をしていたのかもしれない。


 研究院の中か、外か。

 どこへ逃げるか。

 どこへ隠れるか。


 でも本当は、もっと違うところが問題だった。


 たとえ豪華な部屋でも、自分で出られなければかごだ。

 たとえ安全でも、自分の意思が後回しなら息苦しい。

 逆に、外が寒くても不便でも、自分の足で選んでいるならまだ耐えられる。


「自由って、面倒だな」


 ぽつりとこぼす。


 前の世界にいた頃は、そんなこと考えたこともなかった。

 コンビニへ行くことも、夜道を歩くことも、誰かと距離を取ることも、全部当たり前すぎて“自由”なんて言葉にすらならなかった。


 失ってから、その大きさを知るなんて最悪だ。


 だが同時に、その最悪のおかげで見えてきたものもある。


 誰のものにもならない。

 それは単なる反抗ではなく、自分が自分でいるための最低限なのだ。


「難しい顔」


 背後から声がして、ソラは振り返った。


 ミアラが戻ってきていた。

 片手に紙袋、もう片手に水筒。耳はいつも通りぴんとしているが、目だけ少し眠そうだ。

 たぶん朝から走り回っていたのだろう。


「お前も大概だろ」


「人の顔見るの好きだから」


「知ってる」


 ミアラは隣へ腰を下ろし、紙袋を押しつけてきた。

 中にはまだ温かい薄焼きのパンが二つ入っている。


「今日の朝飯」


「…ありがと」


「はいはい」


 雑な返し。

 でも少し安心する。


 ソラはパンをひと口かじった。

 温かい。

 昨日までよりは少しまともな朝だ。

 それだけで胃がほっとする自分が嫌で、でも悪くもなかった。


「で」


 ミアラが水筒の蓋を開けながら言う。


「顔、少しマシになった」


「昨日ひどかったってことか」


「ひどかったよ」


「即答だな」


「だってほんとだし」


 そこはぶれないらしい。


「でも今は、怒ってるだけじゃない顔」


「何だそれ」


「決めた顔」


 ソラは少しだけ目を細めた。


 決めた。

 たしかに、そうかもしれない。


 セレスとの決裂で傷ついた。

 ヴァルシアの圧にもぞっとした。

 外の世界の構造にも、何度も気持ち悪くなった。


 でもその結果、前よりはっきりした。


「…研究院から逃げたんじゃないんだな、たぶん」


 ソラが言うと、ミアラは「うん」とだけ返した。


「誰のものにもならないために逃げる」


 言葉にしてみる。


 重い。

 でも、しっくりくる。


「それ、前よりいい」


 ミアラが言った。


「何が」


「逃げる理由」


「理由に良し悪しあんのかよ」


「あるでしょ。前のは“嫌だから逃げる”だった。今のは“こうありたいから逃げる”」


 その言い方に、ソラは少しだけ黙った。


 たしかに違う。


 第1巻の頃の自分は、とにかく研究院が嫌だった。

 息苦しくて、閉じ込められていて、慣れたら終わる気がして。

 だから逃げる。


 今はそれに加えて、もっと根っこの部分が見えている。


 自分で決めたい。

 誰かの管理の一部ではなく、自分として選びたい。

 そのために逃げる。


「…お前、そういうとこたまにうまいこと言うな」


「たまにじゃなくていつも」


「調子乗るな」


 ミアラは小さく笑った。


 朝の風が少しだけやわらぐ。

 水路の水面が揺れる。

 街はもう動き始めている。


「で、どうするの」


 ミアラが問う。


「逃げ続けるの?」


「それしかないだろ」


「今のところはね」


「何だよ、その含みある言い方」


「いや。逃げるだけじゃ足りなくなる時も来るかなって」


 その言葉に、ソラは少しだけ考える。


 たしかに、今はもう“どこへ逃げるか”だけでは済まない。

 自分を狙うものが増えすぎた。

 けれどだからといって、今すぐ何かを変えられる力があるわけでもない。


「今は、逃げる」


 ソラは言う。


「でも、ただ逃げるだけで終わりたくはない」


「うん」


「それもたぶん本当」


 自分で言って、少しだけ驚く。


 昨日までなら、そこまで先のことは考えられなかった。

 でも今は、“逃げた先で何を守るか”まで、ほんの少しだけ視界に入ってきている気がする。


 まだ早い。

 まだ自分は弱い。

 それでも、考えないではいられない。


「ソラ」


 ミアラが低く呼ぶ。


「なに」


「その顔、今の方がいい」


「どんな顔だよ」


「逃げるだけじゃなくて、ちゃんと前見てる顔」


 そんな顔しているだろうか、とソラは思った。


 分からない。

 でも、昨日の自分よりは少しだけマシかもしれない。


 パンを食べ終え、水をひと口飲む。冷たい。生きてる、と思う。


「…俺」


 ソラは立ち上がった。


「研究院から逃げたんじゃない」


 自分に言い聞かせるみたいに、ゆっくり言う。


「誰のものにもならないために逃げるんだ」


 その言葉は、朝の空気に静かに落ちた。


 もう、研究院だけが相手じゃない。

 ヴァルシアも、教国も、商盟も、管理局も、たぶん全部面倒だ。


 でもそれでいい。


 相手が増えたなら、なおさら自分が何を守るのかだけは見失いたくなかった。


 ミアラは立ち上がったソラを見上げ、少しだけ目を細めた。


「うん」


 それだけだった。

 でも、その短い返事で十分だった。



最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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