「渡したくない」
ヴァルシアの宿を見た翌日、街の空気はさらに悪くなっていた。
気のせいではない。
人の流れそのものはいつも通りだ。
荷車は通るし、露店は開くし、酒場の女たちは昼間から客を引いている。
けれど、そのざわめきの底に、いつもとは違う“待ち”がある。
何かが決まるのを待っている。
誰かが動くのを待っている。
そして、その中心に自分がいるのだと考えると、ソラはひどく気分が悪くなった。
「今日はもう目が死んでる」
朝、硬いパンをかじりながらミアラが言った。
「死んでない」
「半分くらい」
「縁起でもないこと言うな」
「比喩」
その返しが最近ちょっとだけセレスっぽい、と一瞬思ってしまって、ソラは自分で嫌な顔になった。
「ほら、今の」
「だから見るなって」
「無理」
いつもの応酬だ。
なのに今日は、少しだけ重い。
昨夜のヴァルシアの視線がまだ身体に残っている。
見つかった、というより、逃げる前提で観察された感じ。
追い詰めるわけでもなく、余裕のまま“そのうち自分の前へ来る”と知っているみたいな目だった。
最悪だ。
「で、どうすんの」
ソラが低く訊くと、ミアラは肩をすくめた。
「逃げる」
「雑だな」
「今さら?」
「今さらだけど」
ルッカが横で小さく手を挙げた。
「東は捨てた方がいい。あと橋沿いも。今朝、教国のやつ見た」
「うわ」
ソラが顔をしかめる。
教国。
竜侯国。
商盟。
管理局。
名前が増えるたびに、行ける場所が減っていく。
個人で逃げているだけのはずなのに、だんだん地図全体から追い詰められていく感じがした。
「西に抜ける?」
ルッカが言う。
「西は西で、昨日から研究院の人間が増えてる」
ミアラが答えた。
その瞬間、ソラの指がぴくりと止まる。
「…研究院」
「うん」
「誰」
「そこまでは」
ミアラはそう言ってから、少しだけソラの顔を見た。
「でも、白い外套の女を見たって話」
喉が、ひどく変な鳴り方をした。
白い外套。
研究院。
その連想が早すぎて嫌になる。
セレスかどうかは分からない。
でも分からないだけで、可能性は十分ある。
「…何だよ、その顔」
ミアラが言う。
「どんな顔」
「嫌そうなのに、ちょっとだけ違う顔」
「意味分かんねえ」
「こっちも完全には分かってない」
ルッカが空気を読んでいるのか読んでいないのか、ぼそっと言う。
「迎えに来たんじゃないの」
「迎えって言うな」
反射的にソラが返すと、ルッカがびくっと肩をすくめた。
少し言いすぎた。
だが今はそれを謝る余裕もない。
迎え。
その言葉が、昨日のヴァルシアと繋がってしまう。
高い宿。
整えられた部屋。
来るのを待つ側の余裕。
セレスが来るのも、同じ意味に見えてしまったらどうするのか。
そう考えただけで、胸の奥が妙にざらついた。
◇
その日の午後、ソラは結局、一人で外へ出ていた。
もちろんミアラは反対した。
「は?」
と言った。
そのあと、「何でそうなるの」とも言った。
それでも出たのは、単純にじっとしていられなかったからだ。
セレスが来ているかもしれない。
その情報だけで、隠れ場所に座って待つのが無理だった。
会いたいわけじゃない。
たぶん違う。
でも、会った時にどう思うのか確かめたい気持ちはあった。
最悪だ、とソラは思う。
こんな時点で自分の中に確かめたいものがある時点で、もう十分に面倒だ。
西区画寄りの通りは、東よりいくらか整っていた。
研究院に近い種の施設や、役所、上等な宿が点在していて、路地裏の雑さが少しだけ薄い。
そのぶん、監視の目も増える。
ソラは首元の布を深く引き上げ、人の流れの端を歩いた。
緊張する。
値踏みされる感覚も嫌だが、今日はそれだけじゃない。
探している側の気配を、自分も探してしまっている。
いた。
通りの向こう、石畳の広場を抜けた先。
白い外套。
淡い金の髪。
すっと伸びた背筋。
セレスだった。
胸の奥が、どく、と鳴る。
嫌な鳴り方だ。
怖い時とも違う。
安心とも違う。
ただ、一瞬で呼吸のリズムが変わる。
セレスは一人ではなかった。
研究院の職員らしい女がふたりほど少し後ろにいる。
だが中心は明らかに彼女だった。
周囲へ何かを尋ね、紙を確認し、また歩き出す。
その姿はいつも通り整っている。
なのに、少しだけ違って見えた。
余裕が薄い。
歩く速度がほんの少し速い。
視線が、何かを探す時のそれになっている。
ソラは反射的に、物陰へ身を寄せた。
見つかるな。
でも、もう少しだけ見たい。
ひどく矛盾した気持ちのまま、呼吸を浅くする。
セレスが立ち止まる。
なにかを感じたみたいに、ゆっくりと顔を上げた。
そして、まっすぐこちらを見た。
「…っ」
見つかった。
逃げなければ、と頭は言う。
でも足が、ほんの一瞬遅れた。
セレスの目が大きく開く。
その変化があまりに一瞬で、ソラは逆に動けなかった。
「ソラ」
名前を呼ばれる。
人混みの向こう。
雑踏の中。
それでも、はっきり届いた。
逃げろ。
ようやく身体がそう判断し、ソラは踵を返した。
だが次の瞬間には、セレスの足音もこちらへ向かっていた。
研究院で聞き慣れたはずのそれが、今は妙に切迫して響く。
「待って!」
待たない。
待てるわけがない。
ソラは細い脇道へ飛び込んだ。
だがそこは行き止まりではないにせよ、奥へ行くほど狭くなる。
やばい、と思った時にはもう遅い。
「ソラ!」
後ろから手首を掴まれた。
強い力ではない。
振り払おうと思えば、振り払えたかもしれない。
でも、掴まれた瞬間の温度に、ほんの一瞬だけ身体が止まった。
最悪だった。
「…離せよ」
振り返らずに言うと、セレスは息を乱したまま返す。
「離したら、またいなくなるでしょう」
「そういうとこだよ」
低く返す。
掴まれた手首が熱い。
体温のせいじゃない。
そこだけ神経が集まったみたいに過敏だった。
セレスはしばらく何も言わなかった。
その沈黙の間に、ソラはようやくゆっくり振り返る。
近い。
思ったよりずっと近くで、セレスが息をしていた。
少しだけ乱れた髪、いつもより速い呼吸、翡翠の目の奥にある、隠しきれていないもの。
安堵。
焦り。
怒りではなく、もっと別の切迫。
こんな顔、前はあまり見なかった。
「…何しに来たんだよ」
ソラが言う。
「探しに来たの」
「何で」
「何でって」
セレスの声が少し掠れた。
「あなたを見失ったままにできるわけないでしょう」
その言葉に、胸が少しだけ痛む。
それは保護責任としてなら、たぶん正しい。
研究院の管理者としてなら、当然の答えだ。
でも今のセレスの顔は、それだけには見えなかった。
「研究院の仕事?」
あえて冷たく訊くと、セレスは一瞬だけ言葉を止めた。
その止まり方に、ソラは妙なものを感じる。
「…それもあるわ」
「それも、って何だよ」
「ソラ」
「名前で誤魔化すな」
手首を掴まれたまま、ソラはセレスを睨み上げる。
近い。
息苦しい。
でも逃げたいだけでもない自分がいて、そのことに腹が立つ。
「ヴァルシアに見つかった」
ソラが先に言った。
セレスの目が鋭くなる。
「いつ」
「昨日」
「怪我は」
「そこ先に聞くんだな」
「当たり前でしょう」
「…そういうとこがな」
言いかけて、やめる。
セレスは掴んだ手を離さなかった。
「彼女はあなたを狙っている」
「知ってるよ」
「知っているなら」
「戻れって?」
セレスが黙る。
その沈黙に、ソラの胸の奥がまたざらついた。
やっぱりそうだ。
そういう話になる。
研究院に戻れば安全。
少なくともヴァルシアの手からは遠ざけられる。
その理屈は分かる。
分かるから余計に嫌だ。
「俺さ」
ソラは低く言った。
「昨日、あいつの宿見た」
セレスの指先がわずかに強ばる。
「すっげえ高そうなとこで、迎えの準備しててさ。部屋も服も全部整えてる感じだった」
「…」
「で、思ったんだよ。豪華でも閉じ込めるなら同じだって」
セレスは何も言わない。
「研究院もそうだった」
言葉が少しずつ熱を持つ。
「お前はもっと丁寧だった。優しかった。ちゃんと名前も呼んだし、俺の嫌いなものまで覚えてた。…でも、閉じ込めてたのは同じだろ」
「ソラ」
「違うって言えるのかよ」
そこで初めて、セレスの手が少しだけ震えたのが分かった。
怒っているわけではない。
傷ついているのだと、ソラには分かった。
分かりたくなかった。
「私は」
セレスが低く言う。
「あなたを、ヴァルシアに渡すつもりはないわ」
「それ、俺のため?」
「…ええ」
「全部?」
また沈黙。
この沈黙が、ソラには一番きつかった。
研究院の理屈だけなら、まだ反発できる。
でも今のセレスは、理屈の外に何かを持ち込んでいる。
そのくせ、それをまだうまく言葉にできていない。
「…誰にも」
やがて、セレスがぽつりと漏らす。
「あなたを、誰にも渡したくないの」
その一言で、空気が止まった気がした。
ソラは瞬きを忘れる。
意味が分からないわけじゃない。
でも、分かりたくない意味も混ざっていた。
研究院の責任。
管理者としての保護。
それだけではない響き。
嬉しい、ではない。
安心でもない。
真っ先に来たのは、ひどく曖昧で、ひどく刺さる怖さだった。
「…それ、何なんだよ」
ようやく出た声は、自分でも驚くくらい低かった。
セレスは答えない。
答えられない顔だった。
ソラはその顔を見て、胸の奥が痛くなるのを感じた。
期待してはいけない。
分かっている。
でも、ほんの少しだけ、“違う答え”を持ってきてほしかった自分がいたのだと気づいてしまう。
そのことが、何より最悪だった。
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