「金の檻」
ヴァルシアと遭遇したその日の夕方、ソラはミアラと本気で喧嘩しかけた。
「だから言っただろ!」
狭い隠れ場所へ戻るなり、ソラは布を乱暴に外して床へ投げた。
「あれ絶対やばいやつじゃん!何だよあの目!何で止めなかったんだよ!」
「止められるなら止めてる!」
ミアラも珍しく声を荒げる。
「相手が誰だと思ってんの!通りのチンピラじゃないんだよ!」
「じゃあ何だよ、侯爵なら見られて終わりってことか!?」
「そういう意味じゃない!」
「でもそういう空気だっただろ!」
言い合いの勢いだけは十分だった。
だが、言葉をぶつけながらも、ふたりとも本当に怒っている相手は相手そのものではない。
ヴァルシアだ。
あの女が、あまりにも“当然”みたいにソラを欲しがる目をしていたこと。
そして、その“当然”を成立させられる立場にいること。
それが、とにかく気味が悪かった。
「…っ、くそ」
ソラは壁を蹴りそうになって、足のことを思い出してやめた。
代わりにぐしゃぐしゃの布を掴んで握り潰す。
ミアラもまだ息が荒い。
耳がぴんと立ち、尻尾が苛立たしげに揺れていた。
「とにかく今日はもう動かない」
「嫌だ」
「嫌でも」
「嫌だって!」
叫んでから、自分でも少しだけ驚く。
さっきの遭遇で、思っていた以上に神経が削られていたらしい。
胸の奥がざわつく。
落ち着かない。
じっとしていると、あの金色の目が頭に蘇る。
――美しいな。
――その目はいいな。
――私の好きな目だ。
「…最悪だ」
低く吐き捨てると、ミアラが息をついた。
「それは同意」
「お前、前から知ってたのか」
「名前と噂だけ」
「十分怖いだろ」
「怖いよ」
ミアラはそのへんの木箱へ腰を下ろした。
「欲しいものを隠さない。欲しいと思ったら引かない。しかも引かなくて済む力がある。ああいうのが一番面倒なんだ」
ソラは何も言えなかった。
研究院の息苦しさは、ある意味で分かりやすかった。
丁寧に扱われる。
でも閉じ込められる。
守ると言いながら、自由は奪われる。
ヴァルシアは違う。
丁寧かどうかも、優しいかどうかもまだ分からない。
ただ、“欲しいから欲しい”と隠さない。
その露骨さが、かえって逃げ場を奪う。
「…もうさ」
ソラは壁にもたれたまま、顔を上げた。
「どいつもこいつも、囲う前提なんだよな」
「この世界の奴らは、みんなそう」
「うんざりする」
「そうだね」
ミアラの返しは短かった。
ちょうどその時、外の通路で足音がした。
ルッカだ。
慌てた様子で布をくぐり、息を切らせたまま入ってくる。
「姉貴、やばい」
「今度は何だ?」
「だってやばいんだよ!」
ルッカはソラを見るなり、少しだけ目を丸くした。
「まだいた」
「どういう確認だよ」
「いや、侯爵見たあと消えててもおかしくない顔してたから…」
その言い方が妙に正確で、ソラは黙った。
ルッカは空気を読んだのか読まないのか、そのまま早口で続ける。
「竜侯国のとこ、宿取ってる。西区画の上宿。しかも、護衛だけじゃなくて“迎えの準備”してるって」
「迎え?」
ソラが顔を上げる。
ミアラの目も細くなる。
「どこからの話」
「荷運びの連中。高そうな部屋を整えろって言われたって」
その瞬間、ソラの背筋に嫌な寒気が走った。
迎え。
部屋を整える。
高そうな部屋。
「…何だよそれ」
ぼそっとこぼすと、ルッカは言いにくそうに肩をすくめる。
「たぶん、囲う気まんまんだな」
ふざけんなよ、とソラは言いたかった。
だが喉が変に詰まって声にならなかった。
ミアラが静かに立ち上がる。
「場所、正確に分かる?」
「だいたいは」
「行く」
「は?」
ソラが顔を上げる。ミアラは本気の顔だった。
「見に行く」
「何で」
「敵がどこまで本気か見るため」
「危ないだろ」
「危ないから見にいくの」
その理屈はミアラらしくて、でも今のソラには全然納得できなかった。
「お前、それで捕まったらどうすんだよ」
「捕まらない」
「なら俺も行く」
「は?」
今度はミアラが本気で嫌そうな声を出した。
「何で」
「何でって」
「何でそうなるの!」
「俺の話だろ!」
叫んだ瞬間、狭い隠れ場所の空気が少し揺れた。
そうだ。
これは自分の話だ。
誰がどんな部屋を整えようとしているのか、誰がどんなつもりで迎えるつもりなのか、それを知らないまま待っているのは嫌だった。
ミアラは額を押さえた。
「いや、理屈は分かるけど」
「けど何だよ」
「今のあんた、あいつの前で平常心保てる?」
それを言われると少し詰まる。
金色の目が頭に浮かぶ。
見つけたものを値踏みするんじゃなく、最初から“欲しいもの”として見る目。
たしかに、あれを前にして冷静でいられる自信はなかった。
それでも。
「見ておきたい」
低く言う。
ミアラはしばらく無言でソラを見ていたが、やがて面倒くさそうに息を吐いた。
「絶対前に出るなよ」
「…出ないって」
「今の間、信用度ゼロなんだけど」
「今回はほんとに」
「毎回それ言ってるだろ」
ルッカが横でぼそっと言った。
お前は黙ってろ。
◇
西区画の上宿は、路地裏の隠れ家とはまるで別世界だった。
建物の外壁からして違う。
白っぽい石が磨かれ、窓枠には金属細工。
入口には制服姿の女たちが立ち、出入りする馬車まで質がいい。
ソラは少し離れた屋根の影から、それを見下ろしていた。
「うわ…」
思わず漏れた声に、ミアラが小さく肘を入れてくる。
「静かに」
「いや、だって」
だって、あれは。
研究院の客室よりさらに露骨に“上の人間の場所”だ。
綺麗で。
高価で。
温かくて。
そして、どこへも逃がさないようにできていそうな場所。
入口から少しして、大きめの馬車が入っていく。
荷台ではなく、客を乗せる上等な型だ。
中から運び込まれているのは箱ではない。
布、酒瓶、花、それから衣装箱のようなものまである。
「…何なんだよ、あれ」
ソラが呟くと、ルッカが小声で答える。
「完全に迎える気まんまんだね」
「迎えるって言い方やめろ」
「でも絶対そうじゃん」
ミアラはじっと宿の動きを見ていた。
護衛の配置。
出入りする人数。
裏口の位置。
そういうものを全部頭へ入れている顔だ。
ソラはその横顔をちらりと見て、それからまた宿へ視線を戻す。
豪華だった。
研究院と似ているところもある。
上等な部屋。
整った管理。
寒くない空間。
不足のない食事。
でも、ここはもっと露骨だ。
“珍しいものを迎える準備”を、隠しもしない。
その時、宿の正面玄関が静かに開いた。
出てきたのは、ヴァルシアだった。
昼間と同じく高い。
だが夜の灯りの下だと、その存在感はさらに濃い。
赤銅色の髪は鈍く光り、長い外套の裾が石段をゆっくり滑る。
隣には側近らしい女がひとり、二歩後ろに護衛。
ヴァルシアは何か指示を出し、それからふと空を見た。
その動作ひとつまで堂々としていて、ソラは無意識に息を止めた。
「見つかるなよ…」
小さく呟いた瞬間。
ヴァルシアが、まっすぐこちらを見た。
心臓が止まるかと思った。
距離はある。
屋根の影もある。
なのに、確実に見られたと分かる。
「うそだろ」
ソラがほとんど息だけで言うと、ミアラも一瞬だけ固まった。
ヴァルシアの金の目が、夜の中でこちらを捉えている。
見えた、というより、最初から気配を追っていたみたいな目だ。
そして、口元がわずかに上がる。
「やば…」
ルッカが引きつった声を漏らした。
ヴァルシアは護衛へ何かを命じる様子もなく、ただ数秒こちらを見たあと、ゆっくりと宿の中へ戻っていった。
追手は来ない。
叫びもしない。
止めもしない。
その余裕が、逆に怖かった。
「移動」
ミアラが即座に立ち上がる。
「今すぐ」
言われるより早く、ソラも身を引いていた。
屋根伝いに半壊した倉庫へ戻り、そこから細い抜け道へ滑り込む。
三人とも口数は少ない。
息だけが少し荒い。
ようやく人目のない裏通りまで来てから、ソラは壁に手をついた。
「…何で分かるんだよ」
「知らない」
ミアラの返事も珍しく固かった。
「でもあれ、絶対に気づいてた」
「うん」
ルッカも青い顔で頷く。
「姉貴、あれやばい」
「知ってる」
短いやり取り。
だが、ソラの耳にはあまり入っていなかった。
頭の中では、さっき見た光景がぐるぐる回っている。
高級な宿。
整えられた部屋。
迎えの準備。
そして、見つけても慌てず追わせず、ただ“分かっている”と示すだけの余裕。
「…最悪だ」
低くこぼすと、ミアラが珍しくすぐには返さなかった。
代わりに、しばらくしてから言う。
「うん。あれは最悪」
声が少しだけ低い。
ソラは顔を上げる。
「何だよ」
「何が」
「お前がそういう言い方すると、ほんとにやばい感じがする」
「するよ。ほんとやばいんだから」
ミアラはそこで、ようやくソラを見た。
「たぶんあいつ、もう“手に入れる前提”で動いてる」
その言葉に、胸の奥がひどく冷える。
手に入れる。
保護する、でもない。
助ける、でもない。
連れ戻す、ですらない。
手に入れる。
あまりにもはっきりしていて、だからこそ逃げ場がなかった。
ヴァルシアは善悪の言い訳を使わない。
欲しいものを欲しいと言う。
しかも、その欲しさを現実に変える力を持っている。
「…豪華でも、閉じ込めるなら同じだ」
気づけば、ソラはそう呟いていた。
ミアラが目を細める。
「何」
「いや」
ソラはゆっくり顔を上げた。
「研究院の部屋も嫌だった。でもあれは、もっと露骨で嫌だ」
言葉にしながら、自分の中で少しずつ形がはっきりする。
温かい部屋。
高い服。
足りないもののない生活。
そういうものを差し出されても、自分の意思がなければ、それは結局檻だ。
金で飾られていようが、白く磨かれていようが、同じだ。
「豪華でも、閉じ込めるなら同じ」
今度は、はっきり口にした。
ミアラは少しだけ黙って、それから鼻を鳴らす。
「うん」
「うん、って何だよ」
「分かるって意味」
その返しに、少しだけ胸が軽くなる。
少しだけ、だ。
ヴァルシアの圧はまだ身体に残っている。
見つけられた感覚も、追われるよりひどく気持ち悪い。
なのに、今こうして言葉にしたことで、何が嫌なのかだけは少しはっきりした。
ただ怖いんじゃない。
ただ豪華だから圧倒されているんじゃない。
自分の意思をすっ飛ばしたまま、“お前のためでもある”みたいな顔で全部整えられるのが嫌なのだ。
それは研究院でもそうだった。
そしてヴァルシアの金の檻は、もっと露骨で、もっと強く、それをやってくる。
「…絶対、嫌だ」
ソラが低く言うと、ミアラは今度は何も返さなかった。
ただ、その沈黙は否定ではなかった。
少なくとも今は、同じものを見て、同じ嫌さを感じている沈黙だった。
夜風が通り抜ける。
寒い。
でも、それでいいと思った。
寒くても、自分で立っている方がましだ。
金の檻で暖かく囲われるより、ずっと。
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