「竜の女」
鐘楼跡から逃げ切ったあと、ソラはしばらく本気で口をきけなかった。
走ったせいだけではない。
追手の足音が、これまでの路地裏の連中とは明らかに違っていたからだ。
揃っている。
迷いがない。
数もいる。
しかも、“見つけたらその場で押さえる”というより、“確保する場所まで決まっている”感じがした。
ああいうのが上の連中か、とソラは思った。
路地の揉め事なら、もっと雑だ。
怒鳴る。
走る。
殴る。
捕まえる。
そういう即物的な乱暴さで終わる。
でも今夜のは違った。
足音の時点で、もう“制度”の匂いがした。
「止まるなって言ったでしょ」
狭い水路沿いの影へ潜り込んだところで、ミアラが低く言った。
「止まってない」
「呼吸が止まってる感じだった」
「比喩表現まで拾うなよ…」
ソラは壁にもたれたまま、乱れた息を整えようとした。
夜風が冷たい。
首元の布がずれて、汗ばんだ皮膚に張りつく。
胸の奥が、まだ変に痛い。
「今の、何だったんだよ」
「言ったでしょ。上の連中」
「上の連中って、あんな感じなのか」
「まだ序の口」
「序の口であれ?」
ミアラは肩をすくめる。
「だから面倒なんだって」
その一言に、ソラはぐっと黙り込んだ。
面倒。
たしかにそうだ。
でも、たぶんもう“面倒”だけで片づけていい段階じゃない。
自分は今、誰かの気まぐれや小遣い稼ぎで追われているわけではない。
もっと大きな、もっと理屈と都合が絡んだものの中心へ、いつの間にか放り込まれている。
「…最悪」
いつものように吐き捨てると、ミアラは鼻で笑った。
「今日はだいぶ深刻な方の最悪だね」
「笑うな」
「笑ってない」
「ちょっと笑ってた」
「息の音だって」
「便利だなその言い訳!」
言い返してから、少しだけ楽になる。
ほんの少しだけだが、ミアラとこうやってくだらない応酬をしていると、自分がまだ“追われる価値”そのものに飲まれていない気がした。
ミアラはしばらく周囲の気配を探っていたが、やがて短く言った。
「移動する」
「どこに」
「西寄りの通りへ戻る。今夜の予定は捨てる」
「情報屋は?」
「もう使えない。少なくとも今日の場所は、ね」
それだけ言って、ミアラは先に立つ。
ソラもその後を追った。
夜の街は、昼より暗いくせに、昼よりずっと人の立場が剥き出しになる気がする。
酒場の灯り、閉じかけた露店、荷を抱えた女たち、壁際に座り込む子ども、巡回の靴音。
その全部の中に、自分だけが違う色で混ざっているような感じがした。
◇
翌日、昼を少し回った頃だった。
ミアラは珍しく、ソラを街の中心寄りへ連れてきていた。
「え、待って。今日は人が多い方に行くの?」
「行く」
「何で」
「見た方がいいから」
「何を」
「今の状況を」
その返しが妙に真面目で、ソラは少しだけ黙った。
街の中心は、相変わらず人が多かった。
露店の呼び込み。
布商人の色鮮やかな商品。
往来を横切る荷車。
昼酒の匂い。
遠くでは楽団みたいな音までしている。
それだけ見れば、普通の市場の日だ。
でも、今日はどこか空気が違った。
道の流れが、一部だけ不自然に開いている。
人々の視線が、ある一点を気にしている。
警備の立ち方も、普段より整って見える。
ソラは無意識に首元の布へ触れた。
「…何か来るのか」
「来てる」
ミアラが短く言う。
「もう?」
「もう」
その瞬間、通りの向こうでざわめきが大きくなった。
まず見えたのは、護衛らしい女たちだった。
背が高く、鎧は軽量だが質がいい。
武器も飾りではない。
歩き方に無駄がなく、人を押しのけるのではなく、自然に道を開かせる。
そういう“慣れた守り方”だ。
その中央を、一人の女が歩いていた。
ソラは、息を呑んだ。
高い。
まずそう思った。
周囲の女たちよりさらに頭ひとつ分は高い。
体つきも細いというより、しなやかで強い。
長い髪は深い赤銅色で、陽の光を受けると竜の鱗みたいに鈍く光る。
衣装は派手すぎないのに、一目で質が違うと分かる。
飾りの少なさが逆に、立場の高さを際立たせていた。
何より、その目だ。
金とも琥珀ともつかない色の瞳が、群衆を“見る”のではなく“選ぶ”みたいに動いている。
あれは駄目だ、とソラは本能で思った。
理由は分からない。
でも、ああいう目に見つかったら終わる、という感覚だけは即座に来た。
「…誰」
かすれた声で訊くと、ミアラは顔をしかめた。
「ヴァルシア」
「それ名字?」
「名前。竜侯国のヴァルシア侯」
侯。
昨日聞いた言葉が、急に現実味を持って目の前へ立ち上がる。
「うそだろ」
「残念ながら」
ミアラの声も少し低い。
「ほんとに来るとかある?」
「あるんでしょ。今来てるし」
正論だった。
ヴァルシアは通りの中央で立ち止まった。
その瞬間、周囲の空気が一段階変わる。
ざわめきはある。
人もいる。なのに、その場だけ妙に静まる。
強い者がそこへ立つと、周囲が勝手に呼吸を合わせるみたいな、そんな圧だった。
ソラは思わず一歩下がる。
見つかるな。
目を合わせるな。
近づくな。
頭の中で警報みたいに鳴る。
だがそういう時に限って、人の流れというのは嫌な方向へ動くものだ。
荷車がひとつ、通りの脇へ寄った。
そのせいで、ソラとミアラの立ち位置が半歩だけ前へ押し出される。
「…っ」
ソラは反射的に顔を伏せた。
だが、遅かった。
「どうしたの?」
低い、よく通る声がした。
ヴァルシアが護衛のひとりへ訊いている。
護衛は目線だけで何かを示したらしい。
金の目が、ゆっくりこちらへ向いた。
合った。
その一瞬で、ぞわりと背中が粟立つ。
セレスの視線は、包み込むようにまっすぐだった。
ミアラの視線は、試すように近くて、鋭い。
でもヴァルシアのそれは違う。
見つけた、という目だった。
最初から欲しいものを探していて、ようやく見つけた時の目。
逃げたい。
でも足が動かない。
「…へえ」
ヴァルシアの口元が、ほんの少しだけ持ち上がる。
笑ったのかどうかも分からない、浅い変化だった。
なのに、その一瞬で空気がこちらへ寄った気がした。
「黒髪」
声が落ちる。
「黒目。しかも、人間か」
ソラは無意識に首元の布を握りしめた。
隠していたつもりの黒髪が、少しだけこぼれている。
最悪だ。
でももう、それを戻す程度では遅い。
ヴァルシアは一歩、こちらへ近づいた。
護衛が止めない。
むしろ当然みたいに周囲の人間をさらに遠ざける。
ミアラがごく小さく舌打ちした。
ソラの腕を引く気配があったが、すぐには動かなかった。
いや、動けなかったのかもしれない。
相手の格が違いすぎて、下手な動きが逆効果になると読んだのだろう。
「美しいな」
ヴァルシアは、まるで天気の感想でも言うみたいにそう言った。
ソラは一瞬、意味が分からなかった。
「…は?」
間抜けな声が出る。
ヴァルシアの視線は、遠慮なくソラの顔から首元、肩の線まで流れた。
値踏みというより、純粋に観察している。
だがその“純粋さ”が逆に怖い。
「希少で、脆そうで、そのくせ目だけは死んでいない」
そう言って、少しだけ首を傾げる。
「いい」
ぞっとした。
この女、隠す気がない。
欲しい。
面白い。
珍しい。
そういう感情を、ひとつも包まないまま口にしている。
教国みたいな正しさの顔もない。
商盟みたいな金の顔も見えない。
ただ、自分が欲しいと思ったものをまっすぐ見ている。
それがひどく危険に思えた。
「…っ、ミアラ」
小声で呼ぶと、ミアラはもう半歩前へ出ていた。
「うちの連れだけど」
「そう」
ヴァルシアはミアラのこともちゃんと見た。
だが一瞬で判断を終えたようだった。
危険かどうか、交渉相手になるかどうか、その程度しか見ていない目だ。
「よい趣味だな」
「最悪の褒め方やめてくれる?」
「褒めているつもりはない」
「なお悪い」
ミアラの声は軽い。
だが尻尾の毛が少し逆立っているのを、ソラは見逃さなかった。
ヴァルシアはそのやり取りすら楽しんでいるように見えた。
「名は?」
問われて、ソラは口を閉ざす。
答えたくない。
けれど無視したところで、この女は困らない気がした。
「答えなくてもいい」
ヴァルシアはあっさりと言う。
「どうせ、すぐに分かる」
その一言が、妙に冷たかった。
すぐに分かる。
つまり、この場を逃げても追う手があるという意味だ。
それを当然のように言える立場だということでもある。
ミアラが低く言う。
「それ、脅し?」
「事実の確認だ」
ヴァルシアの答えには迷いがない。
そして次の瞬間、彼女はまっすぐソラへ視線を戻した。
「その目はいいな」
心臓が嫌な鳴り方をした。
目?
何を言っているんだ、この女は。
「怯えているのに、まだ折れていない」
そう言って、ヴァルシアはほんの少しだけ笑った。
「私の好きな目だ」
ソラの背中を冷たいものが走る。
褒められているはずなのに、嬉しさなんて一欠片もない。
むしろ、見透かされたようで気持ち悪かった。
怯えている。
その通りだ。
でも折れていない。
それもたぶん、その通りだ。
それを、こんなふうに見抜いて、しかも好ましいものとして受け取る相手がいるなんて、考えたこともなかった。
「…行くよ」
ミアラが低く言った。
今度はためらわず、ソラの手首を掴む。
ヴァルシアは止めなかった。
止める必要がないと思っているみたいに、ただ見ている。
その余裕が、余計に怖かった。
人の流れへ紛れるようにその場を離れながら、ソラは一度だけ振り返ってしまった。
ヴァルシアはまだこちらを見ていた。
群衆の中で。
護衛に囲まれた中央で。
まるで、もう逃げ道を含めて品定めしているみたいな目で。
通りを曲がって、その視線が完全に切れた時、ソラはようやく息を吐いた。
「…なにあれ」
声が少し掠れる。
ミアラは珍しく、すぐには軽口を返さなかった。
「だから言ったでしょ」
「侯爵ってあんなのなのかよ」
「いや、あれはたぶん、あいつが特別変なだけ」
「最悪じゃん」
「うん」
ミアラが珍しく即答した。
「あれに好かれるのは、だいぶ最悪だけどね」
ソラは言い返せなかった。
あの一瞬で、分かってしまったからだ。
教国は正しい顔で囲う。
商盟は金で囲う。
研究院は保護の理屈で囲う。
そしてヴァルシアは。
欲しいから囲うのだ。
それを一切隠さない強者が、この世界にはいる。
その事実が、思っていた以上にソラの背筋を冷やしていた。
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