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人間飼育記録:ポンコツ個体は今日も脱走に失敗する  作者: きなこもち
第3章 『金の檻は誰のもの』

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「竜の女」

 


 鐘楼跡から逃げ切ったあと、ソラはしばらく本気で口をきけなかった。


 走ったせいだけではない。

 追手の足音が、これまでの路地裏の連中とは明らかに違っていたからだ。


 揃っている。

 迷いがない。

 数もいる。

 しかも、“見つけたらその場で押さえる”というより、“確保する場所まで決まっている”感じがした。


 ああいうのが上の連中か、とソラは思った。


 路地の揉め事なら、もっと雑だ。

 怒鳴る。

 走る。

 殴る。

 捕まえる。

 そういう即物的な乱暴さで終わる。


 でも今夜のは違った。


 足音の時点で、もう“制度”の匂いがした。


「止まるなって言ったでしょ」


 狭い水路沿いの影へ潜り込んだところで、ミアラが低く言った。


「止まってない」


「呼吸が止まってる感じだった」


「比喩表現まで拾うなよ…」


 ソラは壁にもたれたまま、乱れた息を整えようとした。

 夜風が冷たい。

 首元の布がずれて、汗ばんだ皮膚に張りつく。

 胸の奥が、まだ変に痛い。


「今の、何だったんだよ」


「言ったでしょ。上の連中」


「上の連中って、あんな感じなのか」


「まだ序の口」


「序の口であれ?」


 ミアラは肩をすくめる。


「だから面倒なんだって」


 その一言に、ソラはぐっと黙り込んだ。


 面倒。

 たしかにそうだ。

 でも、たぶんもう“面倒”だけで片づけていい段階じゃない。


 自分は今、誰かの気まぐれや小遣い稼ぎで追われているわけではない。

 もっと大きな、もっと理屈と都合が絡んだものの中心へ、いつの間にか放り込まれている。


「…最悪」


 いつものように吐き捨てると、ミアラは鼻で笑った。


「今日はだいぶ深刻な方の最悪だね」


「笑うな」


「笑ってない」


「ちょっと笑ってた」


「息の音だって」


「便利だなその言い訳!」


 言い返してから、少しだけ楽になる。

 ほんの少しだけだが、ミアラとこうやってくだらない応酬をしていると、自分がまだ“追われる価値”そのものに飲まれていない気がした。


 ミアラはしばらく周囲の気配を探っていたが、やがて短く言った。


「移動する」


「どこに」


「西寄りの通りへ戻る。今夜の予定は捨てる」


「情報屋は?」


「もう使えない。少なくとも今日の場所は、ね」


 それだけ言って、ミアラは先に立つ。


 ソラもその後を追った。


 夜の街は、昼より暗いくせに、昼よりずっと人の立場が剥き出しになる気がする。

 酒場の灯り、閉じかけた露店、荷を抱えた女たち、壁際に座り込む子ども、巡回の靴音。


 その全部の中に、自分だけが違う色で混ざっているような感じがした。


 ◇


 翌日、昼を少し回った頃だった。


 ミアラは珍しく、ソラを街の中心寄りへ連れてきていた。


「え、待って。今日は人が多い方に行くの?」


「行く」


「何で」


「見た方がいいから」


「何を」


「今の状況を」


 その返しが妙に真面目で、ソラは少しだけ黙った。


 街の中心は、相変わらず人が多かった。


 露店の呼び込み。

 布商人の色鮮やかな商品。

 往来を横切る荷車。

 昼酒の匂い。

 遠くでは楽団みたいな音までしている。


 それだけ見れば、普通の市場の日だ。


 でも、今日はどこか空気が違った。


 道の流れが、一部だけ不自然に開いている。

 人々の視線が、ある一点を気にしている。

 警備の立ち方も、普段より整って見える。


 ソラは無意識に首元の布へ触れた。


「…何か来るのか」


「来てる」


 ミアラが短く言う。


「もう?」


「もう」


 その瞬間、通りの向こうでざわめきが大きくなった。


 まず見えたのは、護衛らしい女たちだった。


 背が高く、鎧は軽量だが質がいい。

 武器も飾りではない。

 歩き方に無駄がなく、人を押しのけるのではなく、自然に道を開かせる。

 そういう“慣れた守り方”だ。


 その中央を、一人の女が歩いていた。


 ソラは、息を呑んだ。


 高い。


 まずそう思った。


 周囲の女たちよりさらに頭ひとつ分は高い。

 体つきも細いというより、しなやかで強い。

 長い髪は深い赤銅色で、陽の光を受けると竜の鱗みたいに鈍く光る。

 衣装は派手すぎないのに、一目で質が違うと分かる。

 飾りの少なさが逆に、立場の高さを際立たせていた。


 何より、その目だ。


 金とも琥珀ともつかない色の瞳が、群衆を“見る”のではなく“選ぶ”みたいに動いている。


 あれは駄目だ、とソラは本能で思った。


 理由は分からない。

 でも、ああいう目に見つかったら終わる、という感覚だけは即座に来た。


「…誰」


 かすれた声で訊くと、ミアラは顔をしかめた。


「ヴァルシア」


「それ名字?」


「名前。竜侯国のヴァルシア侯」


 侯。


 昨日聞いた言葉が、急に現実味を持って目の前へ立ち上がる。


「うそだろ」


「残念ながら」


 ミアラの声も少し低い。


「ほんとに来るとかある?」


「あるんでしょ。今来てるし」


 正論だった。


 ヴァルシアは通りの中央で立ち止まった。


 その瞬間、周囲の空気が一段階変わる。

 ざわめきはある。

 人もいる。なのに、その場だけ妙に静まる。

 強い者がそこへ立つと、周囲が勝手に呼吸を合わせるみたいな、そんな圧だった。


 ソラは思わず一歩下がる。


 見つかるな。

 目を合わせるな。

 近づくな。


 頭の中で警報みたいに鳴る。


 だがそういう時に限って、人の流れというのは嫌な方向へ動くものだ。

 荷車がひとつ、通りの脇へ寄った。

 そのせいで、ソラとミアラの立ち位置が半歩だけ前へ押し出される。


「…っ」


 ソラは反射的に顔を伏せた。


 だが、遅かった。


「どうしたの?」


 低い、よく通る声がした。


 ヴァルシアが護衛のひとりへ訊いている。

 護衛は目線だけで何かを示したらしい。


 金の目が、ゆっくりこちらへ向いた。


 合った。


 その一瞬で、ぞわりと背中が粟立つ。


 セレスの視線は、包み込むようにまっすぐだった。

 ミアラの視線は、試すように近くて、鋭い。

 でもヴァルシアのそれは違う。


 見つけた、という目だった。


 最初から欲しいものを探していて、ようやく見つけた時の目。


 逃げたい。

 でも足が動かない。


「…へえ」


 ヴァルシアの口元が、ほんの少しだけ持ち上がる。


 笑ったのかどうかも分からない、浅い変化だった。

 なのに、その一瞬で空気がこちらへ寄った気がした。


「黒髪」


 声が落ちる。


「黒目。しかも、人間か」


 ソラは無意識に首元の布を握りしめた。


 隠していたつもりの黒髪が、少しだけこぼれている。

 最悪だ。

 でももう、それを戻す程度では遅い。


 ヴァルシアは一歩、こちらへ近づいた。


 護衛が止めない。

 むしろ当然みたいに周囲の人間をさらに遠ざける。


 ミアラがごく小さく舌打ちした。

 ソラの腕を引く気配があったが、すぐには動かなかった。

 いや、動けなかったのかもしれない。

 相手の格が違いすぎて、下手な動きが逆効果になると読んだのだろう。


「美しいな」


 ヴァルシアは、まるで天気の感想でも言うみたいにそう言った。


 ソラは一瞬、意味が分からなかった。


「…は?」


 間抜けな声が出る。


 ヴァルシアの視線は、遠慮なくソラの顔から首元、肩の線まで流れた。

 値踏みというより、純粋に観察している。

 だがその“純粋さ”が逆に怖い。


「希少で、脆そうで、そのくせ目だけは死んでいない」


 そう言って、少しだけ首を傾げる。


「いい」


 ぞっとした。


 この女、隠す気がない。


 欲しい。

 面白い。

 珍しい。

 そういう感情を、ひとつも包まないまま口にしている。


 教国みたいな正しさの顔もない。

 商盟みたいな金の顔も見えない。

 ただ、自分が欲しいと思ったものをまっすぐ見ている。


 それがひどく危険に思えた。


「…っ、ミアラ」


 小声で呼ぶと、ミアラはもう半歩前へ出ていた。


「うちの連れだけど」


「そう」


 ヴァルシアはミアラのこともちゃんと見た。

 だが一瞬で判断を終えたようだった。

 危険かどうか、交渉相手になるかどうか、その程度しか見ていない目だ。


「よい趣味だな」


「最悪の褒め方やめてくれる?」


「褒めているつもりはない」


「なお悪い」


 ミアラの声は軽い。

 だが尻尾の毛が少し逆立っているのを、ソラは見逃さなかった。


 ヴァルシアはそのやり取りすら楽しんでいるように見えた。


「名は?」


 問われて、ソラは口を閉ざす。


 答えたくない。

 けれど無視したところで、この女は困らない気がした。


「答えなくてもいい」


 ヴァルシアはあっさりと言う。


「どうせ、すぐに分かる」


 その一言が、妙に冷たかった。


 すぐに分かる。

 つまり、この場を逃げても追う手があるという意味だ。

 それを当然のように言える立場だということでもある。


 ミアラが低く言う。


「それ、脅し?」


「事実の確認だ」


 ヴァルシアの答えには迷いがない。


 そして次の瞬間、彼女はまっすぐソラへ視線を戻した。


「その目はいいな」


 心臓が嫌な鳴り方をした。


 目?


 何を言っているんだ、この女は。


「怯えているのに、まだ折れていない」


 そう言って、ヴァルシアはほんの少しだけ笑った。


「私の好きな目だ」


 ソラの背中を冷たいものが走る。


 褒められているはずなのに、嬉しさなんて一欠片もない。

 むしろ、見透かされたようで気持ち悪かった。


 怯えている。

 その通りだ。

 でも折れていない。

 それもたぶん、その通りだ。


 それを、こんなふうに見抜いて、しかも好ましいものとして受け取る相手がいるなんて、考えたこともなかった。


「…行くよ」


 ミアラが低く言った。


 今度はためらわず、ソラの手首を掴む。

 ヴァルシアは止めなかった。

 止める必要がないと思っているみたいに、ただ見ている。


 その余裕が、余計に怖かった。


 人の流れへ紛れるようにその場を離れながら、ソラは一度だけ振り返ってしまった。


 ヴァルシアはまだこちらを見ていた。


 群衆の中で。

 護衛に囲まれた中央で。

 まるで、もう逃げ道を含めて品定めしているみたいな目で。


 通りを曲がって、その視線が完全に切れた時、ソラはようやく息を吐いた。


「…なにあれ」


 声が少し掠れる。


 ミアラは珍しく、すぐには軽口を返さなかった。


「だから言ったでしょ」


「侯爵ってあんなのなのかよ」


「いや、あれはたぶん、あいつが特別変なだけ」


「最悪じゃん」


「うん」


 ミアラが珍しく即答した。


「あれに好かれるのは、だいぶ最悪だけどね」


 ソラは言い返せなかった。


 あの一瞬で、分かってしまったからだ。


 教国は正しい顔で囲う。

 商盟は金で囲う。

 研究院は保護の理屈で囲う。


 そしてヴァルシアは。


 欲しいから囲うのだ。


 それを一切隠さない強者が、この世界にはいる。


 その事実が、思っていた以上にソラの背筋を冷やしていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。

引き続きよろしくお願いいたします。

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