プロローグ 「名前ではなく価値で呼ばれる夜」
第3章の始まりです。
夜の街は、昼より静かで、昼よりずっと危ない。
それをソラは、この数日で嫌というほど思い知っていた。
昼はうるさい。
露店の呼び声、客の怒鳴り声、荷車の軋み、笑い声、喧嘩、食器のぶつかる音。
そういう雑音に紛れて、自分の足音も息も、多少はごまかせる。
夜は違う。
人が減るぶん、路地の隙間がよく見える。
物音が減るぶん、足音ひとつが妙に響く。
そして夜に動く連中は、だいたい昼より面倒だ。
「止まるな」
前を歩くミアラが、振り返りもせずに言った。
「止まってない」
「声がでかい」
「これでも抑えてる」
「それがでかいの」
ひどい言い草だったが、たぶん事実だった。
ソラは首元に巻いた布を少しだけ引き上げ、足音を立てないよう気をつけながら細い裏道を進む。
昼間より冷えた石壁の間を風が抜け、首筋をなでていった。
今夜の移動は、いつもより神経を使う。
昼のうちに、ルッカ経由で妙な噂が入ったのだ。
東区画の裏で、“黒髪の男を見た”という話が出回っている。
しかもその噂に、斡旋屋だけでなく、教国の下働きまで食いついているらしい。
最悪だった。
黒髪の男。
その言い方だけで、もう自分のことだと分かってしまうのが嫌だった。
「ほんとに、俺の話なのか」
小さく言うと、ミアラが少しだけ歩幅を緩めた。
「この街で黒髪黒目の人間の男が何人いると思ってる?」
「言い方キツイな」
「ほんとのことでしょ」
正論が重い。
ソラは口を閉じた。
夜の路地は狭い。
壁と壁のあいだに積まれた木箱、干された布、半分壊れた樽、雨水の残る石畳。
そこをミアラは迷いなく進む。
ソラもついていくが、少しでも考えごとをするとすぐに足元が怪しくなる。
熱を出して倒れた時よりは、もうだいぶ身体は戻っていた。
だが、外で生きるのが楽になったわけではない。
腹は減る。
寝床は硬い。
気を抜くと値踏みされる。
そして最近は、“追われる”より“探されている”感じの方が濃くなってきた。
それが何より気持ち悪かった。
「ミアラ」
「なに」
「教国って、そんなに面倒なのか」
「面倒だよ」
即答だった。
「教国だけじゃないけど。ああいう“正しい顔して欲しがる連中”は、だいたい面倒」
「正しい顔?」
「保護します、救います、導きます、ってやつ」
ミアラは鼻で笑う。
「でもほんとは、囲う気まんまんなのよ」
その言葉に、ソラの胸の奥がざらついた。
保護。
救い。
導き。
聞き覚えがありすぎる。
言葉の形が違うだけで、やっていることはどこも似ているのかもしれない。
そう思うと、逃げ道が少しずつ削られていく気がした。
「…ほんと、どこ行ってもそれかよ」
「そういう世界でしょ、ここは」
「他人事みたいに言うなよ」
「他人事じゃないから言ってる」
ミアラは短く返し、次の角でぴたりと止まった。
ソラも慌てて足を止める。
通りの向こう側から、女たちの話し声が聞こえた。
酔っているわけではない。
押し殺した声で、何かを確認し合っている。
「――黒髪らしい」
「男で?」
「そう。まだ若いって」
「教国も探してるって聞いたよ」
「商盟より先に押さえられたら面倒だね」
ソラの背中を、冷たいものがすうっと下りた。
名前じゃない。
年齢も、性格も、何もない。
黒髪。男。若い。
それだけで、話が成立している。
胸が悪い。
ミアラが後ろ手に軽く合図した。
動くな、という意味だ。
ソラは息を殺し、壁の影へ身を寄せる。
女たちの足音が近づき、そして遠ざかる。
しばらく待ってから、ミアラがようやく小さく息を吐いた。
「聞いた?」
「聞きたくなかった」
「でも聞いたでしょ」
「…ああ」
喉が妙に乾いていた。
さっきの会話の中で、一番嫌だったのは“押さえる”という響きかもしれない。
捕まえる、保護する、連れ戻す、そういう単語よりももっと露骨に、自分が物として扱われている感じがした。
ミアラが低く言う。
「これ、もう単なる路地の揉め事じゃない」
ソラは何も答えられなかった。
それは、薄々分かっていたことだったからだ。
斡旋屋に探られる。
露店の女に値踏みされる。
保護施設の前を通れば胃が痛くなる。
それだけでもう十分最悪なのに、そこへ今度は教国だの商盟だの、上の方の名前まで降ってきている。
個人の逃亡じゃない。
そんなことは、もうとっくに終わっていたのかもしれない。
◇
今夜の目的地は、東区画のさらに外れにある古い倉庫跡だった。
ミアラが信用している情報屋と落ち合う手はずになっている。
信用している、といっても、全面的にではない。
この街でそういう相手が存在するのかも怪しい。
たぶん、“まだ裏切る方が面倒だから使える”くらいの意味だ。
その感覚は、ソラにも少しだけ分かるようになってきていた。
倉庫跡の周辺は人気が少ない。
昼でも寂れているのに、夜ともなれば風の音の方がよく聞こえるくらいだ。
崩れた石壁の向こうに、半分傾いた倉庫の骨組みが見える。
「遅い」
影の中から声がした。
細い。
女の声だ。
ソラが身を固くすると、ミアラが先に前へ出た。
「慎重って言って」
「慎重なやつは、そんな目立つ奴を連れて歩かない」
「そんなこと言うな」
ソラが低く返すと、影の主が少し笑った気配がした。
古い柱にもたれかかるようにして立っていたのは、背の高い女だった。
髪は短く、目つきが鋭い。
服装は地味だが、布の合わせ方や靴の質を見るに、ただの路地の住人ではない。
「この子が例の?」
「そう」
ミアラが答える。
「で、話って」
女は肩をすくめた。
「ずいぶん急ぎだね」
「急がなきゃいけないから」
「まあ、そうか」
女の視線がソラへ流れる。
その目に、露店の女たちみたいな下卑た値踏みはない。
だが、冷静な計算はあった。
「噂、かなり上まで行ってるよ」
女は言った。
「商盟はもちろん、教国の下働きも動いてる。保護管理局まで顔出してるって話。で、さっき入ったのは――」
一拍おいて、女は少しだけ口元を吊り上げた。
「竜侯国側も本気」
その言葉に、ミアラの耳がぴくりと動く。
ソラは眉を寄せた。
「竜侯国?」
「知らない?」
「名前くらいは」
「そりゃそうか」
女は壁から体を離した。
「大きいよ。金も兵もある。しかも今回は、下っ端じゃなくて本体が動くかもって話」
「本体、って」
訊いた瞬間、嫌な予感がした。
女はにやりとする。
「侯爵」
空気が一瞬、冷えた気がした。
「竜侯国のヴァルシア侯。あの人が直々に興味持ってるって噂」
ミアラが舌打ちする。
「最悪」
「それ、今日は何回目」
女が笑う。
ソラは黙ったままだった。
侯爵。
直々に。
興味を持つ。
言葉の意味は単純だ。
単純なのに、妙に現実味がなかった。
自分の逃亡が、いつの間にそんな上の方まで届いているのか。
「…何なんだよ、もう」
絞り出すように言うと、女は肩をすくめた。
「希少だからでしょ」
「その言い方やめろ」
「事実じゃん」
ソラは言い返せなかった。
事実だ。
嫌になるくらい事実だ。
黒髪。黒目。人間。男。
その条件だけで、自分は“上が動く理由”になる。
「他は?」
ミアラが口を挟む。
「研究院側は?」
「追ってる。ただ、前みたいに単独では動きにくそうだね」
女は少しだけ首を傾げた。
「いろんなとこに睨まれてるから」
その言葉に、ソラの胸がまたざらついた。
研究院。
セレス。
追っている。
でも、前みたいに単独では動けない。
それは少しだけ救いのようでもあり、別の意味でひどく嫌でもあった。
誰かの手が届きにくくなっている。
その“誰か”に、ほんの少しでも安心を覚えかけた自分がいたことが最悪だった。
「…ソラ」
ミアラが低く呼ぶ。
気づけば、自分は妙に長く黙っていたらしい。
「なに」
「顔」
「またかよ」
「ひどい」
女まで言う。
ソラは顔をしかめた。
「どうせ最悪って顔だろ」
「いや」
ミアラは短く答えた。
「面倒じゃ済まない、って顔」
その言い方は、妙に正確だった。
面倒。
最悪。
嫌だ。
逃げたい。
そういう言葉だけでは、さっきから胸の中に広がる重さを言い表せない。
商盟。
教国。
保護管理局。
竜侯国。
もうこれは、自分ひとりが路地を走ってどうにかなる範囲を越え始めている。
女は最後にひとつ、紙切れをミアラへ渡した。
「東はしばらく捨てな。あと、橋沿いも危ない」
「助かる」
「次は値上げする」
「死ね」
「やだね」
軽い応酬を最後に、女は影の中へ消えていった。
倉庫跡に、風の音だけが残る。
ソラはしばらく動けなかった。
頭の中で、さっきの言葉がぐるぐる回っている。
「行くよ」
ミアラが先に歩き出す。
ソラも遅れてついていく。
足元の石がごり、と鳴った。
「…侯爵って、何するんだよ」
「さあ」
「さあ、じゃないだろ」
「相手によるんじゃない」
「余計怖いわ」
ミアラは少しだけ肩越しに振り返った。
「でもまあ」
「何」
「本気で動く上の連中って、大体“自分のやることは正しい”と思ってる」
その一言に、ソラの背筋が冷たくなる。
それは、あまりにも聞き覚えのある匂いだった。
守る。
保護する。
正しいことをしていると信じて、こちらの意思ごと包み込んでくる手。
セレスの顔が一瞬浮かんで、ソラは奥歯を噛んだ。
違う。
今はそれじゃない。
でも、根っこのところで繋がっている感じがして、余計に気分が悪い。
「…面倒だな」
低く言うと、ミアラが小さく息を吐いた。
「だから最初からそう言ってるでしょ」
その通りだ。
外へ出た時、ソラはただ追われていた。
今は違う。
探されている。
狙われている。
しかも、名前ではなく価値として。
夜の風は冷たい。
街は広い。
逃げ場はまだある。
でも、それがいつまで持つのか、もう分からなかった。
ミアラが前を向いたまま、ぽつりと言う。
「これ、もう路地の揉め事じゃない」
さっきと同じ言葉だった。
でも今度は、ソラの中にもはっきり落ちた。
個人の逃亡では済まない。
そういう段階へ、もう来てしまっている。
ソラは首元の布を少しだけ握りしめた。
戻りたくはない。
誰にも捕まりたくない。
それでも、追ってくるものは増えていく。
最悪だ。
最悪で、面倒で、でも。
それでもまだ、自分の足で歩いている限りは終わっていないと、そう思うしかなかった。
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