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人間飼育記録:ポンコツ個体は今日も脱走に失敗する  作者: きなこもち
第2章 『檻の外でも保護対象でした』

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エピローグ 「追う者、追われる者」

 

 研究院の会議室は、今日も無駄に静かだった。


 壁は白く、机は磨かれ、茶器の位置まで揃っている。

 けれどその整い方は、セレスティアにとって今ひどく息苦しかった。


「所在はまだ不明なの?」


 アルノーが書類をめくりながら問う。


 セレスは立ったまま答えた。


「街の東側に複数の目撃情報はあります。ですが確定には至っていません」


「確定できないのか、していないのか」


「両方です」


 アルノーの視線がわずかに上がる。


「珍しい返答ね」


「街に出ているのは研究院だけではありませんから」


 それが問題だった。


 ソラの捜索はもう、研究院内部の回収業務では済まなくなっている。

 教国、商盟、保護管理局、いくつかの地方勢力。

 人間の男が逃亡したという噂は、思っていたより早く広がっていた。


 黒髪黒目。

 低魔力。

 希少な人間の男。


 その条件だけで、彼は“見つけた者が話を持てる存在”になる。


「竜侯国から正式な照会が入りました」


 別の研究員が報告する。


「教国も保護権の再検討を要求しています」


「商盟は?」


「水面下で斡旋屋を動かしている形跡が」


 面倒だな、とセレスは思った。

 かつての自分なら、もっと冷静に整理できただろう。

 対外対応、保護権限、回収手順。

 そういう言葉に感情を混ぜることなく、ただ順序よく片づけていたはずだ。


 でも今は違う。


 ソラがどこかの路地で寒さに震えているかもしれない。

 熱を出しているかもしれない。

 見知らぬ誰かに値踏みされているかもしれない。


 その想像が、理屈の前に胸へ来る。


「セレスティア」


 アルノーの声で現実に戻る。


「あなた、彼を“回収”したいの?」


 会議室の空気が、一瞬だけ止まった。


 研究員たちの視線が集まる。

 回収。

 それは研究院の言葉としては何も間違っていない。

 逃亡した保護対象を確保する。それだけだ。


 でも今、その言葉はひどく冷たく響いた。


「…保護下へ戻す必要はあります」


 慎重に答える。


「それは質問の答えではないわ」


 アルノーは容赦がなかった。


 セレスは少しだけ目を伏せる。


 回収したいのか。

 連れ戻したいのか。

 守りたいのか。

 閉じ込めたいのか。


 どこまでが責務で、どこからが感情なのか、以前ほどはっきりしない。


「私は」


 口を開き、言葉を探す。


「彼を、他の誰にも渡したくありません」


 それは本音だった。

 保護責任としても。

 それ以外の何かとしても。


 会議室に沈黙が落ちる。


 アルノーはしばらくセレスを見ていたが、やがて静かに書類を閉じた。


「それが研究院の立場としての発言なら問題ないわ」


「…ええ」


「個人としての発言なら、もっと問題ね」


 セレスは返せなかった。


 自分でも、どちらの比率が大きいのか分からないからだ。


 会議が終わり、研究員たちが散っていく。

 セレスは少し遅れて会議室を出た。


 回廊を歩く。

 窓の向こうには夕方の空。

 研究院の中庭は相変わらず静かで、池の水面まで整いすぎて見えた。


 あの夜、ソラがそこへ落ちた時のことを思い出す。


 ずぶ濡れで。

 怒るより先に風邪を心配して。

 あの時はまだ、自分のしていることを疑っていなかった。


 でも今は違う。


 外にも檻はある。

 そうだとしても。

 だからといって、自分の檻が正しいと胸を張ることはもうできない。


 それでもなお、見つけたら連れ戻したいと思ってしまう。


「…困ったわね」


 小さく呟いても、誰も答えない。


 研究室へ戻り、机の上の記録板を開く。

 そこには最新の捜索情報が並んでいる。

 街東部、裏路地、古着屋付近、体調不良らしき目撃、猫系獣人の少女と同行の可能性。


 その一文で、セレスの指が止まった。


 同行。


 誰かが今、彼の隣にいる。


 知らない相手。

 研究院ではない場所。

 自分の手の届かないところ。


 胸の奥が、ひどく静かに痛んだ。


 嫉妬、というにはまだ認めたくない。

 だが、それに近い何かがあることを否定もできなかった。


 セレスはゆっくり目を閉じる。


 守りたい。

 失いたくない。

 でも、彼が望む“自由”を考え始めてしまった以上、以前のようにただ閉じ込めればいいとも思えない。


 では、どうするのか。


 その答えはまだない。


 ただ一つだけ確かなのは、もう彼を追う理由が“研究対象だから”だけではなくなっていることだった。


 記録板を閉じ、窓の外を見る。


 夕焼けは淡い。

 高い空は、研究院の中から見ても遠かった。


「…ソラ」


 その名前を呼んでも、返事はない。


 当然だ。

 ここにはいないのだから。


 なのに、呼ばずにはいられなかった。


 彼を追っているはずなのに。

 セレスティアには、自分が何から彼を守りたいのかさえ、少しずつ分からなくなっていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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