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人間飼育記録:ポンコツ個体は今日も脱走に失敗する  作者: きなこもち
第2章 『檻の外でも保護対象でした』

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14/22

「熱と名前」

 


 その日の夜、ソラは妙に寒かった。


 外気が冷えていたわけではない。

 季節はまだ、夜になれば少し肌寒い程度で済む時期だ。

 裏路地の風が抜ける場所でも、縮こまるほどではない。


 それなのに寒い。


「…っくし」


 くしゃみが出て、ソラは鼻を押さえた。


 目の前ではミアラが小さな火鉢の上で鍋を温めている。

 ドーラの店から分けてもらったらしい薄い煮込みで、香草の匂いが鼻をくすぐった。

 ルッカは隅の方で丸くなって寝ている。

 昼間の件でだいぶ懲りたらしく、いつもより静かだ。


「風邪ひいた?」


 鍋をかき混ぜながら、ミアラが振り返りもせずに言った。


「ひいてない」


「その返し、ひいてるやつ」


「寒いだけだし」


「それ、昨日も聞いた気がする」


 ソラは返事をしなかった。


 寒い。

 だるい。

 しかも、さっきから身体の節々までじんわり痛い。


 嫌な予感しかしない。


 でも認めたくない。

 ここで倒れたら終わる。

 ミアラたちにまた借りが増えるし、何より“外じゃ生きていけませんでした”みたいで最悪だ。


 ソラは毛布代わりの古布を肩へ引き寄せ、壁に背を預けた。

 背中が冷たくて、余計にぞわっとする。


「顔が赤い」


「火鉢のせい」


「じゃあ何で震えてんの」


「お前ほんと細かいな」


「誰かさんほどじゃないと思うけど」


 その言い方に、ソラはぴくりと眉を寄せた。


「何だよ、それ」


「べつに」


 ミアラはそう言って、椀に煮込みをよそった。

 湯気の立つそれをこっちへ差し出す。


「飲みな」


「…ありがと」


 受け取った瞬間、指先にじんわり熱が移る。

 思っていたよりずっと嬉しくて、そのことに自分で少しむっとした。


 湯気が頬に当たる。

 温かい。

 それだけで、胸の奥がじわっと緩みそうになる。


 研究院の食事は、いつもこうだった。


 温度がちょうどいい。

 身体に負担がないように作られている。

 喉が痛い時は薄味になって、熱がある時は水分が増えて、腹の具合が悪ければ刺激の少ないものが出てくる。


 あれを思い出すな。

 思い出したら負けだ。


 ソラは煮込みをひと口飲んだ。

 少ししょっぱい。

 だが今はむしろそれがありがたかった。


「…うまい」


「でしょ」


 ミアラが得意げに言う。


「ドーラの残り物だけど」


「その情報いらない」


「残り物でもうまいもんはうまい」


 それはそうだ。


 ソラはもうひと口飲んだ。

 温かさが喉から腹へ落ちる。

 その感覚にほっとした瞬間、自分の身体がだいぶ限界寄りだったのだと分かってしまった。


 まずい。


「ソラ」


「なに」


「手」


「手?」


「震えてる」


 言われて見たら、本当に少し震えていた。

 椀を持つ指先が定まらない。


「…気のせいだろ」


「気のせいじゃない」


「ほんと見るなよ、人のこと」


「見えるんだから仕方ない」


 ミアラは火鉢のそばへ寄ってきて、しゃがみ込む。


 その距離の近さにソラは少しだけ身を引いた。

 引いたつもりだったのに、身体が思うように動かなかった。

 反応がひどく鈍い。


「ちょっと、顔こっち向けて」


「嫌だ」


「何で」


「何でって…」


「嫌がる元気あるなら平気?」


「そういう話じゃ」


 言い終える前に、額へひやりとした手が触れた。


 ミアラの手だ。


 ソラは反射的に息を止めた。


 別に触られ慣れていないわけじゃない。

 研究院では体温確認も怪我の手当ても日常みたいなものだった。

 なのに今は、その感覚が妙に近いものとして頭へ蘇る。


 白く細い指。

 静かな声。

 温度を測る癖みたいな手つき。


 違う。

 今触れているのはミアラで、手もずっと小さくて、乱暴さも残っていて、匂いだって薬草じゃなくて路地裏の風だ。


 でも、それでも。


「うわ」


 ミアラが眉をしかめた。


「熱あるじゃん」


「ない」


「ある」


「ないって」


「ある。しかも結構」


 そう言われた瞬間、自分の身体がぐらっと傾いた気がした。


 熱。


 言葉にされると急に、本当にそうらしく思えてくるから嫌だ。

 さっきまで誤魔化せていた寒気も、身体の重さも、全部それっぽく形を持ち始める。


「…やだ」


「子どもか」


「認めたら終わりな気がする」


「それはちょっと分かるけど」


 なんで分かるんだよ、と言い返す気力もない。


 ミアラは立ち上がると、ルッカの方へ振り返った。


「ルッカ、起きろ」


「え…なに…」


「水汲んできて。冷たいの」


「今ぁ…?」


「今」


 ルッカがむにゃむにゃ文句を言いながらも起き上がる。

 慣れているのか、こういう時のやり取りが妙に速い。


 ソラは煮込みの椀を抱えたまま、少しだけ目を閉じた。


 だるい。


 頭が重い。

 喉も少し痛い。

 身体の奥に鈍い熱がこもっている感じがする。


 そして最悪なのは、こういう時に身体が勝手に思い出すことだった。


 夜中の足音。

 額へ触れる手。

 薄い布団の重さ。

 薬草の匂い。

 水差しの音。


 セレス。


 名前が頭の中へ浮かびかけて、ソラは眉を寄せた。


「…最悪」


「それ、もう口癖だね」


 ミアラが言う。


「何が最悪なの」


「全部」


「便利な返し」


「今はそれしか言えない」


 ミアラは少しだけ黙り、それからソラの肩に布をもう一枚かけた。


「寝な」


「寝たら死にそう」


「寝ない方が死ぬでしょ」


 それも正論だった。


 ◇


 どれくらい時間が経ったのか、よく分からなかった。


 熱が上がると、時間の流れは妙に曖昧になる。

 目を閉じていたと思えば、急に誰かの声が遠くでして、開けたと思えば天井の板が揺れて見える。


 誰かが水を替える音。

 火鉢の火をいじる音。

 布がこすれる音。


 それらが現実のものなのか、夢の断片なのか、その境目がふわふわしていた。


 寒い。

 でも汗も出る。

 身体が重い。


 遠くで誰かが言う。


「飲める?」

「…ん」

「ちょっとだけでいいから」

「にが…」

「薬じゃないって」


 ミアラの声だ。


 分かる。

 セレスではない。

 セレスはもっと静かで、もう少し低いところで落ち着く声をしている。


 ――熱は?

 ――喉は痛む?

 ――こちらを見て。


 頭のどこかで、別の声が重なる。


 違う。

 違うのに、熱のせいで輪郭が曖昧になる。


 ソラはうっすら目を開けた。


 薄暗い。

 知らない天井。

 見慣れない壁。

 それでも一瞬だけ、研究院の部屋だと思いかけた。


 白い天蓋がない。

 魔力灯の柔らかな光もない。

 薬草の匂いも薄い。


 ここは外だ。


 そう理解するのに、数秒かかった。


「…みず」


 口をついて出た声が、自分でも驚くくらい弱い。


 すぐに誰かが肩を支える。

 ミアラだ。

 乱暴そうに見えるくせに、こういう時の手つきは思ったより慎重だった。


「はい」


 杯が唇に当たる。


 冷たい水。

 喉を通っていく感覚に、少しだけ息がつける。


 その瞬間、別の記憶がまた勝手に浮かぶ。


 夜中、目が覚めて。

 喉が渇いて。

 誰かが先に水差しを持ってきていた。


 ――言ったでしょう。熱のある時は、枕元へ置いておくわ。


 やめろ。


 思い出すな。


 でも熱に浮かされた頭は、そういう命令を聞いてくれない。


「…セレ、」


 そこまで口に出して、自分で止めようとした。


 止まらなかった。


「…セレス」


 かすれた声が、小さな隠れ場所に落ちる。


 その瞬間だけ、妙に静かになった気がした。


 ソラは半分夢の中だった。

 だから、自分が何を言ったのかも、その場でどんな顔をされたのかも、きちんとは分からない。


 ただ。


 額へ置かれた布が、一瞬だけ止まったことだけは、なんとなく分かった。


 ◇


 目を覚ました時、天井は少しだけ明るかった。


 朝なのか、昼なのか、それも最初は分からない。

 頭はまだ重いが、昨夜みたいな寒気は引いている。

 代わりに全身から力が抜けていて、動きたくなさがすごい。


 生きてる。


 それを確認してから、ソラはゆっくり瞬きをした。


 横ではルッカが丸まって寝ている。

 火鉢の火は弱く、鍋はもう空らしい。

 少し離れたところで、ミアラが壁にもたれて座っていた。


 起きている。

 いや、起きているというより、寝ていない顔だ。


 ソラと目が合うと、ミアラは短く息をついた。


「やっと起きた」


「…どれくらい寝てた」


「半日ちょい」


「うわ」


 思ったより長い。


 ソラは少しだけ起き上がろうとして、身体の重さに顔をしかめた。

 ミアラがすぐ近づいてきて、背中へ丸めた布を差し込む。


「無理すんな」


「昨日と言ってること逆じゃね」


「昨日は走ってたからでしょ」


 そう言われると反論しにくい。


 ソラは布へ背を預けながら、ぐったり息を吐いた。

 喉はまだ少し痛い。

 額も熱い気がする。

 だが昨夜の“死ぬかも”感はさすがに消えていた。


「…悪い」


 ぼそっと言うと、ミアラが片眉を上げる。


「なにが」


「倒れたの」


「べつに」


 その返しは、少しだけ棘があった。


 ソラは目を細める。


「何だよ」


「いや」


 ミアラは少しだけ視線を逸らし、それから元に戻す。


「熱の時って、ほんといろいろ出るんだなって」


 ぎくりとした。


 何かやらかした自覚が、ぼんやりと胸の底を掠める。


「…俺、なんか言った?」


「さあ」


「その“さあ”は絶対知ってるやつだろ」


「どうだろ」


「ミアラ」


「なに」


「やめろ、その含みある感じ」


 ミアラはほんの少しだけ口元を上げた。

 笑っているようで、笑いきっていない、妙な顔だ。


「別に、大したことじゃないよ」


「嘘だ」


「ほんとに」


「じゃあ何でそんな顔なんだよ」


「どんな顔」


「なんか…変な顔」


 自分で言っていて語彙が死んでいると思う。

 だが今の頭ではこれが限界だった。


 ミアラは少しだけ黙って、それから肩をすくめた。


「まあ、追われてんの、あの学者だけじゃない顔してるなって思っただけ」


 ソラは一瞬、言葉の意味を掴めなかった。


 学者。


 セレス。


「…は?」


 ひどく間抜けな声が出る。


 ミアラは壁へ背中を戻し、視線だけこちらへ向けた。


「別に責めてない」


「いや、ちょっと待て」


「待ってる」


「俺、何て…」


「覚えてないんだ」


 その言い方が、妙にやさしかった。


 ソラは一気に顔が熱くなるのを感じた。

 いや、熱のせいもまだあるだろう。

 あるが、たぶんそれだけじゃない。


 最悪だ。


 ほんとうに最悪だ。


 外へ出て、自由を掴みたくて、やっと研究院を抜けたはずなのに。

 熱で倒れた挙げ句、無意識にセレスの名前を呼ぶなんて。

 何をやってるんだ、自分は。


「…最悪」


 低く呻くと、ミアラが小さく笑った。


「今日はその“最悪”ちょっと重いね」


「うるさい」


 ソラは毛布代わりの布を頭まで引き上げたくなったが、そんなことをしたら余計怪しいのでやめた。


 頭の中がぐるぐるする。


 嫌いじゃない。

 でも怖い。

 戻りたくない。

 でも身体は覚えている。


 それが全部混ざって、どうしようもなく気分が悪い。


「…俺、戻る気はないからな」


 半分布へ顔を埋めたまま言うと、ミアラは少しだけ目を細めた。


「聞いてないし」


「言っとく」


「二回目」


「大事だからだろ」


「へえ。じゃあその学者も大事なんだ」


「そういう意味じゃねえ!」


 反射的に声が大きくなる。

 喉が痛む。

 最悪だ。


 ミアラは今度こそちゃんと笑った。

 けれど笑いながらも、どこかでソラを観察している目をしている。


「ま、いいや」


 そう言って立ち上がる。


「水飲む?」


「…飲む」


「素直」


「今はもういいんだよ、そういうの…」


 ソラは半分本気で疲れきっていた。


 ミアラが差し出した杯を受け取りながら、またほんの少しだけセレスのことを思い出す。

 思い出してしまって、さらに嫌になる。


 でも、今その嫌さを言葉にしたところで、たぶん余計ややこしくなるだけだ。


 だからソラは、温くなった水を飲み干し、ただ低く息を吐いた。


 自由は腹を満たさない。

 しかも熱が出たら、身体は勝手に“管理されていた日々”を思い出す。

 それでもなお、戻りたくないという気持ちだけは、まだ消えなかった。


 むしろその矛盾ごと、抱えて進むしかないのだと、少しだけ分かり始めていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。

引き続きよろしくお願いいたします。

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