「熱と名前」
その日の夜、ソラは妙に寒かった。
外気が冷えていたわけではない。
季節はまだ、夜になれば少し肌寒い程度で済む時期だ。
裏路地の風が抜ける場所でも、縮こまるほどではない。
それなのに寒い。
「…っくし」
くしゃみが出て、ソラは鼻を押さえた。
目の前ではミアラが小さな火鉢の上で鍋を温めている。
ドーラの店から分けてもらったらしい薄い煮込みで、香草の匂いが鼻をくすぐった。
ルッカは隅の方で丸くなって寝ている。
昼間の件でだいぶ懲りたらしく、いつもより静かだ。
「風邪ひいた?」
鍋をかき混ぜながら、ミアラが振り返りもせずに言った。
「ひいてない」
「その返し、ひいてるやつ」
「寒いだけだし」
「それ、昨日も聞いた気がする」
ソラは返事をしなかった。
寒い。
だるい。
しかも、さっきから身体の節々までじんわり痛い。
嫌な予感しかしない。
でも認めたくない。
ここで倒れたら終わる。
ミアラたちにまた借りが増えるし、何より“外じゃ生きていけませんでした”みたいで最悪だ。
ソラは毛布代わりの古布を肩へ引き寄せ、壁に背を預けた。
背中が冷たくて、余計にぞわっとする。
「顔が赤い」
「火鉢のせい」
「じゃあ何で震えてんの」
「お前ほんと細かいな」
「誰かさんほどじゃないと思うけど」
その言い方に、ソラはぴくりと眉を寄せた。
「何だよ、それ」
「べつに」
ミアラはそう言って、椀に煮込みをよそった。
湯気の立つそれをこっちへ差し出す。
「飲みな」
「…ありがと」
受け取った瞬間、指先にじんわり熱が移る。
思っていたよりずっと嬉しくて、そのことに自分で少しむっとした。
湯気が頬に当たる。
温かい。
それだけで、胸の奥がじわっと緩みそうになる。
研究院の食事は、いつもこうだった。
温度がちょうどいい。
身体に負担がないように作られている。
喉が痛い時は薄味になって、熱がある時は水分が増えて、腹の具合が悪ければ刺激の少ないものが出てくる。
あれを思い出すな。
思い出したら負けだ。
ソラは煮込みをひと口飲んだ。
少ししょっぱい。
だが今はむしろそれがありがたかった。
「…うまい」
「でしょ」
ミアラが得意げに言う。
「ドーラの残り物だけど」
「その情報いらない」
「残り物でもうまいもんはうまい」
それはそうだ。
ソラはもうひと口飲んだ。
温かさが喉から腹へ落ちる。
その感覚にほっとした瞬間、自分の身体がだいぶ限界寄りだったのだと分かってしまった。
まずい。
「ソラ」
「なに」
「手」
「手?」
「震えてる」
言われて見たら、本当に少し震えていた。
椀を持つ指先が定まらない。
「…気のせいだろ」
「気のせいじゃない」
「ほんと見るなよ、人のこと」
「見えるんだから仕方ない」
ミアラは火鉢のそばへ寄ってきて、しゃがみ込む。
その距離の近さにソラは少しだけ身を引いた。
引いたつもりだったのに、身体が思うように動かなかった。
反応がひどく鈍い。
「ちょっと、顔こっち向けて」
「嫌だ」
「何で」
「何でって…」
「嫌がる元気あるなら平気?」
「そういう話じゃ」
言い終える前に、額へひやりとした手が触れた。
ミアラの手だ。
ソラは反射的に息を止めた。
別に触られ慣れていないわけじゃない。
研究院では体温確認も怪我の手当ても日常みたいなものだった。
なのに今は、その感覚が妙に近いものとして頭へ蘇る。
白く細い指。
静かな声。
温度を測る癖みたいな手つき。
違う。
今触れているのはミアラで、手もずっと小さくて、乱暴さも残っていて、匂いだって薬草じゃなくて路地裏の風だ。
でも、それでも。
「うわ」
ミアラが眉をしかめた。
「熱あるじゃん」
「ない」
「ある」
「ないって」
「ある。しかも結構」
そう言われた瞬間、自分の身体がぐらっと傾いた気がした。
熱。
言葉にされると急に、本当にそうらしく思えてくるから嫌だ。
さっきまで誤魔化せていた寒気も、身体の重さも、全部それっぽく形を持ち始める。
「…やだ」
「子どもか」
「認めたら終わりな気がする」
「それはちょっと分かるけど」
なんで分かるんだよ、と言い返す気力もない。
ミアラは立ち上がると、ルッカの方へ振り返った。
「ルッカ、起きろ」
「え…なに…」
「水汲んできて。冷たいの」
「今ぁ…?」
「今」
ルッカがむにゃむにゃ文句を言いながらも起き上がる。
慣れているのか、こういう時のやり取りが妙に速い。
ソラは煮込みの椀を抱えたまま、少しだけ目を閉じた。
だるい。
頭が重い。
喉も少し痛い。
身体の奥に鈍い熱がこもっている感じがする。
そして最悪なのは、こういう時に身体が勝手に思い出すことだった。
夜中の足音。
額へ触れる手。
薄い布団の重さ。
薬草の匂い。
水差しの音。
セレス。
名前が頭の中へ浮かびかけて、ソラは眉を寄せた。
「…最悪」
「それ、もう口癖だね」
ミアラが言う。
「何が最悪なの」
「全部」
「便利な返し」
「今はそれしか言えない」
ミアラは少しだけ黙り、それからソラの肩に布をもう一枚かけた。
「寝な」
「寝たら死にそう」
「寝ない方が死ぬでしょ」
それも正論だった。
◇
どれくらい時間が経ったのか、よく分からなかった。
熱が上がると、時間の流れは妙に曖昧になる。
目を閉じていたと思えば、急に誰かの声が遠くでして、開けたと思えば天井の板が揺れて見える。
誰かが水を替える音。
火鉢の火をいじる音。
布がこすれる音。
それらが現実のものなのか、夢の断片なのか、その境目がふわふわしていた。
寒い。
でも汗も出る。
身体が重い。
遠くで誰かが言う。
「飲める?」
「…ん」
「ちょっとだけでいいから」
「にが…」
「薬じゃないって」
ミアラの声だ。
分かる。
セレスではない。
セレスはもっと静かで、もう少し低いところで落ち着く声をしている。
――熱は?
――喉は痛む?
――こちらを見て。
頭のどこかで、別の声が重なる。
違う。
違うのに、熱のせいで輪郭が曖昧になる。
ソラはうっすら目を開けた。
薄暗い。
知らない天井。
見慣れない壁。
それでも一瞬だけ、研究院の部屋だと思いかけた。
白い天蓋がない。
魔力灯の柔らかな光もない。
薬草の匂いも薄い。
ここは外だ。
そう理解するのに、数秒かかった。
「…みず」
口をついて出た声が、自分でも驚くくらい弱い。
すぐに誰かが肩を支える。
ミアラだ。
乱暴そうに見えるくせに、こういう時の手つきは思ったより慎重だった。
「はい」
杯が唇に当たる。
冷たい水。
喉を通っていく感覚に、少しだけ息がつける。
その瞬間、別の記憶がまた勝手に浮かぶ。
夜中、目が覚めて。
喉が渇いて。
誰かが先に水差しを持ってきていた。
――言ったでしょう。熱のある時は、枕元へ置いておくわ。
やめろ。
思い出すな。
でも熱に浮かされた頭は、そういう命令を聞いてくれない。
「…セレ、」
そこまで口に出して、自分で止めようとした。
止まらなかった。
「…セレス」
かすれた声が、小さな隠れ場所に落ちる。
その瞬間だけ、妙に静かになった気がした。
ソラは半分夢の中だった。
だから、自分が何を言ったのかも、その場でどんな顔をされたのかも、きちんとは分からない。
ただ。
額へ置かれた布が、一瞬だけ止まったことだけは、なんとなく分かった。
◇
目を覚ました時、天井は少しだけ明るかった。
朝なのか、昼なのか、それも最初は分からない。
頭はまだ重いが、昨夜みたいな寒気は引いている。
代わりに全身から力が抜けていて、動きたくなさがすごい。
生きてる。
それを確認してから、ソラはゆっくり瞬きをした。
横ではルッカが丸まって寝ている。
火鉢の火は弱く、鍋はもう空らしい。
少し離れたところで、ミアラが壁にもたれて座っていた。
起きている。
いや、起きているというより、寝ていない顔だ。
ソラと目が合うと、ミアラは短く息をついた。
「やっと起きた」
「…どれくらい寝てた」
「半日ちょい」
「うわ」
思ったより長い。
ソラは少しだけ起き上がろうとして、身体の重さに顔をしかめた。
ミアラがすぐ近づいてきて、背中へ丸めた布を差し込む。
「無理すんな」
「昨日と言ってること逆じゃね」
「昨日は走ってたからでしょ」
そう言われると反論しにくい。
ソラは布へ背を預けながら、ぐったり息を吐いた。
喉はまだ少し痛い。
額も熱い気がする。
だが昨夜の“死ぬかも”感はさすがに消えていた。
「…悪い」
ぼそっと言うと、ミアラが片眉を上げる。
「なにが」
「倒れたの」
「べつに」
その返しは、少しだけ棘があった。
ソラは目を細める。
「何だよ」
「いや」
ミアラは少しだけ視線を逸らし、それから元に戻す。
「熱の時って、ほんといろいろ出るんだなって」
ぎくりとした。
何かやらかした自覚が、ぼんやりと胸の底を掠める。
「…俺、なんか言った?」
「さあ」
「その“さあ”は絶対知ってるやつだろ」
「どうだろ」
「ミアラ」
「なに」
「やめろ、その含みある感じ」
ミアラはほんの少しだけ口元を上げた。
笑っているようで、笑いきっていない、妙な顔だ。
「別に、大したことじゃないよ」
「嘘だ」
「ほんとに」
「じゃあ何でそんな顔なんだよ」
「どんな顔」
「なんか…変な顔」
自分で言っていて語彙が死んでいると思う。
だが今の頭ではこれが限界だった。
ミアラは少しだけ黙って、それから肩をすくめた。
「まあ、追われてんの、あの学者だけじゃない顔してるなって思っただけ」
ソラは一瞬、言葉の意味を掴めなかった。
学者。
セレス。
「…は?」
ひどく間抜けな声が出る。
ミアラは壁へ背中を戻し、視線だけこちらへ向けた。
「別に責めてない」
「いや、ちょっと待て」
「待ってる」
「俺、何て…」
「覚えてないんだ」
その言い方が、妙にやさしかった。
ソラは一気に顔が熱くなるのを感じた。
いや、熱のせいもまだあるだろう。
あるが、たぶんそれだけじゃない。
最悪だ。
ほんとうに最悪だ。
外へ出て、自由を掴みたくて、やっと研究院を抜けたはずなのに。
熱で倒れた挙げ句、無意識にセレスの名前を呼ぶなんて。
何をやってるんだ、自分は。
「…最悪」
低く呻くと、ミアラが小さく笑った。
「今日はその“最悪”ちょっと重いね」
「うるさい」
ソラは毛布代わりの布を頭まで引き上げたくなったが、そんなことをしたら余計怪しいのでやめた。
頭の中がぐるぐるする。
嫌いじゃない。
でも怖い。
戻りたくない。
でも身体は覚えている。
それが全部混ざって、どうしようもなく気分が悪い。
「…俺、戻る気はないからな」
半分布へ顔を埋めたまま言うと、ミアラは少しだけ目を細めた。
「聞いてないし」
「言っとく」
「二回目」
「大事だからだろ」
「へえ。じゃあその学者も大事なんだ」
「そういう意味じゃねえ!」
反射的に声が大きくなる。
喉が痛む。
最悪だ。
ミアラは今度こそちゃんと笑った。
けれど笑いながらも、どこかでソラを観察している目をしている。
「ま、いいや」
そう言って立ち上がる。
「水飲む?」
「…飲む」
「素直」
「今はもういいんだよ、そういうの…」
ソラは半分本気で疲れきっていた。
ミアラが差し出した杯を受け取りながら、またほんの少しだけセレスのことを思い出す。
思い出してしまって、さらに嫌になる。
でも、今その嫌さを言葉にしたところで、たぶん余計ややこしくなるだけだ。
だからソラは、温くなった水を飲み干し、ただ低く息を吐いた。
自由は腹を満たさない。
しかも熱が出たら、身体は勝手に“管理されていた日々”を思い出す。
それでもなお、戻りたくないという気持ちだけは、まだ消えなかった。
むしろその矛盾ごと、抱えて進むしかないのだと、少しだけ分かり始めていた。
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