「放っておけない相棒」
ミアラに連れ回される生活が三日も続くと、さすがのソラでも少しは分かってくることがあった。
まず、この街は道ではなく“流れ”でできている。
広い通りがあって、そこから細い路地が枝みたいに伸びている、という見方も間違いではない。
だがミアラと一緒に動いていると、それだけでは全然足りなかった。
人が多い時間。
荷車が詰まる場所。
見張りが立つ角。
酔っ払いが転がる裏道。
朝だけ開く抜け道。
昼は危ないのに夜は平気な通り。
そういうもの全部が重なって、街の“安全な動き方”が決まるらしい。
そして当然ながら、ソラにはその感覚がまるでなかった。
「ちょっと待って、今どこ曲がった?」
「三つ前の角」
「分かるわけないだろ!」
「覚えろって」
「無茶言うな!」
朝からそんな調子で、ソラは今も半歩後ろをついて歩いている。
だが三日前と違うのは、足が完全にもつれなくなったことと、ミアラの背中を見るだけで少しは安心できるようになったことだった。
もちろん、それを口に出す気はない。
「ほら、そこ踏むな」
「え?」
言われた瞬間、足を止める。
すぐ目の前の石畳は、他と同じようにしか見えない。
「何があるんだよ」
「踏むと音鳴る」
「罠!?」
「罠っていうか、住人の工夫だね」
ミアラは軽く石を跨ぎ、その先へ進んでいく。
ソラも慎重についていきながら、思わず感心した。
「よく分かるなそんなの」
「毎日見てるから」
「俺、絶対一人じゃ生きられないな」
「知ってる」
「ちょっとは否定しろよ!」
「無茶なこと言うなよ」
今日も正論がひどい。
だが、こんなやり取りをしていられる程度には、今のソラはこの街の空気に慣れ始めていた。
嫌な視線には相変わらず慣れないし、露店の女たちに値踏みされるのも最悪だし、寝床は硬いままだ。
だが“外で動く”こと自体には、少しずつ身体が順応している気がする。
研究院の中では、こういう慣れ方は絶対しなかった。
そう思って、胸の奥に小さな熱が灯る。
「何、その顔」
ミアラが振り返る。
「どんな顔だよ」
「ちょっと得意げ」
「してない」
「してる。すごいしてる」
「してないって」
「まあいいけど」
ミアラはそう言って、少し先の路地へ顎をしゃくった。
「今日の飯はあそこね」
古びた木の看板が下がっている。
酒場、というより食堂に近い小さな店だった。
入口の布をくぐった瞬間、焼いた肉と香草の匂いが鼻へ飛び込んでくる。
研究院の上品な食事とは真逆の、油っぽくて濃い匂いだ。
でも腹にはこっちの方が暴力的に効く。
「おー、ミアラ」
カウンターの向こうから低い女の声がした。
大柄な犬系獣人の女が、片手で鍋を混ぜながらこちらを見ている。
褐色の肌に、後ろでざっくり束ねた髪。
腕まくりした前腕は太く、包丁もお玉も似合いそうな手だった。
「珍しいの拾ったね」
「拾ってない」
ミアラが即答する。
「勝手についてきた」
「おい、言い方!」
ソラが反射的に言い返すと、女主人はどっと笑った。
「元気じゃないか。いいね、坊や」
「坊やって…」
「じゃあ何て呼べばいいんだい」
「ソラ」
「へえ。ちゃあんと名前があるんだね~」
またそれか、とソラは思ったが、今度はあまり刺さらなかった。
言われ慣れてきたのかもしれないし、この女の言い方に悪意が薄いからかもしれない。
「あたしはドーラだよ。そこ座んな」
顎で示された席へ、ソラとミアラは並んで腰を下ろした。
椅子は固いが、樽の上よりずっとましだ。
「何にする?」
「いつもの」
ミアラが言う。
「ソラは」
「え、俺も選べるの?」
「選べるけど、金は?」
「ない」
「じゃあ選べないね」
「この世界厳しすぎるだろ!」
ドーラがまた笑う。
「いいよ。今日はミアラのつけと一緒にしとくから」
「何でそこで自然に俺の借金が増えるんだよ」
「生きるってそういうこと」
ミアラまで乗ってくる。
最悪だ。
だが温かい食事が目の前に来た瞬間、文句は半分くらいどうでもよくなった。
塩気の強い煮込みと、少し硬いが香ばしいパン。
皿から湯気が立っている。
ソラは一瞬だけ迷ってから、やっぱりすぐ匙を取った。
「…うま」
「だろ」
ミアラが得意げに言う。
なぜお前が得意げなんだ。
ドーラは鍋を混ぜながら、そんなふたりを横目で見ていた。
「で、その坊や、どっから連れてきたんだい」
「路地で拾った」
「拾われてない!」
「自己申告は?」
「…逃げてきた」
言いながら、ソラは少しだけ口をつぐむ。
逃げてきた。
それは本当だ。
でも、どこから、なぜ、まで言う気にはなれない。
ドーラはそれ以上は聞いてこなかった。
代わりに、少しだけ目を細めて頷く。
「そりゃ結構」
「結構、なのか」
「逃げてきたやつに余計なこと聞く店じゃないのさ、うちは」
そう言って、肉の串を一本おまけみたいに皿へ置く。
「食べな」
「…ありがと」
また素直に礼を言ってしまった。
ドーラは笑い、ミアラは横で何とも言えない顔をした。
「何だよ」
「いや、あんた外では意外とちゃんと礼言うなって」
「研究院でも言ってたし」
「へえ」
その返しに、ソラは少しだけ箸――いや、木の匙を止めた。
セレスにも、パルナにも、礼は言っていた。
たぶん。
全部じゃなくても、少なくとも食事とか薬とか、そういう時には。
そういうのが身体に残っているのだと思うと、妙に落ち着かない。
ごまかすようにパンをちぎって口へ入れた、その時。
「姉貴!」
入口の布が勢いよくめくれて、小柄な影が飛び込んできた。
鼠系の獣人の少年だ。
薄茶色の毛並みに、せわしない目。
年は十代前半くらいだろうか。
肩で息をしながら、店の中を見回して、ミアラを見つけた途端に駆け寄ってきた。
「ルッカ」
「やばい、さっきの荷、ばれたかも!」
ミアラの顔つきが変わる。
さっきまでの軽さが一瞬で消えた。
ソラが見たことのない、鋭い目だ。
「どこで」
「東の抜け道。あの赤髪の連中、絶対気づいてる」
「何人」
「三、いや四?でもたぶん待ち伏せてる」
ルッカが早口でまくしたてる。
ドーラが舌打ちした。
「この時間に東は面倒だね」
「でしょ!」
ルッカはそこで初めてソラに気づいたらしく、ぎょっとした顔をする。
「誰この兄ちゃん」
「今はそれどころじゃない」
ミアラが立ち上がった。椅子が鳴る。
「ルッカ、裏通る。あんたひとりで戻ろうとした?」
「だって姉貴探さなきゃって」
「馬鹿」
「姉貴にだけは言われたくない!」
ほぼ反射みたいな応酬だった。
だが内容は穏やかではない。
ソラは匙を持ったまま固まる。
「何、行くの?」
「行く」
即答。
ミアラは外套をひっつかむと、そのまま店の外へ向かおうとする。
ルッカも当然みたいについていく。
「ちょっと待て」
ソラが声をかけると、ミアラが振り返った。
「何」
「危ないんだろ、それ」
「危ないよ」
「じゃあ何でそんな当然みたいに」
「ルッカが捕まる方が面倒だから」
言い切る声音に迷いはない。
ソラは一瞬だけ言葉を失った。
その言い方は乱暴だ。
でも、放っておけないから行く、という意味では自分と少し似ていた。
似ている、と気づいた瞬間、嫌な予感がした。
たぶん、止めた方がいい。
というか、自分はここで残るべきだ。
戦えないし、速くもないし、今行っても足手まといにしかならない。
頭では分かる。
でも。
「…俺も行く」
言ってしまった。
ミアラが本気で嫌そうな顔をした。
「何で」
「何でって」
「今の会話のどこで“よし、ついて行こう”ってなるの」
「だってお前ひとりで…」
「ひとりじゃないし。ルッカもいるし」
「そのルッカが一番不安なんだけど!」
「失礼だな!」
ルッカが反発する。
お前もそこ反応するのか。
ミアラは額を押さえた。
「ソラ、あんた戦えないでしょ」
「うん」
「走れないでしょ」
「うん」
「じゃあ何で行くの」
真顔で問われて、ソラは一瞬詰まる。
理由はうまく言えない。
ただ、ここで置いていかれるのは嫌だった。
助けてもらってばかりで、何もできないまま残るのも嫌だし、ミアラたちが危ないと分かっているのに飯だけ食って待ってるのももっと嫌だ。
「…放っとけないから」
絞り出すように言うと、ミアラはしばらく無言だった。
やがて、ものすごく嫌そうに息を吐く。
「ほんとそういうとこ」
「何だよ」
「後悔しても知らないから」
「それはお互い様だろ」
「いや、あたしはあんたが後悔する未来しか見えない」
言いながらも、完全には追い返さない。
それが許可だと判断して、ソラは慌てて立ち上がった。
半分残っていた煮込みは諦める。
胃が悲鳴を上げそうだが今は仕方ない。
ドーラが低い声で言う。
「ミアラ。坊や連れてくなら、せめて隠しときな」
「分かってる」
「分かってない顔してるけどね」
「うるさい」
外へ出る。
昼の熱気は少し落ちてきていたが、路地の空気はまだぬるい。
東側の抜け道へ向かう間、ミアラの動きは明らかに速かった。
ルッカが先を走り、時々振り返って合図を送る。
ソラは必死でついていく。
完全に役立っていない自覚がある。
それでも、今は離れたくなかった。
◇
問題の場所は、東側の細い水路沿いだった。
幅の狭い石橋がひとつ、その下を濁った水が流れている。
左右は古い建物が迫り、逃げ道は多そうでいて少ない。
待ち伏せにはちょうどいい場所だ。
「…いる」
ルッカが小声で言う。
橋の向こう側、赤髪の女が三人。
いや、少し奥にもうひとりいる。
革鎧まがいの服装で、どう見ても穏やかな仕事ではない。
こちらを待っているというより、誰かが来たら拾う気で立っている感じだ。
ミアラが舌打ちした。
「最悪」
「また増えた」
ルッカが言う。
ソラは息を殺しながら覗き込む。
「何したんだよ」
「荷物運んだだけ」
「絶対それだけじゃないだろ」
「だいたいそれだけ」
信用できない返事だった。
ミアラは壁に背をつけたまま考えている。
正面突破は無理。
別の抜け道があるならそこを使うのだろうが、ルッカが来たということは、そこもたぶん塞がれている。
ソラは橋の向こう側をじっと見た。
四人の視線は散っている。
完全に警戒しているようで、少しだけ気が緩んでもいる。
何を待っているのかは分からないが、“絶対にここへ来る相手”がいる前提の立ち方だ。
その時、ひとりが何気なくこちらへ顔を向けた。
ソラと、目が合う。
「…っ」
反射的に身を引く。
だが遅い。
「いた!」
女が声を上げる。
まずい。
ミアラが舌打ちし、ルッカの襟首を掴む。逃げる判断は一瞬だった。
だがソラの頭には、別の考えが浮かんでいた。
こいつらが欲しいのはミアラたちの荷か、それとも自分たちか。
たぶん両方だ。
でも、さっき目が合った瞬間の反応は明らかに“珍しい方”へ向いていた。
だったら。
「ミアラ!」
「何!」
「俺、あっち行く!」
「は?」
答えを待たずに、ソラは逆方向へ飛び出していた。
「おい!」
ミアラの怒鳴り声が背中へ刺さる。
分かってる。
雑だ。
無茶だ。
死にに行ってるみたいだ。
でも今、こいつらの視線を自分に引きつけられれば、その間にミアラたちは抜けられるかもしれない。
「こっちだ!」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。
赤髪の女たちの目が、一斉にこちらへ向く。
黒髪が布の隙間からこぼれたのも悪かった。
女たちの顔が明らかに変わる。
「人間の男!」
「捕まえろ!」
終わった。
ほんとうに終わった。
だがその分、橋の向こうの注意は完全にこちらへ寄った。
ミアラたちの方は一瞬だけ空く。
走る。
足が痛い。
肺が苦しい。
でも走る。
心臓が喉まで上がってくるような感覚の中で、ソラは必死に路地を折れた。
背後の足音は重い。
速い。
数まで多い。
圧倒的に不利だ。
「っ、は…!」
角を曲がった瞬間、足がもつれる。
あ、と思う。
嫌な浮遊感。
そのまま石畳へ倒れ込みかけたところを、横から伸びた手が乱暴に引っ張った。
「バカ!!」
ミアラだった。
信じられない速度で横から入り込み、ソラの腕を掴んで引きずるみたいに路地の奥へ押し込む。
ルッカも反対側から飛び出し、木箱をひっくり返して追手の足を止めた。
「そっち!」
「分かってる!」
「分かってないから転ぶんだろ!」
「それは今言うことか!?」
「今だから言ってんの!」
怒鳴りながらも、ミアラの動きに迷いはない。
三人で細い通路を抜け、半壊した壁をまたぎ、裏の裏みたいな水路脇へ飛び込む。
そこまで来てようやく、追手の声が遠のいた。
ソラは壁に手をついて、まともに立てなくなった。
息が切れる。
視界が揺れる。
足も腕も震える。
「っ、は、…ごめ、ちょ…」
謝ろうとした瞬間。
ばちん、と軽く頭をはたかれた。
「いっ!」
「バカじゃないの!?」
ミアラの声が路地に響いた。
さっきまでの怒鳴り方と違う。
もっと近くて、もっと切羽詰まっていて、ほとんど悲鳴に近い怒りだった。
「何で飛び出すの!」
「だって、ああしないと」
「ああしないと何!?」
「お前ら逃げられなかっただろ!」
「だからってあんたが捕まったら意味ないでしょ!」
ミアラの耳がぴんと逆立っている。
尻尾もぶわっと膨らんでいた。
分かりやすすぎるくらい怒っている。
いや、怒っているだけじゃない。
怯えている。
ソラはその顔を見て、少しだけ言葉を失った。
「死ぬ気で突っ込むのと!」
ミアラは息を荒くしながら続ける。
「死にに行くのは違うの!」
その声が、ソラの胸にひどく重く落ちた。
死にに行く。
まさにそうだったのかもしれない。
何か思いついて、勢いで飛び出して、そのあとどうやって逃げるかまでは考えていなかった。
目立つ、引きつける、そこまではよかった。
そこから先がない。
いつもの自分だ。
「…ごめん」
小さく言うと、ミアラはぴたりと黙った。
たぶん、謝ると思っていなかったのだろう。
ルッカまで目を丸くしている。
そんなに意外か。
でも今のは、本当に少し悪かった。
ソラは壁にもたれたまま、ぐしゃぐしゃになった布を握る。
「助けたいと思ったのは本当」
「…」
「でも、そのあとがなかった」
苦く言うと、ミアラはようやく息を吐いた。
怒りが全部消えたわけではない。
けれど、少しだけ温度が下がる。
「そういうとこなんだよ、あんた」
まだ少し震える声で、ミアラが言う。
「放っとけないのは分かる。でも、死にかけたら意味ない」
ソラは返せなかった。
返せない代わりに、頷く。
ミアラは乱暴に髪をかきあげ、顔を背けた。
その横顔が、ほんの少しだけ青ざめて見えて、ソラはまた少しだけ息を詰めた。
こいつ、本気で怖かったんだ。
その事実が、妙に胸に残る。
路地の上を、風が細く吹き抜けた。
外は相変わらず汚くて、危なくて、自由はしんどい。
でも今、ソラの隣にいるのは、ただ助けるだけじゃなく、本気で怒って、本気で怖がってくれる相手だった。
それが何を意味するのか、まだよく分からないまま。
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