私の辞書には——
——1点差のまま、ついに9回を迎えてしまった。
5回以降はあぶさんが力投した甲斐もあって、野球部を抑えることが出来ている。
途中からサードに入った蘭子も素晴らしかった。
練習で見せたローリングキャッチを、三回も披露してくれたのだ。
しかも、全てサードゴロとしてアウトが成立している。
なんなんでしょうね……。
この、無駄に洗練された無駄のない無駄な動きは……。
そして驚くべきは、8回表に葵との連携でファインプレーを魅せ、ランナーが二三塁の大ピンチを救ってくれたのだ。
蘭子はサードに守備位置を変えても大活躍だった。
だが、野球部側もそう簡単に譲らない。
容赦なく圧巻のピッチングを続けるヒロシを前に、ウインドーズ9は二塁すら踏むことが出来なかった。
更に、葵には不安要素が生まれていた。
左手がジンジンと痛むのだ。
あぶさんが投げる"重い球"を受け続けていたので、左手は少しずつそのダメージに蝕まれてきたようだ。
「いってぇ……」
9回表の守備につく準備をしているが、果たしてこの手は耐えられるのだろうか?
自分の左手を見つめながらキャッチャーミットをはめる。
——その時、事件が起こった。
「あおい! 大変だ。あぶさんの顔が驚きの白さに!」
「洗濯洗剤みたいに言うなよ……」
洗剤メーカーのCMが来るんじゃないかと思うくらいのテンションで蘭子に言われ、葵は呆れながらあぶさんの方を見た。
「うわぁ……」
確かに、顔面蒼白になっている……。
そういえば、さっきのあぶさんの打席は様子がおかしかった。
これは……、もしかして……。
「ごめん……。ゲーが出そう……、ウッ!」
葵の視線に気がついたあぶさんは、一瞬作り笑いをしたあと、辛そうな顔で口を押さえた。
「ちょ! 早く! 早くトイレ行ってきてください!」
葵は強制退場させるように、ベンチ裏へあぶさんを押し出した。
「やっぱり二日酔いが悪化してたんだ!」
これから9回表の投球練習が始まる時だというのに、大ピンチである。
全く、ここぞという時に限って、この人はもう……。
「仕方ない。蘭子! 最終回、もう一回投げられるか?」
もうこうするしかない。あぶさんは、あの状態では投げられないだろう。
「ふっふっふー。やはり最後は私の出番か!」
状況を察した蘭子は快く引き受けてくれた。……というか、なんかノリノリだった。
「これまた、随分とやる気満々だな」
蘭子は野球を全力で楽しんでいるようだ。
それが蘭子の振る舞いから伝わってきて、葵は思わず表情が緩む。
(よし。蘭子のお陰でまた空気が変わったな)
どんな時でも、前を向くことをやめない蘭子が周りに与える影響。
そのポジティブさが、周りの仲間達に伝染していくのだ。
「ピッチャー交代お願いします!」
だから、葵は安心して審判に交代を告げた。
あぶさんは多分、投球練習で時間を稼いでいる間に戻ってくるだろう。
彼には蘭子が抜けたサードを守ってもらう。
その読み通りにあぶさんがグラウンドに戻ってきたところで、いよいよ9回表が始まった。
「蘭子ちゃんごめんね! あとは頼んだわよ!」
スッキリした顔のあぶさんが、投球前に声をかける。
「任せてくれ! わたしの辞書には、"勝利"という文字しかない!」
(いや……。随分とデタラメな辞書だな、それ)
ページを捲り続けても『勝利』としか書いていない辞書を思い浮かべてしまった葵は、蘭子ワールドに飲み込まれるようにミットを構えた。
その蘭子ワールドに翻弄されるかように、野球部の攻撃は呆気なく終わってしまった。
さっきまで投げていたあぶさんの剛球に慣れていたこともあり、蘭子の緩い変化球を面白いぐらいに打ち損じてくれたのだ。
あっという間に三者凡退。
「よし!」
「いえーい!」
葵と蘭子は、これには思わずハイタッチを交わせずにはいられなかった。
チームメイト達もベンチに引き上げながら蘭子を讃えている。
最高のムードの中、ついに9回裏。
ウインドーズ9、最後の攻撃である。
打順は3番の静香から始まる。勝利までは"あと2点"。
きっと大丈夫だ。
だって、蘭子の辞書には"勝利"しか書いていないのだから。
蘭子が蘭子らしく蘭子やってる姿。
私は大好きです。




