第三十一話 邪竜
長い長い暗闇を抜けると、そこには、やはり濃密な闇が広がっていた。
邪竜の巣だ。
すべて〝未来視〟と〝過去視〟で視た通りだとレンは思う。
カイルがあれだけ暴れたにもかかわらず、地形もほとんど変わっていない。
その理由も、レンは知っている。
この洞窟も含め、邪竜に関するあらゆることを〝全能視〟で調べあげていた。
少し進むと、地面が急な角度の坂となり、先には広大な窪地が広がっている。
その奥に、巨大な生き物が蹲っている。
邪竜ニーヴルーンだ。
昼行性の竜は、もうすぐ日付が変わろうというこの時間、当然眠っていた。
しかし、断崖に近い急坂の縁にレンが立つと、気配を敏感に察知したようで、ゆっくりと身を起こす。
空気を震わすような唸り声をあげながら、竜が首をもたげる。
「……ようやくだ」
長かった、とレンは思う。
ここへ辿り着くまでに、いったいどれほどの時間と、手間と、犠牲を払ったことか。
だがそれも、ようやく報われる。
ついに今、悲願が叶うのだ。
そう考えると、心臓が早鐘を打ちはじめ、興奮に息が荒くなる。
視界が赤く染まり、思考が鈍り、目の前の敵に挑みかかろうと、衝動的に前へ出かける。
その足を咄嗟に手で押さえつけ、レンは己に言い聞かせる。
逸るな。
感情に任せて動けば、十四年かけた計画がすべて無駄になる。
まずは段取り通りに行動するんだ。
大きく深く息を吸い込み、呼吸を整える。
その間にも、邪竜は億劫そうにその巨体を起こす。
立ち上がると、窪地の凹みよりも倍ほどは高い。
さらに後ろ足だけで直立すれば、オーレンのヤール王城に匹敵するほどの高さになるはずだ。
これなら、人間など虫けら同然に見えるだろう。
邪竜は不快げにレンを見下ろしながら、口の端から炎を溢れさせる。
寝床に入り込んだ虫を、ブレスで焼き払うつもりなのだろう。
邪竜討伐にやって来た冒険者のほとんどは、その最初の攻撃で焼き払われてきた。
ごくごく一握りの実力者だけが、それを凌いで邪竜と戦ったが、結局は傷ひとつつけられずに、誰もが無惨な最期を遂げた。
そう、カイルたちのように。
ふたたび沸き上がりかける殺意を抑え込み、レンは邪竜に向かって声を張る。
「竜の王の御子よ、おまえに逢いに来た!」
半開きの口から今にも放たれそうだった炎が霧散し、邪竜は眼下の人間を見下ろす目を微かに眇める。
やはり、言葉が通じている。
邪竜は己を討伐に来た戦士たちや、気まぐれに焼き払った人里の住人たち、あるいは酒を捧げに来た山裾の町人らの声を耳にするうちに、自然と人の言葉を理解したのだ。
それどころか、襲撃者たちの使った魔法さえ、真似て再現している。
つまりこの巨大なモンスターは、人間を超越した知能を持っているのだ。
だからこそ、こいつは己の話を聞かずにはいられないと、レンは確信する。
好奇心こそ知識の源泉だからだ。
そして、この邪竜は、この洞窟で生まれ、同胞もなく、たった一頭きりで生きてきた。
ずっと己が何者なのか知りたいと思ってきたはずなのだ。
「……そう、竜の王だ。邪竜ニーヴルーン、おまえはかつて地上を支配した竜の一族、その王子なのだ」
そう伝えた直後、邪竜は洞窟が激しく揺れるほどの、凄まじい咆哮を放った。
邪竜の咆え声は、並の人間であれば、これほどの至近距離で聞けば気を失い、中にはショックで心臓が止まる者もいる。
歴戦の猛者であっても、意識を繋ぐのがやっとで、身を竦みあがらせ動けなくなる者がほとんどだ。
しかし、レンはけろりとして微笑すら浮かべてみせる。
その反応に、邪竜は驚き、続いて興味を持つ。
矮小な人間とは思えぬ胆力。
いったい何者だ。
おのずと、先程の言葉にも信憑性が生まれる。
只者ではないからこそ、ただ戯言を言いにこんなところまでやって来たとは思えない。
一方、レンは落ち着いた気持で、今の咆哮の意味を考える。
おそらく、虫ごときが適当なことを囀るな、とでも言っていたのだろう。
竜の言葉が解るわけではないが、この邪竜の考えていることはなんとなく察することができる。
十四年の間、レンは暇さえあれば〝過去視〟を使い、邪竜が生まれてから現在に至るまでを観察してきた。
だから今では邪竜が不快な時、愉快な時、憂鬱な時、怒った時、腹が減った時に、どんな顔をして、どんな声を発し、どんな行動に出るのか、熟知している。
先程の咆哮を難なく耐えることができたのも、この邪竜が吠えるところを、数え切れないほど見聞きしてきたからだ。
最初はその迫力に圧倒され、呼吸困難になるほど震えあがったが、千回も繰り返せば、さすがに慣れる。
レンは落ち着き払った様子で、ふたたび邪竜に話しかける。
「凄まじい迫力。さすがはかつて世界を支配していた一族の末裔だな」
邪竜は小さく首を傾げる。
「そう、かつてこの世界の霊長は人ではなく竜だった。といっても、数万年も前の話だがな。考えてもみろ。人より賢くどんなモンスターよりも強い、おまえと同じ種族が繫栄していれば、この世界を支配してしまうのは当然だろう」
竜は唸り声を漏らす。
どうやら納得しているようだ。
「ではなぜそんな一族が滅んだのか……それは未曽有の大災害が原因だ。竜は卵だったおまえを残して死滅し、その後は災害を生き延びることができた小さな生き物たちが地上を支配した。今も亜竜は存在するが、真の竜はおまえただ一頭のみだ」
レンに顔を近付けると、竜はふたたび大きく吠えた。
どうして貴様のような虫ケラが、そんな知識を持っているというのだ、といったところか。
「オレがおまえの一族のことを知っているのは、〝天分〟という神に授けられた力の恩恵だ。人語を解する程に人間を観察してきたのなら、オレたちがそういう特殊な力を持っていることも知っているのだろう?」
邪竜は脅すようにレンに近付けていた顔を離す。
やはり知っていたようだ。
威嚇を止めたということは、己の言葉を信じたのだろうとレンは察する。
「オレの〝天分〟は〝全能視〟といってな。あらゆる時のあらゆる場所を見通すことができる。もちろん、数万年前の世界もな。だから、おまえの一族のことも概ね知っているわけだ」
邪竜は先程までとはうってかわり、声を漏らさぬように口を閉じてレンの話に聞き入っている。
「ところで、〝全能視〟には他人との視覚の共有、という能力もあってな」
その言葉に、邪竜は大きく目を見開く。
「お望みとあらば、実際に竜の一族が辿った歴史と、おまえがただ一頭この山で生まれ育つことになった経緯を視せてやることができる」
グルグルと竜は喉を鳴らす。
戸惑っている時の癖だと、レンは知っている。
「視覚を共有するには、相手の体の一部に触れている必要がある。もしオレの提案に興味があるなら、手でも尻尾でも良いから、オレの前へ差し出してくれ」
数秒の間を開けて、邪竜は尾の先をレンの前へ差し出す。
鎌のように尖った先端を見て、レンは一瞬顔を強張らせる。
この尻尾で、スーは胴体を引き裂かれ、カイルも貫かれたのだ。
レンが動かずにいると、邪竜は喉奥から低い声を漏らす。
訝しんでいるのだとわかり、レンは気を鎮めながら右手を差し出す。
「……視覚の共有は、慣れていないと酔うかもしれない。倒れないよう気を引き締めてくれ」
そう言うとレンは、邪竜の尾の先に右手を添える。
次の瞬間、レンと邪竜の視界は遠い過去へと跳び、今となってはこの世界の誰も知らない、かつてこの地上を支配した一族の盛衰を視るのだった。




