第二十九話 奇跡
レンがルパート・カヴァーディル率いる反乱軍を壊滅させてから一年が経った。
その間に、世界各地では未曽有の災害が頻発し、特に、気候変動と海面上昇が大きな問題となっていた。
嵐によって壊滅した集落や、海に沈んだ漁村や港町の数は、誰も把握できていない。
新月を翌日に控えた、クレタ山麓の町フェニムラも、連日の豪雨によってさまざまな被害が出ていた。
洪水で道が水没し長く物資が届いておらず、農作物も軒並みダメになった。
町の特産品である酒の蔵も、浸水によって大きな被害が出ていた。
そんな状況の只中にあって、町唯一の宿の主人は、窓の外を眺めながら溜息交じりにぼやく。
「……このまんまじゃ町が干上がっちまう。水だけはいくらでもあるってのに」
呟いた途端、宿の入り口が開け放たれ、風雨がロビーに吹き込み、合羽に身を包んだ男が駆け込んできた。
宿の主人はカウンターから太った体を乗り出し、男に声をかける。
「どうだったね?」
「ああ、雨漏りはどうにか塞いだ。といっても、こんな天気じゃまたどこから水が入って来るかわからんがね」
「だろうなあ。まあ、とりあえず助かったよ」
合羽を脱いだ大工に、主人は手拭いを放って寄越す。
モンスターの皮革に防水加工を施した合羽を着こんでいたにもかかわらず、初老の大工の全身はぐっしょりと濡れていた。
「こんな豪雨じゃまともに大工仕事なんてできんのに、依頼ばかり入ってきよる」
大工は禿げ上がった頭を拭いながら吐き捨てるように言った。
「そうなのか?」
「ああ、この宿なんてまだいい方だよ。雨漏りどころか風で屋根が飛ばされかけている家もある」
「そいつは気の毒に。今の天気で屋根が剥がれたりすりゃ家ん中は水浸しだろ」
「ああ。だが、それ以上に被害が酷いのが郊外の建物さ。既に何軒も流されとるし、倒木や土砂に潰された家もある。ありゃさすがにどうしようもなかったな。せめて晴れとりゃ建てなおせるんだが」
「ほんとうかい? 住人はどうなった?」
「幸い、ワシが確認した時点では何人か軽い怪我を負っただけで済んどった。住民は今、教会の礼拝堂で保護されているはずだ」
主人は腕を組み目を閉じて思案する。
今後さらに被害が増え、教会や役場で被災者を収容しきれなくなれば、この宿でも預からなければならなくなるかもしれない。
今のうちに準備を整えておいた方が良いだろうか。
「ん? おい」
大工の声に、宿の主人は目を開ける。
大工に視線を向けると、二階へ続く階段を顎で示され、そちらへ目を向ける。
するとすぐに、階段を軋ませて男が下りて来るのが見えた。
今現在、この宿に泊まっている唯一の客だ。
十日前、雨脚が弱まるのを見計らったようにやって来て、それ以来ずっと二階の一室に引き籠っている。
粗末な身形の冒険者風の中年男だが、見た目に反して金払いは良く、食事を運んでやるたび高額のチップをくれた。
男の装いを確認し、主人は眉根を寄せる。
マントを纏い、荷物の入った麻袋を担いでいるからだ。
一階に下りた男は、大工の横を通り過ぎ、真っ直ぐにカウンターへやって来て、主人に短く伝える。
「チェックアウトを」
この男には窓の外が見えていないのかと訝りながら、主人は男に忠告する。
「お客さん、今外へ出ても街道は水没しちまってる。街へ行くのは無理だ。悪いことは言わねえから、雨がおさまるまで泊まっていきな。宿泊費がねえなら、今回ばかりはサービスにしとくからよ」
「街に用があるわけじゃない。クレタ山に行くんだ」
主人は呆れかえり、大仰に溜息を吐く。
「なおさら止めた方がいい。こんな天候で山登りなんざ自殺行為だ」
「雨のことなら心配いらない。陽が落ちる前にはあがって、夜には雲もすっかり晴れる」
「はあ? そんなわけないだろう」
男は主人の言葉に耳を貸さず、懐を漁っていた手を引き抜き、カウンターの上に置いた。
「支払いはこれで足りるな?」
男が手を引っ込めると、主人はカウンターに視線を落としてギョッとなる。
「き、金貨!? お、おいおい、こんなもんで支払われても釣が返せねえよ!」
「不要だ。すべてとっておいてくれ」
「はあ!? そんなわけにはいかねえだろ!」
困惑する主人に背を向け、男は入り口に向かって足早に歩きだす。
「あんた、もしかして竜の洞窟へ向かう気じゃあるめえな」
大工にそう言われ、男は足を止める。
「やっぱりそうかい。数年にひとりぐらい、あんたみたいな向こう見ずな冒険者たちが町へやって来る。ソロで挑もうって奴は、さすがに記憶にないがね」
男はわずかに首を曲げ、大工に視線を向ける。
「まあソロだろうとパーティーだろうと、今まで生きて帰ったもんはおらん。ワシらにあんたを止めることはできんが、行くなら後悔だけはせんようにすることだ」
男は返答もせず、ふたたび前を向くと、そのまま宿の扉から外へ出て行った。
今のやり取りから、主人は男が釣銭を要求しなかった理由を察した。
生きて帰るつもりがないのだろう。
その悲愴な覚悟を理解したからこそ、大工は男を強く引き止めなかったのだ。
「竜神様が目当てだったか……なるほどな」
この村では、山の洞窟に棲んでいる邪竜を、竜神と呼び崇めている。
邪竜は、基本的には人間に敵対的であり、気まぐれに人里を襲って壊滅させることも珍しくない。
それが邪竜と呼ばれる所以でもある。
ところが、自分の棲み処の近くにあるこの町には手を出さない。
その理由は、年に四度、大量の酒を献上品として捧げてきたからだ。
それがいつから行われてきたのかは、町の古老にもわからない。
ただおそらく、どこかから流れて来てここに集落を築いた先祖の中の知恵者が提案し、爾来連綿と続けられてきたのだと考えられている。
この町の特産品である酒も、そんな風習の副産物として生まれた。
そういった理由もあり、邪竜を討伐にやって来る冒険者は、必ずしも歓迎されない。
中には、本気で竜神を信奉し、その命を狙う冒険者に敵意を向ける住民もいる。
ただし、災害指定魔獣である邪竜によってもたらされる被害の報せは、この町にも届けられるので、本音を言えば恐ろしく感じている者が大半だ。
それに邪竜は、町を襲うことはなくとも、上空を飛び過ぎる際に起きる突風によって、家屋が倒壊し、怪我人や死者が出ることも年に数回はある。
加えて、捧げられる酒の量は、特産品として流通させる量の倍以上にもなるので、竜がいなくなれば経済的にも町の負担は大きく減る。
だから、できるものなら討伐してもらいたいと密かに考えている町の住民は、実のところ少なくない。
宿の主人もそのうちのひとりだ。
だからといって、今さっき出て行った客に、僅かでも期待は抱かない。
過去には、〝勇者〟の率いるパーティーが邪竜を討伐しにやって来たこともあったが、他の冒険者と同じように戻ることはなかった。
〝勇者〟といえば、今はほとんど伝説となっている、魔王を討伐した英雄と同じ〝天分〟だ。
そんな逸材でさえ歯が立たないモンスターを、あんな粗末なナリをした、くたびれた中年男ひとりが、仕留められるはずなどない。
「奇跡でも起きなきゃ、人が竜を討ち倒すことなんてできるわけがねえんだ」
主人は溜息交じりに独り言ちると、金貨を金庫にしまうため、カウンター奥の事務所へさがろうとする。
その背に、大工が慌てたように声をかける。
「お、おい! 見てみろ!」
「うん? なにをだい?」
ふり向いた主人に、大工は口では答えず、唖然とした顔で窓の外を指差す。
屋外に目を向けた主人は、息を呑み大きく目を見開いた。
「こ、こいつは――」
先程まで景色を白く染めていた雨はほとんど止み、雲間から差し込んだ幾筋もの陽光が地上を照らしている。
その光景を呆然と眺めながら、主人は無意識につぶやいていた。
「……奇跡かよ」




