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忘れ物センター便り  作者: にめ


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忘れ物96 影響を受けたままの日常

# 忘れ物96 影響を受けたままの日常


 朝の光は、カーテンの隙間から、決まった角度で床に落ちる。


 その角度は、昨日と同じだ。

 床にできる細長い帯も、昨日とほとんど変わらない。


 変わらないから、誰も気にしない。


 目覚まし時計は鳴らなかった。


 正確には、鳴ったのかもしれない。


 けれど、音が鳴ったという記憶が、起き上がる動作に結びついていない。


 女性は、布団の中で一度だけ体を動かし、目を開けた。


 天井の染みを見つめる。


 その染みは、輪郭がはっきりしない。

 最初からそうだったのか、時間が経ってそうなったのかは分からない。


 女性は、その染みを数えることもなく、ただ視線を置いた。


 置いたまま、数秒。


 数秒は、数えられていない。


 置いた視線を外し、ゆっくりと起き上がる。


 起き上がるとき、身体が重いわけではない。


 軽くもない。


 重さについて考える前に、動作が終わる。


 キッチンへ向かい、電気をつける。


 電気は、いつも通りの明るさで点く。


 明るさに違和感はない。


 冷蔵庫を開け、牛乳を取り出す。


 キャップを回す手が、一瞬だけ止まる。


 止まった理由はない。


 止まったあと、何事もなかったように回し続ける。


 コップに注がれた白い液体は、縁ぎりぎりまで来て、そこで止まる。


 こぼれない。


 こぼれなかったから、失敗にはならない。


 女性は牛乳を飲み、パンを一枚取り出す。


 トースターに入れる前、パンを持ったまま、少しだけ動かない。


 動かない時間は短い。


 短いから、気づかれない。


 パンを入れ、スイッチを押す。


 押したあと、手を離すまでに、ほんの一拍の間がある。


 その間に、何かを考えたわけではない。


 ただ、間がある。


 トースターが焼き上がる音が鳴るまで、女性は流しの前に立つ。


 立ったまま、蛇口をひねるでもなく、洗い物をするでもない。


 立っている。


 立っているという状態が、ここでは動作に見えない。


 焼き上がりの音が鳴り、女性はトースターからパンを取り出す。


 焦げ目は、昨日と同じようについている。


 同じだから、比較されない。


 朝食を終え、女性は家を出る。


 玄関で靴を履くとき、紐を結び終えたあと、指が離れない。


 離れないまま、少しだけ時間が過ぎる。


 過ぎた時間は、誰にも拾われない。


 拾われないまま、靴紐はその形を保つ。


 女性は鍵をかけ、ドアを閉める。


 閉めたあと、ノブに手を置いたまま、一瞬だけ止まる。


 振り返るわけでも、確認するわけでもない。


 ただ、手がそこにある。


 そして、離す。


 外の空気は、少し湿っている。


 天気予報では、曇りと言っていた。


 曇りは、特別な天気ではない。


 女性は駅へ向かって歩く。


 歩幅は一定だ。


 信号で止まり、青になったら渡る。


 止まる時間は、信号が決めている。


 だから、止まっても不思議ではない。


 渡り終えたあと、女性は歩道の端に寄る。


 寄った理由は、前を歩く人を追い越すためかもしれない。


 かもしれない、で済む程度のことだ。


 駅の改札を抜け、ホームに立つ。


 電車は、いつもと同じ時間に来る。


 遅れはない。


 女性は、ドアの前に立ち、電車が来るのを待つ。


 待つ、という行為も、ここでは意識されない。


 電車が来て、ドアが開く。


 女性は一歩踏み出す。


 踏み出した足が、床に着くまでの間に、少しだけ迷いがある。


 迷いは、方向についてではない。


 足を置く位置が、決まらない。


 決まらないまま、足は着く。


 着いたから、乗ったことになる。


 車内は混んでいる。


 女性は吊革をつかむ。


 つかんだあと、力を入れすぎていることに気づかない。


 気づかないまま、指に残る圧だけが少し増える。


 増えた圧は、痛みにはならない。


 ならないから、問題にならない。


 仕事場に着き、女性はデスクに座る。


 パソコンを立ち上げ、メールを開く。


 未読のメールが数件ある。


 件数は、昨日と同じくらいだ。


 同じくらいだから、増えたとは感じない。


 メールを一通開き、内容を読む。


 読み終えたあと、返信欄にカーソルが点滅する。


 点滅は、一定のリズムだ。


 女性はキーボードに指を置く。


 置いたまま、打たない。


 打たない時間が、ほんの少しだけ続く。


 続いたあと、短い文章を入力する。


 入力して、送信ボタンにカーソルを合わせる。


 合わせたまま、押さない。


 押さない理由はない。


 押さないことが、選択にならない。


 女性は、ウィンドウを閉じる。


 閉じたあと、そのメールは未返信のまま残る。


 残ったことに、特別な意味は付かない。


 昼休み。


 女性は同僚と並んで歩き、店に入る。


 メニューを見て、いつもと同じものを注文する。


 注文を終えたあと、箸に手を伸ばす。


 伸ばした手が、箸に触れる前で止まる。


 止まったあと、触れる。


 触れたから、使ったことになる。


 食事中、女性は一度だけ、箸を置く。


 置いた理由は、咀嚼が終わっていなかったからかもしれない。


 かもしれない、で終わる。


 午後の仕事は、特別なことなく進む。


 ミスはしない。


 成果も出る。


 けれど、作業と作業の間に、小さな空白が増える。


 空白は、誰にも見えない。


 見えないから、指摘されない。


 定時になり、女性は席を立つ。


 立つ前に、椅子の背もたれに手を置く。


 置いたまま、少しだけ動かない。


 その間に、何を考えたわけでもない。


 ただ、間がある。


 帰り道、女性はスーパーに寄る。


 同じ棚の前で、同じ商品を手に取る。


 取ったあと、カゴに入れる前に、少しだけ止まる。


 止まって、ラベルを見る。


 見たからといって、何かを判断するわけではない。


 判断しないまま、カゴに入れる。


 レジで会計を済ませ、店を出る。


 外は、もう暗くなり始めている。


 女性は、帰り道を歩く。


 歩きながら、今日一日のことを思い返そうとしない。


 思い返さないことが、意識的な選択ではない。


 ただ、そうしない。


 家に着き、ドアを開ける。


 開けたあと、靴を脱ぐ前に、一瞬だけ立ち止まる。


 立ち止まる時間は短い。


 短いから、疲れているせいだと思われる。


 思われないかもしれない。


 どちらでもいい。


 夕食を作り、食べ、片付ける。


 テレビをつけ、画面を見る。


 内容は、頭に残らない。


 残らないから、消しても惜しくない。


 消す前に、リモコンを持ったまま、少しだけ止まる。


 止まったあと、消す。


 消えた画面が、黒くなる。


 黒い画面に、自分の姿が一瞬だけ映る。


 女性は、それを見ない。


 見ないまま、カーテンを閉める。


 布団に入り、電気を消す。


 消したあと、天井を見上げる。


 朝と同じ染みが、そこにある。


 染みは、少しだけ輪郭が変わったようにも見える。


 見えるだけで、確かめない。


 女性は目を閉じる。


 閉じたまま、すぐには眠らない。


 眠らない時間が、少しだけある。


 その時間に、何かを考えたわけではない。


 ただ、時間が余る。


 余った時間は、今日も拾われない。


 拾われないまま、どこかに溜まる。


 ——モノカゲは、その街を歩いていた。


 配達の途中でも、帰り道でもある。


 ピンク色の制服は、夜の街灯の下で淡く光る。


 彼女は、人の生活の縁を通る。


 直接、関わらない。


 ただ、余った時間の気配を、薄く感じる。


 声ではない。


 情景でもない。


 行き先を持たない状態が、生活の隙間に置かれている。


 モノカゲは、それを拾わない。


 拾わないことが、放置ではない。


 今の世界は、拾われないものを前提に動いている。


 カゲマルは、室内の隅、家具の影、使われない段差に寄る。


 人の中心には近づかない。


 中心から外れたところに、影が溜まる。


 影が溜まる場所で、日常は続く。


 女性は、変わったとは思わない。


 誰も、彼女が変わったとは言わない。


 けれど、彼女の一日は、少しだけ厚くなっている。


 厚くなった一日は、終わりが早い。


 早いのに、何も失われていない。


 失われていないから、問題にならない。


 ただ、影響を受けたまま、生活が続いていく。


 それが、今日の普通だった。


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