忘れ物97 世界に慣れてしまう人
# 忘れ物97 世界に慣れてしまう人
朝、目を覚ますと、カーテンは半分だけ開いている。
いつから半分だったのかは分からない。
昨日閉め切った記憶も、閉めなかった記憶も、どちらも確かではない。
それでも、光の入り方はちょうどいい。
床に落ちる影は長すぎず、短すぎず、部屋の中央を避けるように伸びている。窓枠の角が、いつも同じ形の四角を作り、そこだけ少し明るい。
男性は、その影を踏まない位置に足を下ろした。
踏まない理由はない。
踏まないことが、特別な選択ではなくなっている。
スリッパを履く。
履いたあと、踵を床に落とす前に、一瞬だけ止まる。
止まってから、音がする。
洗面所で顔を洗い、タオルで水気を拭く。
鏡に映った自分の顔を、少しだけ見る。
見る時間は短い。
短いから、印象は残らない。
歯ブラシを口に入れ、磨く。
磨き終わって、コップを手に取る。
水を含む前に、指がコップの縁で止まる。
止まったあと、口をすすぐ。
朝食は、昨日と同じものを用意する。
同じものを選んだという感覚もない。
冷蔵庫の中に、それがあり、手が伸びただけだ。
パンを焼き、コーヒーを淹れる。
コーヒーが落ちる音を聞きながら、男性は流しの前に立つ。
立っている時間は、測られていない。
測られない時間は、長くも短くもない。
ただ、ある。
流しの蛇口の先端から、ひと粒だけ水が落ちる。落ちた音は小さく、すぐに別の音に紛れる。
カップにコーヒーを注ぎ終えたとき、男性は一度だけ、動きを止めた。
止めた理由は、熱かったからでも、考え事をしていたからでもない。
止まるという動作が、そこに自然に含まれている。
止まってから、飲む。
それで、一連の動作が完成する。
トーストの表面が軽く鳴る。
皿に乗せ、バターを塗る。
塗ったあと、ナイフを置く前に一拍。
置いてから、食べる。
食べ終えた皿は、すぐには洗わない。
洗うつもりがないわけでもない。
ただ、流しの端に置かれている時間が、少しだけ増えている。
玄関で靴を履くとき、男性は必ず、右足から履く。
昔からそうだったかどうかは、思い出さない。
思い出さないから、確認もしない。
靴紐を結び終えたあと、指を離すまでに短い空白がある。
その空白を、誰も数えない。
ドアを開け、外に出る。
鍵をかける。
鍵を回し終えたあと、指を離すまでに、ほんの一拍の間がある。
その間に、何かが起きるわけではない。
ただ、その間が、毎朝そこにある。
階段を降りる。
踊り場で、一段だけ踏み外したかのように足が止まる。
止まったあと、何事もなく次の段へ。
駅までの道は、最短ではない。
けれど、遠回りとも感じない。
男性は、角をひとつ余分に曲がる。
曲がる先には、何もない。
何もないということを、男性は知っている。
知っているのに、曲がる。
曲がった先にあるのは、建物と建物の間の、少し広い空間だ。
地面は舗装され、ベンチがひとつ置かれている。
背もたれは低く、座ると自然に前へ寄る。
木の板は色が抜け、触れば少しざらつく。
座る人はほとんどいない。
男性も、座らない。
ただ、そこを通る。
通るとき、歩幅が少しだけ変わる。
変わることに、意識は向かない。
通路の入り口には、古い貼り紙の跡がある。何が貼られていたのかは分からない。四隅のテープだけが残り、紙の輪郭だけが薄く残っている。
男性はそこを通る。
貼り紙の跡に目が止まるわけでもない。
通り抜ける途中で、男性は立ち止まる。
立ち止まるのは、いつものことだ。
いつものことだから、立ち止まったことを記憶に留めない。
立ち止まって、周囲を見る。
見る、と言っても、何かを探すわけではない。
視線は壁の染みや、配管の影、足元の小石をなぞる。
小石は、昨日と同じ場所にあるようで、同じではない。
なぞり終えたら、歩き出す。
歩き出す方向は決まっている。
駅へ向かう道だ。
立ち止まった時間が、遅刻につながることはない。
駅前の信号で、赤になる。
立ち止まる。
青になって渡る。
渡り終えたあと、歩道の端に寄り、数歩だけ歩幅が乱れる。
乱れたことに、名前はつかない。
男性は、いつも同じ電車に乗る。
車内で立つ位置も、ほとんど変わらない。
吊革をつかみ、視線を少し下げる。
広告も、窓の外も、内容は頭に残らない。
残らないことが、不足ではない。
揺れに合わせて、足の重心を移す。
移す前に一拍。
移してから、また一拍。
会社に着き、エレベーターに乗る。
扉が閉まる直前、誰も乗ってこないのに、男性の手がボタンの前で止まる。
止まったあと、手を下ろす。
午前の仕事は、特別な問題なく進む。
メールは返す。
返すべきものは返している。
けれど、返すまでの間に、短い空白がある。
空白があることに、誰も気づかない。
気づかないから、指摘もされない。
印刷した書類を机に置く。
置いたあと、紙の端に指が触れたまま止まる。
紙は逃げない。
逃げないのに、指だけがそこに残る。
同僚に話しかけられ、返事をする。
返事は短い。
短い返事のあとに、少しだけ間がある。
間は会話を切らない。
切らないまま、次の話題へ流れる。
昼休み、男性は弁当を持って、建物の裏に出る。
そこにも、何もない空間がある。
以前は、そこに行かなかった。
今は、行く。
行く理由を考えたことはない。
壁際に、使われない灰皿が置かれている。吸う人はいない。砂もない。蓋が閉まったまま、金属の縁だけが少し光る。
男性はその近くに立つ。
立つ位置が、毎回ほとんど同じになる。
同じになることに、意味はない。
弁当を食べ終えたあと、男性はしばらく動かない。
動かない時間は、決まっていない。
決まっていないから、延びても短くなっても、問題にならない。
午後の仕事が始まる少し前に、席に戻る。
戻ることに、急ぎはない。
戻ることが、日課になっている。
午後、会議室へ移動する。
廊下の角で、身体が少しだけ止まる。
止まるのは、誰かが通り過ぎるためではない。
通り過ぎる人はいない。
止まったあと、曲がる。
曲がった先は会議室。
会議は終わり、元の席に戻る。
戻る途中、窓から外を見る。
見る時間は短い。
短いから、空の色は残らない。
夕方、仕事を終え、男性は帰路につく。
朝と同じ道を通る。
同じ空間で、同じように立ち止まる。
立ち止まることに、昨日との違いはない。
違いがないから、変化として認識されない。
立ち止まっている間、男性の中で、何かが欠けているわけではない。
欠けていないから、補おうともしない。
ただ、そこにいる。
通路を抜けるとき、靴底が少しだけ滑る。
滑ったことは危険にならない。
危険にならない程度のずれは、すぐに消える。
消えるのに、ずれた一拍だけが残る。
——モノカゲは、その空間を、別の時間帯に通る。
ピンク色の制服は、夕暮れの影に溶け込み、目立たない。
彼女は、男性が立ち止まる位置を、一度見ただけで覚えない。
覚えないことが、意図ではない。
意図を持つ前に、視線が流れる。
それでも、足元の感触が少しだけ変わるのを、彼女は感じる。
硬さが均一になる。
均一になる感触は、以前よりも長く続く。
均一な硬さの上では、靴底が音を立てない。
音を立てないまま、彼女の足は前へ出る。
彼女は、それを整えない。
整えないことが、今の彼女の立ち位置だ。
カゲマルは、男性が立つ位置の、少し外側の影にいる。
以前は、移動していた。
今は、動かない。
動かないことが、その場所の一部になっている。
影は、濃くも薄くもならない。
一定の濃さを保つ。
それが、安定だと誰も呼ばない。
ただ、そうなっている。
モノカゲは、カゲマルが動かないことに、驚かない。
驚かないことが、慣れに近いのかどうかも、判断しない。
男性は、立ち止まることを「する」と思っていない。
立ち止まることが、動線に含まれている。
含まれているものは、選択にならない。
選択にならないから、迷いもない。
家に帰り、夕食をとり、テレビをつける。
画面を見ながら、男性は一度だけ、リモコンを握ったまま動かない。
そのまま、チャンネルを変えずに時間が過ぎる。
過ぎた時間は、内容を残さない。
残らないから、覚えない。
鍋の湯が沸き、蓋が少し浮く。
男性は火を弱める。
弱める前に、つまみの上で指が止まる。
止まってから、回す。
風呂に入り、体を洗い、湯船に浸かる。
浸かっている時間は、測らない。
測らないまま、出る。
湯船から出たあと、床に足を置く前に、一瞬だけ止まる。
止まってから、置く。
それが、一連の流れだ。
脱衣所の鏡の前で、タオルを肩にかける。
かけ終えたあと、タオルの端が指に引っかかったまま残る。
引っかかったままの感触は、いつの間にか消える。
消えるまでの時間を、誰も拾わない。
布団に入り、電気を消す。
暗闇の中で、男性は天井を見上げる。
何も見えない。
見えないことに、不安はない。
眠る前、男性は今日一日のことを思い返さない。
思い返さないまま、眠りに入る。
眠りは浅くも深くもない。
朝が来る。
カーテンは、また半分だけ開いている。
男性は、それを直そうと思わない。
直さないことが、怠慢でも、選択でもない。
ただ、そういう状態が、続いている。
週末。
男性は仕事がない。
起きる時間は少し遅い。
遅いことに意味はない。
出かける用事もない。
ないのに、外に出る。
出るとき、いつもの角を余分に曲がる。
曲がった先の空間に、いつものように立ち止まる。
電車に乗らない日でも、立ち止まる。
立ち止まることが、目的から切り離されている。
切り離されているから、理由がいらない。
空間の中で、風が一度だけ抜ける。
抜けた風は冷たくも温かくもない。
男性はそれを受けて、また歩き出す。
歩き出す先は、近所のコンビニ。
買うものは決まっていない。
決まっていないから、棚の前で少しだけ止まる。
止まって、結局、同じ飲み物を取る。
同じ、という言葉も、頭の中で形にならない。
家に戻り、飲み物を冷蔵庫に入れる。
入れたあと、扉を閉めるまでに一拍。
閉めてから、また一拍。
余った時間は、どこにも使われない。
使われないまま、日が傾く。
——モノカゲは、帰り道で立ち止まる。
立ち止まったのは、男性の場所ではない。
別の余白だ。
ビルの陰と街灯の境目、段差のない段差、看板の裏の細い影。
彼女は、そこに立っている自分を、少しだけ感じる。
感じるが、意味づけはしない。
意味づけをしないまま、歩き出す。
歩き出すとき、靴底が鳴らない。
鳴らないことに、彼女は気づき、気づいたことを言葉にしない。
カゲマルは、彼女の影の端を歩く。
端を歩くことが、彼の通常になっている。
通常になっていることを、誰も確認しない。
世界は、少し前と変わっている。
けれど、その変化に、名前はついていない。
名前がついていないから、説明されない。
説明されないまま、人は慣れる。
慣れてしまった世界は、音を立てない。
音を立てないまま、今日も続いていく。




