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忘れ物センター便り  作者: にめ


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忘れ物95 離れられない場所

# 忘れ物95 離れられない場所


 その場所には、名前がない。


 地図を開けば、小さな灰色の余白として印刷されているだけだ。道路と道路の間に挟まれた、用途の記載がない区画。建物の輪郭もない。公園の緑色でもない。


 現実のほうでは、そこは駅前の再開発から取り残されたような、半端な空間だった。


 ビルとビルの間を抜ける細い通路。その先に、ほんの少しだけ広がる踊り場のような場所がある。

 壁はコンクリートで、片側は古い店舗の裏口、もう片側は立体駐車場の出入口。上には配管が走り、昼間でも薄い影が落ちる。


 ベンチがひとつ置かれている。


 ベンチは、座り心地のいいものではない。

 木目の板は色が抜け、端の塗装は剥がれている。背もたれは低く、座ると自然に前かがみになる。


 それでも、そこにベンチがあるのは、かつて「待つ場所」として期待されたからだろう。


 待つ、という期待は、今は使われていない。


 待ち合わせの声は聞こえず、店の看板も向いていない。そこは、通路の途中で、通路の外側でもない。


 ただの余り。


 余りのはずの場所に、最近、人がいる。


 誰も「いる」と言わない。

 通り過ぎる人は、その場所を視界の端に入れたまま、入れていない。


 その日、そこにいたのは、女性だった。


 年齢は分からない。若く見えるかもしれないし、疲れが影を作っているだけかもしれない。

 肩から掛けた布のバッグが、少し膨らんでいる。中に何が入っているのかは見えない。


 女性はベンチに座っていない。


 ベンチの手前、通路の端に寄って立っている。

 壁に触れるほど近いわけではない。人が通る邪魔にならない程度に、わずかに内側へ寄っている。


 彼女の手は、バッグの口を何度か触る。

 開けるわけでもなく、閉め直すわけでもなく、ただ、布の縁を指でなぞる。


 なにかを探しているようには見えない。


 待っているようにも見えない。


 けれど、そこにいる。


 そこにいる、という状態が、ここでは動作に見えない。


 通路を抜ける人の流れが、女性のそばだけ少しだけ薄くなる。

 誰も避けようと意識していないのに、自然に距離が生まれる。


 通り過ぎる靴音が、壁に当たって反響し、また消える。


 女性は、その音の中に溶けている。


 ——彼女は、さっきまで駅前のスーパーにいた。


 買い物袋を持ち、レジで会計を済ませ、袋を片手に、もう片手でスマホを見ながら歩いた。

 自宅へ向かう道は決まっている。

 帰るべき場所はある。


 それでも、なぜか彼女はこの通路を選んだ。


 選んだ、というほど意識的ではない。


 気づいたら、ここにいた。


 そして、気づいたら、立っていた。


 立っている時間が、ひとつ、ふたつ、数えられないまま過ぎる。


 時間が奪われているわけではない。


 ただ、時間が「余る」。


 余る時間をどう扱っていいか、身体が決められない。


 決められないまま、女性は立っている。


 買い物袋の取っ手が指に食い込み、痛みが遅れてくる。

 遅れてくる痛みは、今ここにいる理由とは結びつかない。


 理由は、ない。


 ないから、説明もない。


 女性は、ふっと息を吐き、歩き出した。


 歩き出す方向は、通路の出口。

 出口の向こうには、車通りの多い道があり、その先に自宅へ続く道がある。


 彼女の足は、確かに前へ向いた。


 けれど、数歩進んだところで、彼女は止まる。


 止まった理由は、足元に何かあったからではない。

 誰かが呼んだわけでもない。


 ただ、止まる。


 止まったあと、彼女は買い物袋を持ち替えた。


 右手から左手へ。


 それだけ。


 それだけの動作のあいだに、身体の向きが少し変わり、視線が通路の内側へ戻った。


 戻った視線の先には、ベンチ。


 ベンチの上には誰もいない。


 誰もいないのに、そこは「座られなかった」という形を残している。


 座られなかった。


 使われなかった。


 待たれなかった。


 それらは、物として残らない。


 けれど、場所には残る。


 女性は、もう一歩だけ出口へ向かい、また止まる。


 今度は、バッグの口に指を入れ、何かを探す。


 探したのは鍵かもしれない。


 探したのはレシートかもしれない。


 探したのは、探す必要のないものかもしれない。


 けれど彼女は、何も取り出さずに、指を引っ込めた。


 そして、くるりと回って、通路の中へ戻った。


 戻る。


 戻る必要のない場所へ。


 戻る理由のない場所へ。


 戻る、という動作だけが、そこに残る。


 ——モノカゲは、その通路を、荷物を肩にかけて通った。


 夕方の空は薄く曇り、ビルの影は長い。

 モノカゲのピンク色の制服は、影の中で少しだけ灰色を含む。


 彼女は歩く速度を変えない。


 ただ、通路の奥で、女性が戻ってくるのを見た。


 見た、というより、視界の端で「戻った」という流れを感じた。


 彼女の耳に声が届くわけではない。


 忘れ物に触れたときに浮かぶ断片とは違う。


 それは、もっと薄い。


 薄いのに、重い。


 薄い紙が何枚も重なって、指先に引っかかるような感触。


 モノカゲはその感触に、名前をつけない。


 つけた瞬間に、それは「何か」になってしまう。


 何かになったものは、いつか分類される。


 分類は、今の世界では、あまり意味を持たない。


 モノカゲは、女性の横を通った。


 女性は、モノカゲを見ない。


 見ないから、見られていない。


 すれ違った事実も、双方の中で形にならない。


 カゲマルは、モノカゲの少し後ろを歩いていた。


 黒と紫の体は影と同化し、壁の角に沿って移動する。


 彼は通路の「出口側」を気にしていた。


 出口。


 出ていくはずの方向。


 出ていかなかった方向。


 カゲマルは、出口の手前、影が一段濃くなる場所で立ち止まり、じっと動かない。


 中心ではなく、境界。


 人が決めるべきだった「次の一歩」が決まらず、宙に浮くところ。


 そこに、彼はいる。


 女性は、通路の内側へ戻ったあと、ベンチの前で立った。


 座らない。


 座らないまま、立ち尽くす。


 立ち尽くすという言葉が大げさなら、ただ、そこにいる。


 買い物袋が床に触れるほど垂れ、指が少し赤くなる。


 彼女は袋を床に置かない。


 置いたら、そこで「止まった」ことが確定してしまう気がする。


 確定させたくないわけでもない。


 ただ、置くという行為が、彼女の中で形にならない。


 ——通路の外、車道の音が強くなる。


 信号が変わり、車の流れが一度止まり、また動く。


 動く流れと、動かない場所。


 女性の身体は、動く流れの側へ向けられている。


 けれど足は、動かない場所の上に置かれている。


 置かれている。


 その言い方が、ここでは正しい。


 女性の足は「置かれている」から、次の一歩が決まらない。


 決まらないまま、時間が余る。


 余った時間は、誰にも拾われない。


 拾われないものは、溜まる。


 溜まったものが、場所を厚くする。


 厚くなった場所は、人の行動を少しだけ遅らせる。


 遅らせるというより、行動の輪郭をぼやかす。


 ぼやけた輪郭の中で、女性は一度だけ、目を閉じた。


 閉じたのは、眩しかったからかもしれない。


 閉じたのは、目の乾きを感じたからかもしれない。


 閉じたのは、閉じたかったからかもしれない。


 どれでもないかもしれない。


 そして目を開けたとき、彼女は出口へ向けて歩き出した。


 今度は止まらない。


 止まらない、はずだった。


 けれど出口の手前で、彼女はまた止まる。


 止まったのは、カゲマルがそこにいたからではない。


 カゲマルは、人の視界には入らない。


 入らないのに、影の濃さが、ほんのわずかに変わる。


 変わった影に足が触れた、と言うのは嘘になる。


 触れない。


 ただ、影の境目で、身体が次を決められなくなる。


 女性は、唇を少しだけ開き、何かを言いそうになる。


 言葉は出ない。


 出ないから、出なかった言葉がここに残る。


 残ったものは、誰にも拾われない。


 拾われないものは、溜まる。


 女性は、結局、通路の内側へ戻った。


 戻る。


 戻ることが、彼女の中で「したこと」にならない。


 したことにならないから、明日も同じことが起きる。


 ——翌日。


 女性はまた、スーパーで買い物をし、同じ通路に入った。


 彼女は自分が「同じ通路」を選んだ自覚を持たない。


 持たないまま、選ぶ。


 選んだまま、立ち止まる。


 立ち止まって、出ようとして、戻る。


 今日の戻り方は昨日と少し違う。


 昨日は袋を持ち替えた。


 今日は、髪を耳にかけた。


 それだけ。


 それだけの動作が、戻るきっかけになる。


 きっかけは理由ではない。


 理由にならない小さな動作が、戻る方向を作る。


 戻る方向が、繰り返される。


 繰り返される方向は、いつか「場所」になる。


 ——モノカゲは、その通路を何度か通った。


 彼女は女性のことを覚えようとしない。


 覚えないことが、距離になる。


 距離は冷たさではない。


 距離は、世界の余白を保つ。


 モノカゲができるのは、その余白を壊さずに通ることだけだ。


 通る。


 通るという行為が、ここではただの移動にならない。


 通路を通るたびに、足の裏の感触が少し変わる。


 同じコンクリートのはずなのに、踏むたびに厚みが違う。


 厚みは、物の厚みではない。


 そこに溜まった「処理されなかった状態」の層。


 モノカゲは、層の上を歩く。


 歩いても、層は崩れない。


 崩れないから、残る。


 カゲマルは、出口の影にいる。


 彼は、その場所の中心に近づかない。


 彼が寄るのは、出ていかなかった方向。


 出ていかなかった方向に、影が溜まる。


 影が溜まるから、人は戻る。


 戻るから、影はまた濃くなる。


 濃くなるのに、誰も気づかない。


 気づかないまま、日常は続く。


 ある日、女性は通路の中でスマホを取り出し、画面を見た。


 そこには、家族からのメッセージが表示されている。


 『遅いけど大丈夫?』


 文字は簡単だ。


 簡単なのに、女性の指は返信を打たない。


 打たないまま、画面を消す。


 消した理由はない。


 返信する必要がないわけではない。


 ただ、返信という行為が形にならない。


 形にならなかった行為が、ここに落ちる。


 落ちたものが拾われない。


 拾われないものが溜まる。


 溜まる。


 溜まることが、ここでは静かに進む。


 女性は、ようやく通路から出た。


 出た瞬間、空気の温度が少し変わる。


 車の音が急に近くなる。


 街の匂いが戻ってくる。


 戻ってくるのに、女性の足は一度だけ止まる。


 止まって、振り返りそうになる。


 振り返る、という行為が形になりかける。


 形になりかけて、ほどける。


 ほどけたまま、女性は前を向く。


 前を向いたまま、歩き出す。


 歩き出すことは、戻らないことの宣言にはならない。


 宣言にならないから、明日もまた同じ通路に入るかもしれない。


 かもしれない、という未来が宙に浮く。


 宙に浮いた未来は、誰にも引き取られない。


 引き取られないものが、今日もまた、どこかに溜まる。


 モノカゲは、通路の出口に立つカゲマルを見ない。


 見ないまま、彼がそこにいることを知る。


 知ることは、説明ではない。


 説明しないから、世界はそのまま残る。


 女性が去ったあとも、ベンチは座られない。


 座られないまま、ベンチは「待ち」を続けない。


 続けない。


 続けない状態が、ここに残る。


 残った状態は、やがて厚くなる。


 厚くなった場所の上で、人は立ち止まり、出ようとして、戻る。


 戻る必要のない場所だったのに、戻ってしまう場所になった。


 その変化を、誰も数えない。


 数えないから、終わりも始まりも言えない。


 ただ、そうなっていく。


 通路の影は今日も濃く、出口はいつもそこにある。


 あるのに、出ていかない方向が残る。


 残る。


 残ることが、忘れ物になる。


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