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忘れ物センター便り  作者: にめ


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忘れ物94 溜まりに近づく人

# 忘れ物94 溜まりに近づく人


 夕方の光は、物の輪郭を柔らかくして、道の端の余白を少しだけ広く見せる。


 商店街のはずれ、古い駐輪場の脇に、空き地がひとつある。

 いつから空き地なのか、誰も正確には言わない。二年前に取り壊された建物の跡だとも、最初から何も建っていなかった区画だとも、口にする人によって違う。


 ただ、そこはいつも「使われていない」。


 柵は低く、扉もない。雑草が伸びるほど放置されているわけでもない。地面は固められ、砂利が薄く敷かれている。真ん中に一本、細いポールが立っていて、何かの標識が付いていた名残だけがある。文字は剥がれ、金属の板は空っぽだ。


 空っぽなのに、そこは空き地のままだ。


 ……と、言えるほど、その場所のことを意識していた人は少ない。


 けれど最近、そこに「立ち止まる人」がいる。


 足を止める、と言っても、何かを探すわけではない。

 何かを待つわけでもない。

 携帯を落としたふうでもなく、誰かと話しているわけでもない。


 ただ、足が止まる。


 ほんの数秒のときもあれば、数分のときもある。

 通り過ぎるはずの帰り道で、買い物袋を持ったまま、仕事の鞄を下げたまま、立ったまま。


 誰もそれを不思議がらない。

 誰も話題にしない。


 その日も、ひとり。


 男は、駅から伸びる道を歩いてきて、商店街を抜け、いつもなら右へ折れる角で、なぜか少しだけ外側へふくらむように歩いた。


 革靴のかかとが、歩道と車道の境目を軽く叩く。

 白い息が出る季節ではないが、息は少しだけ浅い。


 仕事帰りの人の中に紛れるような服装だった。ジャケットに、少し皺のあるシャツ。ネクタイは結ばれていない。腕時計の文字盤に夕日が反射して、ほんの一瞬だけ光った。


 男は空き地の前で、足を止めた。


 止めた理由は、男の中にも、言葉になっていない。


 視線がどこかに向いているわけではなく、目は空き地の奥を見てもいない。街灯の点き始めた道路を眺めるでも、店の看板を見上げるでもなく、ただ、前方の高さを保ったまま、立っている。


 歩行者が後ろを通る。

 自転車が車道側を抜ける。

 子どもの笑い声が、遠くで弾む。


 男の足だけが、そこに置かれている。


 片方に体重が寄り、少し戻り、また寄る。

 肩がわずかに上下して、呼吸に合わせている。


 立ち止まるという行為が、ここでは「行為」に見えない。

 いつもそこに立っていたかのような、置物のような安定が、ほんの短い間にできてしまう。


 通りかかった誰かが、その男を避けるように、歩道の内側を通る。

 その人もまた、空き地の存在を認識していない。

 ただ、自然に少しだけ軌道を変える。


 空き地は、何もしていない。


 けれど、周囲の流れが、ほんの少しだけ形を変える。


 ——ここは、何もない。


 そう言い切れるほど、何もないことが珍しくなってきている。


 モノカゲは、その道を、荷物を肩にかけて歩いていた。

 ピンク色の制服は夕方の光を受けて淡く沈み、胸元のボタンに小さな影ができる。郵便職員のような帽子は被っていない。髪は短くまとめられ、揺れない。


 彼女は歩く速度を変えない。


 空き地の前で立ち止まっている男を、視界の端で捉えても、顔を上げたまま通る。


 ただ、ほんの少しだけ。


 足の裏から伝わる地面の固さが、いつもよりも均一に感じられた。


 いつもは、砂利の細かな凸凹が靴底に残る。舗装の継ぎ目の段差が、かすかに足首に響く。

 けれどその瞬間、継ぎ目も段差も、どこか遠くに退いた。


 その感じは、音ではない。

 匂いでもない。


 そういうことを、モノカゲは説明しない。


 彼女の中には、言葉になる前のものが、いつも少しだけ残る。


 忘れ物に触れたとき、耳に届くわけではないのに、何かの断片が浮かぶ。

 雨の粒の重さ。

 紙の端に残った指の湿り。

 夕焼けの中で見失った背中。


 そういうものが、今は「物」からではなく、場所のほうから、薄く立ち上がってくる。


 けれどそれは、強くない。


 強くないから、モノカゲは足を止めない。


 止めない、という選択をしたというよりも、止めるという行為が彼女の中で形にならなかった。


 ——立ち止まっている男は、動かない。


 モノカゲの横を、買い物袋を持った女性が通り、少し先で振り返る。

 振り返ったのは男を見たからではない。なぜ振り返ったのか、彼女にも分からない。

 けれど振り返ると、空き地の前に「人がいる」ことが視界に入る。


 女性は、一瞬だけ眉を上げる。

 次の瞬間には、肩をすくめるでもなく、普通に歩き出す。


 理由はない。


 理由がないのに、視線だけがそこを通る。


 カゲマルは、モノカゲの少し後ろ、影の薄い場所を歩いていた。

 黒と紫の体は、夕方の道路の色に溶ける。人の目には、そこにいると確信できない。


 彼は空き地の「真ん中」には近づかない。


 柵のない境界線をなぞるように、影が濃くなる端を歩き、標識ポールの影の先で立ち止まった。


 カゲマルの目は、光を反射しない。

 彼が何を見ているのかは分からない。


 けれど、その体の動きは、いつもと違った。


 尻尾が、わずかに揺れる。

 揺れ方は、獲物を狙うときのそれではない。嫌がるときの、避けるような揺れとも違う。


 「……」


 声は出ない。


 モノカゲは、カゲマルの立ち止まった位置を見ない。

 ただ、彼がそこに寄ったことを、足音ではない何かで知る。


 男はまだ立っている。


 彼の手は、鞄の取っ手を握っている。握り直すほど強くはない。指先の力が抜けきらないまま、形だけ残っている。


 空き地には何もない。


 けれど、何もないことが、ここでは「置かれている」みたいだった。


 空っぽの標識板は、誰も読めない。

 読めないから、誰も読まない。


 読まれなかったものは、読まれなかったまま残る。


 男が立ち止まっている間、誰も声をかけない。


 すれ違う人は、男の横を通るとき、ほんの少しだけ肩をすぼめる。

 誰かが狭い道で譲り合うときの動作に似ている。


 譲る相手がいるわけではない。


 譲るべき「何か」が、ないはずなのに。


 その空気だけが、そこにある。


 モノカゲは、歩道の内側を通って、空き地の前を過ぎる。


 過ぎるとき、胸の奥に、小さな引っかかりが残る。


 引っかかりは感情ではない。


 ただ、布の端が爪に触れたみたいな、形だけの違和感。


 彼女はそれを、言葉にしない。


 言葉にした瞬間、きっと「何か」になる。


 何かになったものは、いつか整理される。


 整理されることを、今の世界はあまり求めていない。


 ——男の中で、時間が少しだけずれる。


 腕時計を見たわけではない。

 ただ、立っている間に、周囲の音が遠くなり、近くなり、また遠くなる。


 車の走行音が、潮の満ち引きみたいに寄せては返す。


 男は一度だけ、瞬きをした。


 瞬きをしたとき、視界の端に、空き地のポールが映る。


 そこには、何も書かれていない。


 何も書かれていない板を見たとき、男はほんの少しだけ首を傾けた。


 傾けた角度は、質問の角度ではない。


 ただ、重心が片側に寄った結果、首が自然に傾いた。


 そして、男は歩き出した。


 歩き出すとき、足が軽くなるわけでも、重くなるわけでもない。

 歩き出すことが、立ち止まることの「終わり」になっていない。


 終わりになっていないのに、歩き出す。


 空き地は、そこに残る。


 男は角を曲がる。

 背中が、街の流れに溶ける。


 モノカゲは、曲がらない。


 彼女は違う方向へ進む。


 振り返らない。


 振り返るという行為もまた、何かを「確かめる」ことになるから。


 確かめない。


 確かめないまま、彼女は歩く。


 カゲマルは、空き地の縁から離れた。


 離れるとき、彼の体は一瞬だけ、影の濃さを変える。


 空き地の中へ入っていく人はいない。


 ただ、そこを通る人の流れが、少しだけ外側へふくらんだまま戻らない。


 道は変わっていない。


 標識板の文字も増えない。


 けれど、その場所を通る「形」が、ほんの少しだけ変わる。


 ——次の日。


 男はまた、その道を通った。


 今日も仕事帰り。昨日と同じ服ではない。けれど同じような色合いだ。鞄の重さも、昨日と変わらないだろう。


 角を曲がる手前で、男は少しだけ外へふくらむ。


 そして、空き地の前で足が止まる。


 止まる時間は昨日より短い。


 短いのに、止まった事実だけが残る。


 その事実は、男の中で「したこと」にならない。


 しなかったわけでもない。


 ただ、名前のない行為として、薄く積もる。


 ——さらに次の日。


 男は、空き地の前で止まったあと、鞄の取っ手を握り直した。


 握り直した理由はない。


 握り直したことで、何かが決まったわけでもない。


 けれど、その動作が、空き地の前で「起きた」ことだけが残る。


 空き地は、何も言わない。


 言わないから、誰も聞かない。


 モノカゲは、その場所を何度か遠くから見かけた。


 配達の経路が少し変わったわけではない。

 ただ、世界のほうが、彼女を同じ道に通す。


 通すというよりも、彼女が気づかないまま、そこを通っている。


 彼女は、その男の顔を覚えない。


 覚えないことが、彼女の優しさでも、冷たさでもない。


 ただ、そういうふうに世界が動いている。


 ある日、空き地の前で立ち止まっていたのは、男ではなく、学生だった。


 制服の袖を少しまくり、イヤホンを片方だけ耳に入れている。

 音が出ているのか出ていないのか、誰にも分からない。


 学生は空き地の前で立ち止まり、スマホを見て、すぐに歩き出した。


 何も落としていない。


 何も探していない。


 けれど、立ち止まった。


 立ち止まったことだけが、薄く残る。


 残ったものが、どこへ行くのか。


 モノカゲは、それを追わない。


 追わないまま、歩く。


 カゲマルは、空き地の縁に寄るたび、中心を避ける。


 中心は、何もない。


 何もないからこそ、中心は、いちばん「そのまま」でいられる。


 そのまま、という状態が、世界の中で少しずつ増えていく。


 増えることを、誰も数えない。


 数えないから、終わりが決まらない。


 夕方。


 空き地の前で、男が今日も止まっている。


 モノカゲは通り過ぎる。


 足の裏の均一な固さが、また一瞬だけ現れる。


 彼女の胸の奥に、布の端の引っかかりみたいなものが残る。


 それは、忘れ物の声ではない。


 声ではないのに、そこにある。


 カゲマルは影の縁に立ち、目を細める。


 空き地は、空のまま。


 けれど空のままの場所に、立ち止まる人がいる。


 理由なく。


 気づかないまま。


 そして、立ち止まったことが、誰にも拾われない。


 拾われないものが、溜まる。


 溜まったものが、世界の表面を少しだけ厚くする。


 厚くなった表面の上を、人が歩く。


 歩いて、時々、止まる。


 止まって、また歩く。


 ——それが、今日の街の普通になりかけている。


 モノカゲは振り返らない。


 振り返らないまま、制服の裾を揺らさずに歩く。


 カゲマルもまた、中心を避けたまま、影へと戻っていく。


 空き地には、何も起きない。


 何も起きなかった場所だからこそ、何かが溜まり始めている。


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