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忘れ物センター便り  作者: にめ


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忘れ物85 そこにあった場所

# 忘れ物85 そこにあった場所


その場所は、説明されることなく、そこにあった。


駅から少し離れた通り沿い。商店街と住宅地の境目に近く、人の流れは一定している。朝は通勤や通学の人が通り、昼は買い物袋を提げた人が歩き、夕方になると仕事を終えた人たちが足早に帰路につく。誰かが意識的に選ばなくても、自然に人が通る場所だった。


その場所は、通路の端にある。壁と壁の間に、ほんのわずかな凹みがあり、立ち止まろうと思えば立ち止まれる幅がある。腰を下ろすこともできなくはないが、ベンチが置かれているわけではない。立ち止まる理由も、立ち止まらない理由も、どちらも存在しない。


人は、そこを通る。


正確には、そこを避けるように通る。


避けているという自覚はない。通路の中央を歩き、自然と流れに乗る。その結果として、その凹みの前だけ、足跡が重ならない。誰も指摘しない。誰も気に留めない。


朝、最初に通ったのは、スーツ姿の人だった。


足取りは一定で、視線は前に向いている。スマートフォンを操作することもなく、イヤホンもしていない。通路の端に空間があることを、視界の端で捉えてはいるはずだが、立ち止まることはない。歩幅がわずかに狭くなり、通路の中央寄りをすり抜けていく。


その後に続く人たちも、同じように通り過ぎる。


通らなかったのではない。通り過ぎた。


そこに留まらなかっただけだ。


―――


朝のうち、通路の端には小さな変化が起きる。


新聞配達の自転車が一度だけ横切り、タイヤの細い跡が濡れた地面に薄く残る。跡は通路の中央に寄り、凹みの中には入らない。入ろうと思えば入れるのに、入らない。自転車が避けたのではなく、自然な曲線がそうした。


凹みの内側には、落ち葉が一枚だけ留まっていた。夜の風で運ばれたものだろう。葉は乾いていて軽い。人が通れば靴底で巻き上がって、別の場所へ動くはずだ。けれど凹みの中には人が入らないので、葉はそのまま残る。


残る、という言い方も正確ではない。


動かされなかった。


動かされなかったから、まだそこにある。


誰かが見て、拾うわけでもない。掃除の人が来て、気づくわけでもない。気づかれなかったまま、葉は凹みの中の影に沿って横たわる。


―――


昼になると、周囲の音が変わる。


近くの店から流れる音楽が大きくなり、遠くの工事音が混じる。会話の断片が通路に落ち、すぐに消える。足音の数が増え、速度が少し遅くなる。


買い物袋を持った人が通る。


袋は少し重そうで、腕の位置が下がっている。少し休みたいと思う余地はある。けれど、その余地は言葉にならない。凹みの前を通るとき、袋を持ち替えることはあっても、足は止まらない。持ち替える動作が、立ち止まらなかったことを上書きする。


凹みの中は、空のままだ。


誰も座らない。誰も荷物を置かない。落とし物もない。ゴミも落ちていない。清掃が行き届いているわけではない。置かれなかっただけだ。


通路の中央は、靴底の擦れた跡が重なっている。


その凹みの中には、跡がない。


凹みの手前で、人の流れがほんの少しだけ膨らむ。膨らんだ分だけ、通路の中央の線が濃くなる。濃くなった線の外側に、凹みは取り残される。


取り残される、というのも少し違う。


最初から、そこは列に入っていなかった。


―――


午後になると、光の入り方が変わる。


建物の影が伸び、通路の端に濃い影が落ちる。その影は、凹みの奥まで入り込む。影の中に入れば、少しだけ人の流れから外れることができる。


それでも、誰も入らない。


理由はない。


危険でも、不便でも、汚れているわけでもない。風通しも悪くない。むしろ、少しだけ静かだ。


静かすぎる、ということもない。


それでも、人は通り過ぎる。


視線が、凹みの奥まで届かないわけではない。届くが、落ちない。視線は前方に向けられ、次の曲がり角や信号の方へと流れていく。


凹みは、視線の外縁に置かれたままだ。


午後の光は、凹みの内側の壁にだけ少しだけ反射する。白い壁に薄い明るさが乗る。乗って、すぐに消える。そこに立つ人がいれば、反射は顔に当たるかもしれない。けれど誰も立たない。


反射は当たらずに終わり、壁だけが明るくなって、また元に戻る。


―――


時間が進むにつれて、その場所は少しずつ性質を持ち始める。


誰も使わなかった、という性質。


それは目に見えない。触ることもできない。測ることもできない。けれど、確かに積み重なっていく。


立たなかった向き。


腰を下ろさなかった高さ。


足を向けなかった角度。


それらが重なり、凹みの中に、見えない層ができる。


層は、物ではない。空気とも違う。そこに「何も起きなかった」という履歴だけが、薄く残る。


履歴は、紙に書けない。


数字にもならない。


けれど、通路の空気がそれを覚える。空気が覚える、というのも違う。空気が覚えたように、人の体が反応する。


凹みの前に差しかかると、歩幅がほんの少し変わる。


変えようとして変えているのではない。


変わってしまう。


肩の位置がわずかに内側へ寄る。視線がほんの少しだけ前方へ固定される。会話が途切れる人もいる。途切れたあと、同じ話題を続ける人もいる。続ける人も、途切れたことを意識しない。


―――


夕方、通路の人の流れが再び早くなる。


仕事を終えた人たちが、少し疲れた足取りで通る。スマートフォンを見る人が増え、会話の声が短くなる。帰宅を急ぐ気配が通路全体を覆う。


その中でも、凹みは使われない。


一度だけ、立ち止まりかけた人がいた。


靴紐が緩んでいることに気づき、足元を見た人だ。視線は下に落ち、凹みの存在を認識したはずだった。けれど、その人は凹みの中に入らず、通路の中央でしゃがみ、靴紐を結び直した。


凹みの影が、しゃがんだ体の形に合わせて少しだけ変形する。影は変形するが、凹みに人は入らない。入らないことで、影は元に戻る。


立ち上がり、何事もなかったように歩き出す。


凹みは、そのままだ。


使われなかったことが、更新される。


更新される、という言い方も少し強い。


使われなかった回数が、また一つ増えただけだ。


増えた回数は、数えられない。


―――


夕方の終わり、店のシャッターが降りる音が聞こえる。


金属のこすれる音が通路を滑り、凹みの前で少しだけ鈍くなる。凹みの内側の壁が音を吸うのか、吸わないのかは分からない。ただ、音はそこで少しだけ形を変えて、消える。


消えたことも、誰も気にしない。


―――


夜になると、人通りが減る。


街灯が点き、通路の明るさが一定になる。凹みの中にも光は届く。暗くて見えないわけではない。


それでも、誰も入らない。


入らなかった回数が、数えられないほど重なる。


数えられないということは、区切れないということだ。


区切れないまま、その場所は、ただの空間ではなくなる。


何も起きなかった場所。


誰も使わなかった場所。


それが、その場所の性質になる。


夜の通路は、昼よりも広く感じる。人がいないからだ。人がいない分、凹みの存在が目につくはずなのに、目につかない。目につかないのではない。目は通る。けれど足は向かない。


足が向かないことが、もう決まりのようになる。


決まりは誰も作っていない。


作っていないのに、そこにある。


―――


夜更け、通路には誰もいない。


遠くを車が通り過ぎ、音だけが一度響く。凹みの中の影が、わずかに揺れて、元に戻る。


その揺れを、誰も見ていない。


見られなかったことも、また積み重なる。


凹みの中の落ち葉は、まだ残っていた。昼間に動くはずだったものが、動かずにいる。動かずにいることが、そこにある。


風が通り、葉の端が少しだけ持ち上がる。


持ち上がって、落ちる。


落ちた場所は、ほとんど同じだ。


凹みは、そこにあった。


何も起きなかった場所として。


使われなかったという履歴を、静かに持ったまま。


―――


夜が深くなるにつれて、通路の音はさらに減っていく。


遠くの交差点で信号が切り替わる電子音が、遅れて届く。届いた音は、凹みの前でわずかに弱まり、そのまま通路の奥へ抜けていく。凹みは音を留めない。ただ、通り過ぎる音の速度だけを、ほんの少し変える。


風向きが変わる。


昼間は通路の中央を抜けていた風が、夜になると壁際をなぞるように流れる。その流れは凹みの中にも入り込み、溜まっていた落ち葉をわずかに揺らす。葉は舞い上がらず、角度を変えるだけで、再び床に落ちる。位置は変わらない。


変わらないことが、ここでは自然になっている。


―――


翌朝。


通路はまた、人を迎える準備をする。


準備といっても、何かが整えられるわけではない。夜の間に積もったものが、片付けられるわけでもない。ただ、光の向きが変わり、影の位置が動く。それだけで、朝になる。


凹みの中の影は短くなり、壁の白さが目立つようになる。壁に残った小さな擦れ跡や、塗装のわずかな剥がれが、朝の光ではっきりと見える。誰かが触れた跡ではない。長い時間の中で、触れられなかった結果として残った跡だ。


最初の通行人が現れる。


昨日と同じように、通路の中央を歩く。歩きながら、視線は前に向いている。凹みは視界の端に入り、すぐに外れる。足は止まらない。


昨日と同じ動きが、今日も繰り返される。


繰り返されることで、凹みの性質はさらに定着する。


―――


昼前、通路の掃除が入ることがあった。


清掃用の道具を持った人が、通路の端から端へと歩く。箒が床をなぞり、ゴミを集める音が一定のリズムで続く。


凹みの前で、その人は一瞬だけ動きを変える。


凹みの中にも箒を入れようと思えば入れられる。けれど、箒は自然と通路の中央を掃き、そのまま先へ進む。凹みの中の落ち葉は、箒の先に触れない。


触れなかったことで、落ち葉は残る。


残ったことで、凹みはまた一つ、使われなかった履歴を増やす。


清掃が終わり、人の流れが戻る。誰も、凹みの中に落ち葉が残っていることを指摘しない。指摘されなかったことも、履歴になる。


―――


午後、雨が降り始める。


小雨だ。通路の屋根に当たる雨音が、均一な音を作る。水滴が地面に落ち、濡れた床が光を反射する。


凹みの中にも雨は入り込む。床に薄い水の膜ができ、落ち葉の周囲に小さな輪が広がる。水は溜まらない。傾斜が緩やかに外へ向いているからだ。


水が溜まらないことで、凹みは避けられる理由を持たない。


それでも、人は入らない。


濡れた床を避けるために、通路の中央を歩く人が増える。結果として、凹みからはさらに距離が取られる。


距離が取られた分だけ、凹みは静かになる。


―――


夕方、雨が止む。


床に残った水が、少しずつ乾いていく。凹みの中の水も同じように消えていく。消えたあと、床にはわずかな跡が残る。水があったことを示す跡だ。


その跡も、誰も見ない。


見られないまま、跡は薄れ、やがて分からなくなる。


分からなくなったことで、凹みは元に戻る。


元に戻る、というより、変わらなかった状態を保つ。


―――


夜。


通路は再び静かになる。


人がいなくなり、音が減り、影が長くなる。凹みは、昼よりもはっきりとそこにあるはずなのに、やはり目につかない。


目につかないまま、時間だけが過ぎる。


時間が過ぎることで、凹みは場所として確定していく。


使われなかった場所。


何も起きなかった場所。


誰も選ばなかった場所。


それらの性質が重なり、凹みはただの凹みではなくなる。


―――


夜更け、通路には再び誰もいない。


風が通り、落ち葉がわずかに音を立てる。その音は小さく、すぐに消える。消えたあと、凹みの中には、音があったという痕跡だけが残る。


痕跡は見えない。


けれど、そこにある。


凹みは、今日も使われなかった。


昨日と同じように。


明日も、同じである保証はない。それでも、この日までは、確かにそうだった。


何も起きなかった場所として。


使われなかったという履歴を、さらに重ねたまま。


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