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忘れ物センター便り  作者: にめ


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忘れ物86 しなかったこと

# 忘れ物86 しなかったこと


朝は、ほとんど音を立てずに始まった。


目覚まし時計が鳴り、止められる。止められる音は短く、部屋の空気に溶ける。カーテンの隙間から入る光は、昨日と同じ角度だ。天気予報を確認するほどの変化はない。


起き上がり、洗面所へ向かう。蛇口をひねる。水が出る。止める。歯ブラシを口に入れ、いつもの時間だけ動かす。鏡に映る顔は、特別な表情をしていない。確認する理由もない。


台所で湯を沸かす。湯が沸くまでの時間に、スマートフォンを手に取る。画面は暗いままだ。指が画面に触れる。触れて、離れる。


通知は来ていない。


来ていないことを、残念とも安心とも思わない。


湯が沸き、マグカップに注ぐ。注いだ量はいつもと同じだ。多くも少なくもない。テーブルの上に置き、椅子に座る。


座ったあと、一瞬だけ、スマートフォンに視線が戻る。


戻って、止まる。


指は画面に触れない。


―――


その人物は、誰かに連絡を取ろうとしていた。


そう言い切るための証拠はない。画面は暗く、履歴も残らない。連絡先を開いたわけでもない。ただ、指が画面に触れかけた、その一瞬があった。


触れなかった。


触れなかったことで、何かが変わるわけではない。朝の支度は続く。カップの中の飲み物は少しずつ減る。時間は進む。


立ち上がり、食器を流しに置く。洗うのは帰ってからだ。今日は急ぐ理由があるわけでもないが、早く出たい気がする。理由はない。


玄関で靴を履く。靴紐を結ぶ。結び目は一度で整う。結び直す必要はない。


ドアを開ける。


外の空気は少し冷たい。冷たいが、気になるほどではない。階段を下り、建物の外へ出る。


―――


通勤の道は、いつも通りだ。


信号で止まり、青になると進む。横断歩道の白線を踏み、渡り切る。途中で立ち止まる人はいない。流れは途切れない。


ポケットの中で、スマートフォンが重さを持つ。


重さはいつもと同じだ。


それでも、歩きながら、手がポケットの中へ入りかける。


入りかけて、止まる。


手はポケットの外に戻る。


戻ったことで、歩幅がわずかに変わる。変わるが、誰も気づかない。気づかれないまま、流れに戻る。


―――


昼。


机に座り、作業をする。書類を確認し、必要な箇所に印をつける。印は正確で、迷いはない。昼休みの時間になり、立ち上がる。


昼食は、決めていなかった。


決めていなかったが、選択肢は自然に絞られる。近くの店。いつもの席。注文も同じだ。


席に座ったとき、向かいの椅子が空いている。


空いていることに、意味はない。


誰かが来る予定もない。


それでも、その椅子に視線が一度だけ向く。


向いて、戻る。


―――


午後。


作業は続く。メールを確認する。新しいメールはある。返信が必要なものもある。返信をする。送信する。


送信しないメールが、一通だけ残る。


残った理由はない。


後で送るわけでもない。


消すわけでもない。


ただ、送られなかった。


画面を閉じる。


閉じたことで、未送信のままの状態は画面の外へ出る。出たものは、見えなくなる。


―――


夕方。


仕事を終え、席を立つ。片付けをする。机の上は整う。整えなかったものはない。


整った机の中で、一つだけ使われなかったものがある。


引き出しの中の、古いメモ帳だ。


使われなかった理由はない。必要な場面がなかったわけでもない。ただ、今日、それを開かなかった。


閉じたままの表紙が、引き出しの中で動かない。


―――


帰り道。


駅のホームで電車を待つ。到着を知らせる音が鳴る。電車が来る。乗る。ドアの近くに立つ。


つり革が空いている。


掴もうと思えば掴める。


掴まない。


体は揺れに合わせて自然にバランスを取る。取れることを、特別だとは思わない。


―――


夜。


帰宅し、靴を脱ぐ。部屋に入る。照明をつける。鞄を置く。


キッチンで簡単な食事を用意する。包丁を使い、まな板を使う。使わなかった調味料が一つある。使う予定はなかったが、棚から出されることもなかった。


食事を終え、片付けをする。テレビをつける。音量は低い。内容は頭に残らない。


スマートフォンを手に取る。


画面を開く。


何かをしようとしていた気がする。


気がするだけで、何をするつもりだったのかは分からない。


分からないまま、画面を閉じる。


閉じたことで、その気配も一緒に閉じられる。


―――


風呂に入り、体を拭き、寝室へ向かう。


ベッドに横になり、照明を消す。


暗くなる。


暗くなったあと、天井を見上げる。


何かを考えるほどの余白はない。


目を閉じる。


―――


その日、一つだけ起きなかったことがある。


それは、記録されない。


思い出されない。


後悔もされない。


ただ、行われなかった。


行われなかったという事実だけが、どこにも行かずに残る。


―――


翌朝、目覚ましはまた鳴る。


昨日と同じ音で、同じ時間に。


昨日起きなかったことが、今日に影響を与えることはない。


それでも、起きなかったことは、消えない。


それは出来事ではなく、空いたままの場所のように、世界のどこかに留まる。


その日は、

起きなかったことだけが、

どこにも行かなかった。


―――


朝の始まりには、もう一つ、触れられなかったものがあった。


湯を沸かす間に、流しの端に置かれたスポンジが目に入る。前の晩に軽く洗った形のまま、少しだけ水を含んでいる。握れば、まだ冷たい水が落ちるはずだ。


握らない。


握らないことは、怠けではない。必要がないわけでもない。ただ、握らなかった。スポンジはそこにあり、水はそこにあり、手はそこにあるのに、行為だけが成立しない。


成立しない行為は、音も立てない。


音が立たないことで、朝はさらに静かになる。


―――


通勤の途中、駅前の小さな売店の前を通る。


ここでは、いつも何かが売られている。新聞、雑誌、飴、ペン。季節の変わり目には、棚の端に小さな手袋や、折りたたみ傘が並ぶこともある。


その人物は、一瞬だけ、売店の棚に視線を落とす。


落として、戻す。


買わない。


買わないことは、節約でも計画でもない。買う理由がないのか、買わない理由がないのか、区別できない。区別できないまま、体は通り過ぎる。


通り過ぎた後、売店の前の床にだけ、少しだけ余白が残る。余白は誰にも見えない。


―――


会社に着き、エレベーターを待つ。


ボタンの前に立ち、指が伸びる。


伸びるが、押さない。


すでに誰かが押していたのかもしれない。押していないのかもしれない。表示は点いている。点いているという結果だけがあり、押したという行為はここには残っていない。


押されなかったかもしれないボタン。


押さなかった指。


エレベーターは来る。


来ることで、押す必要はなかったことになる。必要がなかったことになれば、押さなかったことは出来事にならない。


出来事にならないまま、未遂だけが薄く残る。


―――


午前中、机の上で、ペンが一度だけ転がる。


転がったペンを止めるために、手が伸びる。


伸びて、触れない。


ペンは机の端で止まり、落ちない。落ちないことで、触れなかったことは意味を持たない。


意味を持たない触れなさが、今日を作る。


―――


昼休み、店に入るとき、ドアを押さえようとする。


後ろに人がいる気配がする。気配がするだけで、確認はしない。確認しないまま、手はドアに触れかける。


触れない。


触れないまま、ドアは閉まる。


閉まった音は普通の音だ。普通の音の中に、押さえなかったという行為だけが混じる。


混じって、すぐに分からなくなる。


分からなくなることで、押さえなかったことは誰にも届かない。


―――


午後、未送信のメールが残る。


残ったことを、その人物は確認しない。確認しなかったことで、未送信は未送信のまま、机の上の空気に溶ける。


溶けたものは、画面を閉じても消えない。


消えないが、見えない。


見えないものは、指摘できない。


―――


夕方、帰り支度をするとき、引き出しの中の古いメモ帳の角が、指先に触れる。


触れるだけだ。


開かない。


開かないことで、そこに書かれるはずだった言葉は発生しない。


発生しない言葉は、語りにもならない。


語りにならないまま、今日の中に欠けが増える。


欠けは、欠けとして認識されない。


―――


帰りの電車の中で、つり革を掴まなかった手は、別の場所に行く。


スマートフォンの画面の上。


画面を開き、閉じる。


開いた瞬間、何かを書こうとした気配がある。


気配があるだけで、文字は入力されない。


入力されないまま、画面が閉じられる。


閉じた画面の黒さが、未入力を飲み込む。


―――


夜、食事の後。


流しの中に、朝のカップが残っている。


洗うつもりで水を出し、止める。


泡立てようとして、止める。


止めた手は、布巾を取る。


布巾で台を拭く。


拭いたことで、洗わなかったことが上書きされる。


上書きされたものは、表面から消える。


消えたものは、どこかに残る。


―――


照明を消して、暗くなる。


暗い中で、体は今日を終える。


終えたように見える。


けれど、終わっていない。


終わっていないのは、やり残したことではない。


やり残した、という言葉にする前の、

やらなかった、という形のままのもの。


それが、今日の中に残っている。


翌朝、目覚ましはまた鳴る。


同じ音で、同じ時間に。


昨日起きなかったことが、今日に影響を与えることはない。


それでも、起きなかったことは、消えない。


出来事ではなく、空いたままの場所のように、世界のどこかに留まる。


その日は、

起きなかったことだけが、

どこにも行かなかった。


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