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忘れ物センター便り  作者: にめ


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忘れ物75 言われなかった行き先

# 忘れ物75 言われなかった行き先


朝、湯を沸かす前に、蛇口の音を一度聞いた。


聞いた、というより、耳が先にそれを拾った。


水が管を通って動く音は、まだ眠っている家の中でいちばんはっきりしている。


私はいつも通り、やかんを出した。


いつも通りという言葉は便利で、手の動きの方が先にその意味を知っている。


やかんの底を指でなぞる。


昨日の火の跡が、まだほんの少し残っている。


それを確かめてから、水を入れる。


入れる量は決まっているはずなのに、今日は一瞬だけ迷った。


目盛りを見るほどのことではない。


ただ、注ぎ口から落ちる水の重さが、いつもより少し軽い気がした。


軽い気がしただけで、何が変わったのかは分からない。


分からないまま、コンロにかける。


火をつける。


青い炎がつく。


その色は毎日同じなのに、今日だけ一拍遅れて見えた。


遅れたのは炎ではなく、私の方だ。


私は台所の棚からカップを二つ出そうとして、手を止めた。


止めた理由は、数えたからではない。


数えるという意識が入る前に、手の届く位置にあるカップが、今日は一つだけだった。


一つだけだった、というより、もう一つは奥に押しやられていた。


昨日誰かがそうしたのか。


私がそうしたのか。


どちらでもよかった。


よかったという言い方も違う。


ただ、それがそこにある。


それだけ。


私は手前のカップを洗い、棚の上に置いた。


置いたとき、カップの底が木に当たる音がした。


その音が、何かの合図みたいに聞こえた。


合図だと思ったのは私の癖かもしれない。


合図が必要な暮らしをしてきた覚えはない。


けれど、合図の形は残る。


音にならない合図もある。


たとえば、誰かが靴を履くときの床の沈み方。


あるいは、玄関の鍵が回る前の、指が金属に触れる一瞬。


今日は、それがなかった。


なかったことを、私は確認しない。


確認しないまま、いつも通りの朝を進める。


進める、というより、朝は勝手に進む。


冷蔵庫を開ける。


卵がある。


野菜がある。


牛乳が、少しだけ残っている。


少しだけ残っている量を見て、私は、足りるかどうかを考えた。


足りるというのも曖昧だ。


何に足りるか。


誰の分に足りるか。


その問いを、私は最後まで作らない。


作らないまま、牛乳をコップに注ぐ。


コップは一つ。


注いだ量はいつもより少し多い。


多い気がしただけで、溢れはしない。


やかんが鳴る前に、私は窓を少し開けた。


冬の始まりの空気が入ってくる。


冷たい。


冷たいけれど、拒むほどではない。


この冷たさは、部屋に入ることで角が取れる。


角が取れて、ただの「外」になる。


私は、玄関の方を見た。


玄関は閉まっている。


靴は揃っている。


揃っているというより、揃えられた形がそのまま残っている。


足の向きをそろえると、誰かが出ていくことを想像してしまう。


想像したくないわけではない。


ただ、想像が必要なほど、理由を持っていない。


今日の私は、ただ朝を作る。


やかんが鳴った。


私は火を止め、湯気が立つのを見た。


湯気は上に上がって消える。


消えるとき、いつもなら誰かの声が入る場所に、今日は何も入らなかった。


声が入る場所、というのも私が勝手に決めている。


決めているというより、場所が勝手に持っている。


家の中には、いつもそういう空白がある。


空白は、何かが入るためにあるのではなく、空白として保たれている。


保たれている空白に、今日は変な形ができていた。


変な形、と言ってしまうと説明になってしまう。


説明をする気はない。


ただ、空白が、少しだけ広い。


広い分だけ、手の届く範囲が曖昧になる。


私は朝食を簡単に済ませ、食器を洗った。


洗って、乾かす。


乾かす場所に、もう一枚の布巾をかけようとして、やめた。


やめた理由はない。


理由がないまま、布巾は棚に戻した。


棚に戻すと、布巾が少しだけずれた。


ずれた布巾の端が、どこかへ向かう矢印みたいに見えた。


矢印に見えたのは私の目の癖だ。


癖は、日常を勝手に意味づける。


意味づけるほどの出来事がないときほど、癖は動く。


私は上着を羽織り、買い物に出ることにした。


買い物に出るのは予定だったかどうか分からない。


予定表は見ない。


予定表を見るほど、何かが決まっているわけではない。


財布と鍵を手に取る。


鍵は、いつもより少し冷たかった。


冷たいのは金属だからだ。


それだけなのに、今日はその冷たさがよく分かった。


玄関で靴を履く。


靴の紐を結び終わったとき、私は「行ってきます」と言いかけた。


言いかけて、言わなかった。


言わなかったことは、特別な選択ではない。


言う必要がないだけだ。


必要がない、というより、言葉が行き先を持っていない。


行き先。


その言葉が、口の奥で転がった。


転がったけれど、外に出なかった。


私は扉を開け、外へ出た。


扉が閉まる音は、家の中に何かを残していく。


残していくのは静けさかもしれない。


あるいは、戻る場所の形。


私は歩き始めた。


道はいつも通りだった。


駅へ向かう人。


犬の散歩。


自転車。


コンビニの前で立ち止まる高校生。


日常は、日常として動いている。


それを誰かが支えているようには見えない。


支えていないわけでもない。


ただ、勝手に動く。


勝手に動くことが、最近は当たり前になってきた。


私はスーパーに入った。


入口の自動ドアが開く。


開く音は軽い。


開くとき、風が少しだけ背中を押した。


押された気がして、私は一歩だけ速く歩いた。


速く歩いた理由はない。


理由がない動きは、誰にも見つからない。


私は牛乳の棚の前で立ち止まった。


いつもの牛乳を手に取る。


いつもの、という言葉がここでも出てくる。


いつもの牛乳は、ただの牛乳だ。


けれど、いつものという言葉が付くと、誰かの顔が浮かびそうになる。


浮かびそうになって、浮かばない。


私は隣の棚のヨーグルトを見た。


買うかどうか迷う。


迷ったとき、いつもなら「いる?」と聞く相手がいた気がした。


いた気がしただけで、現実にはいない。


いないという言い方も、強すぎる。


今日は、聞かない。


聞かないまま、私はヨーグルトを一つだけカゴに入れた。


レジへ向かう途中、知っている店員が声をかけた。


「いつものですか」


私は頷いた。


頷きながら、別の言葉が喉元まで上がった。


「今日は——」


その続きを、私は作れなかった。


続きを作らないまま、会計を済ませる。


店員は袋を渡し、私は受け取る。


受け取るときの手の位置が、いつもより少し高かった。


高かったのは、私の持ち方の問題だ。


それだけなのに、手がどこへ向かっているのかを意識した。


向かう。


向かうという行為が、今日はずっと薄い。


帰り道、私は一度だけ、角を曲がりかけた。


曲がりかけて、止まった。


止まった先の道は、駅の方へ続いている。


駅の方へ続く道を、私は少しだけ見た。


見ただけで、そこへ行くとは決めない。


決めないのに、足の裏がその方向の形を覚えている。


覚えている形は、昔の繰り返しでできたものだ。


繰り返し。


繰り返しは、理由を必要としない。


私は、曲がらずに家へ戻る道を選んだ。


選んだと言えるほどの選択ではない。


ただ、そうした。


家に戻ると、玄関の空気が朝のままだった。


暖房は消していない。


それでも、空気には人の動きが少ない。


少ないというのも曖昧だ。


私は買ったものを台所に置いた。


置く場所は決まっているはずなのに、袋を置いたとき、私は少しだけ左にずらした。


左にずらしたことで、右側に小さな空間ができた。


空間は、何かが置かれるためのものではない。


空間は、空間として残る。


残った空間を見て、私は鍋を出そうとして、やめた。


やめた理由は分からない。


分からないまま、昼食は簡単なものにした。


食べ終わった皿を洗い、干す。


干す棚に皿を置くとき、私はもう一枚、皿を出しそうになった。


出しそうになって、出さなかった。


出さなかったことが、家の中に小さく残る。


残るが、記録されない。


記録しないことが、最近の暮らしの基本になっている。


午後、郵便受けを見に行った。


広告が一枚。


手紙はない。


手紙がないことを、私は確かめない。


確かめないまま、広告を捨てる。


捨てるとき、紙が箱の中で擦れた。


その音が、朝のやかんの音と似ていた。


似ていたからといって、意味があるわけではない。


意味があるかどうかを決める人がいない。


決めないまま、音だけが残る。


私はリビングの椅子に座った。


椅子は二脚ある。


二脚あることは昔から変わらない。


変わらないのに、今日は一脚が少しだけ離れている。


離れているのは誰が動かしたのか。


私かもしれない。


誰かかもしれない。


分からないまま、離れた距離がそのまま保たれている。


保たれている距離を、私は元に戻さなかった。


戻す必要がない。


必要がない、という言い方も違う。


戻さないままで成立している。


成立しているのに、成立の印は押されない。


夕方、鍋を火にかけた。


鍋の中で湯が温まる。


野菜を切る。


切った野菜の量が、いつもより少ない気がした。


少ない気がしただけで、足りないわけではない。


足りない、という判断も、今日はしない。


私は味噌を溶き、匂いを確かめた。


匂いはいつも通り。


いつも通りの匂いが、今日は少しだけ遠い。


遠いのは匂いではなく、私の中の受け取り方だ。


食卓に皿を並べる。


並べる皿は二枚出しそうになって、一枚だけ出した。


一枚だけ出すと、テーブルの端に空きができる。


空きは、何かを置くために生まれたわけではない。


ただ、生まれる。


私は箸を一本置いた。


置いた箸の向きを揃えようとして、やめた。


やめたのは、揃えなくていいと思ったからではない。


ただ、揃える動作が、今日の空気に合わなかった。


合う、合わない。


そんな評価をしないつもりでも、手が先に知っている。


食事をする。


テレビは点けない。


点けないのが習慣だったのかどうかも分からない。


食べている間、私は一度だけ、耳を澄ませた。


廊下の方から、床がきしむ音がしないか。


玄関で鍵が回る音がしないか。


しない。


しないことを、私は数えない。


食べ終わり、片付ける。


洗い物が終わったとき、私はスマートフォンを手に取った。


画面を点ける。


通知は特にない。


私はメッセージアプリを開き、文字を打ち始めた。


「今日」


その次に続く言葉が出なかった。


「どこにいる」ではない。


「いつ帰る」でもない。


そういう言葉は、行き先を指定しすぎる。


指定しすぎると、こちらが何かを決めることになる。


決めることが、今は必要ではない。


私は文字を消し、「気をつけて」と打った。


「気をつけて」は、どこへ行くかを必要としない。


行き先を言わないまま、届く言葉。


私は送信ボタンの上で指を止めた。


止めたまま、画面を見た。


見ている間、指の下のガラスが少し温かくなった。


温かくなったのは体温のせいだ。


それだけ。


私は送らずに、画面を閉じた。


閉じたことにも理由はない。


理由がないまま、送られなかった言葉がスマートフォンの中に残った。


残ったが、保存はしない。


保存しないまま、夜になる。


夜になったので、灯りを落とす。


灯りを落とすと、部屋の角が少しだけ濃くなる。


濃くなった角に、椅子の影が伸びる。


影は二つ。


椅子が二脚あるから。


二脚あることに、意味を付けない。


私は歯を磨き、寝室へ向かった。


寝室のドアを閉める前に、私は玄関の方を見た。


見た理由はない。


理由がない視線は、場所を確かめるだけになる。


玄関は静かだった。


静かであることが、今日の一日の終わりの形になる。


私はドアを閉めた。


布団に入る。


布団の中の温度が、少しだけ遅れて追いついてくる。


追いつく温度を待っている間、私は口の中で言葉を転がした。


「行ってらっしゃい」


その言葉は、誰かを外へ送り出すための言葉だ。


送り出す相手がいないなら、言う必要はない。


私は言わなかった。


言わないまま、言葉だけが口の奥に残った。


残った言葉は、どこへも行かない。


どこへも行かないのに、足元だけが、行き先の形を覚えている。


玄関で揃えられた靴の向き。


角を曲がりかけたときの体重の移り方。


駅へ続く道を見たときの、膝のゆるみ。


それらは、どこへ行くのかを言わないまま、行き先を作る。


作るが、完成しない。


完成しないまま、明日の朝も湯を沸かすのだろう。


私はそう思った。


思ったが、確かめない。


確かめないまま、目を閉じる。


目を閉じたあとも、家は静かに続く。


誰かがいなくても、という言い方も違う。


ただ、続く。


そして、その続き方の中に、言われなかった行き先が、薄く残っている。


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