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忘れ物センター便り  作者: にめ


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忘れ物76 そういう場所があるらしい

# 忘れ物76 そういう場所があるらしい


窓の外で、雨がやむ音がした。


雨がやむ音、というのは正確ではない。


雨そのものは音を立てていたのに、やむときは音が減っていくだけで、終わりを告げる合図はない。


それでも、人は「やんだ」と言う。


言って、次の話題に移る。


移ることに誰も疑問を持たない。


店の奥の席は、壁に寄せられたテーブルが二つ並んでいて、そのうちの一つに私たちは座っていた。


私、という言い方をしてしまうと、誰の話なのか決まってしまう。


けれど、決めなくていい。


決めないままの会話が、今日はちょうどよかった。


カップの底に残ったコーヒーが、少しだけ冷めていた。


冷めたコーヒーは苦い。


苦いのは最初からなのに、冷めると苦さがはっきりする。


「雨、止みそうだね」


窓の方を見ながら、誰かが言った。


言ったのはAだったかBだったか、確かではない。


確かではないことを、その場の誰も気にしない。


「止むっていうか、もう止んでるんじゃない?」


別の誰かが返した。


返事の仕方が、雨の終わり方と似ている。


終わったのか、終わりかけなのか。


はっきり言わずに、言ったことにして進める。


私たちの間には、紙袋が一つ置かれていた。


紙袋は、よくある茶色で、持ち手のところが少し湿っている。


雨で濡れたのか、手の汗か。


どちらでも同じように見える。


袋の中身をここで開ける予定はない。


予定、というほどの決まりもない。


ただ、置いてある。


それだけ。


「最近さ、忘れ物多くない?」


唐突に、Aが言った。


唐突というより、会話が薄いところを探して、そこに言葉を落とした感じだった。


言葉が落ちるところは、いつも同じではない。


でも、落ちる場所ができる。


「多いっていうか、気づくようになっただけじゃない?」


Bが言う。


Bは、目の前の砂糖の袋を指で押して、角を整えた。


整えた角が、きれいすぎると逆に落ち着かない。


だからまた、少し崩す。


そういう手の癖。


「この前、傘さ……。いや、傘じゃないな。なんだっけ」


Aが言いかけて、止まった。


言いかけて止まる言葉は、たいていそのまま消える。


消えることに、誰も驚かない。


「鍵?」


「スマホ?」


Bが候補を出す。


候補を出すと、当てるゲームみたいになる。


当てるほど大事な話でもないのに、会話は勝手にそういう形になる。


Aは首を振った。


「……違う。置きっぱなしにして、家出た。で、戻ってきたら、置いてたはずの場所が、なんか、空いてた」


Aの言い方は少し回りくどい。


回りくどいのに、説明していない。


置いてたはずの場所が空いていた。


それだけで、どうしてそれが忘れ物になるのか。


普通なら、誰かが片付けたとか、自分が別の場所に置いたとか、そういう話が続く。


でも、Aは続けない。


続けないで、カップの縁を指でなぞった。


「片付けたとか?」


Bが聞く。


「うん、そうなんだけど……。片付けたっていうより、最初から置いてなかったみたいな」


Aは笑った。


笑ったけれど、面白がっている笑いではない。


困っているほど深刻でもない。


ただ、そうなった。


そうなったという話を、そうなったまま置く笑い。


私は、それを聞きながら、雨の跡の匂いを吸った。


店の中に入っても、雨の匂いはしばらく残る。


残る匂いは、外から持ち込まれたものなのに、最初からここにあったようにも感じる。


「あるよね、そういうの」


Bが言った。


「置いたはずのものが、置いたはずの感じごと消えるやつ」


「感じごと、って言い方、変じゃない?」


Aが言う。


「変だけど、言い方ない」


Bは砂糖の袋を、今度は裏返した。


裏返すと白い面が見える。


白い面はきれいで、何も書いていない。


書いていない面は、どの方向でも同じに見える。


「それさ、うちの近所の人が言ってたんだけど」


Aが少し声を落とした。


秘密の話をするほどの内容ではないのに、声が落ちる。


落ちた声が、テーブルの上に沈む。


「そういう時、持っていく場所があるらしい」


Bが瞬きをした。


「持っていくって、何を?」


「……何だろ。物、じゃないかも」


Aが曖昧に言う。


曖昧に言って、曖昧なままにする。


それがこの会話のルールになりそうだった。


「場所がある、って?」


Bが聞く。


聞くけれど、追及する勢いはない。


追及すると、会話が説明になってしまう。


説明は重い。


重い話をするために集まったわけではない。


「なんか、そういう……預かってくれるところ? っていうか、預かるって言うと違うんだけど」


Aは言いながら自分で首を傾げた。


「返してくれるの?」


「返す、っていうか。返らないのもあるって」


Bが少し笑う。


「それ、普通の忘れ物じゃん」


Aは肩をすくめた。


「普通じゃないって。普通の忘れ物じゃないんだって」


「普通じゃない忘れ物って何」


Bがカップを持ち上げた。


空になったカップの底が、光を反射する。


底の丸さが、きれいに光っている。


その光は、誰かが磨いたからというより、ただそういう形だから。


「……なんかさ、話の中では、ほら。物だけじゃないんだって」


Aが言った。


「物じゃない忘れ物?」


Bが繰り返す。


繰り返すと、それが急に変な言葉になる。


変な言葉なのに、どこかで聞いた気がする。


聞いた気がする、というだけで、確かめようとはしない。


「たとえば……座らなかった椅子とか」


Aが言って、そこで自分でも笑いそうになって止めた。


「座らなかった椅子?」


Bは眉を上げた。


「椅子はあるのに、座らなかったってこと?」


「うん。そういうのも、忘れ物みたいになるって」


Bは目を細めた。


「それ、なんか、言い方が変だね」


「変だけど、言い方ない」


AがさっきのBの言葉をそのまま返した。


同じ言葉が返ってくると、二人の間に小さな笑いが生まれる。


笑いは軽い。


軽いから、話が続く。


「誰がそんなこと言ってたの?」


Bが聞いた。


「近所の人。近所って言っても、知り合いの知り合い」


Aは指でテーブルを一度叩いた。


叩いた音は小さい。


でも、その小ささが、話を現実に近づける。


「その人、行ったの?」


「行った、って言ってた。行ったっていうか、行った気がするって」


「行った気がするって、どういうこと」


Bが笑う。


「分かんない。分かんないけど、そういうふうに言うしかないって」


Aは、カップの中に残った最後の一口を飲んだ。


飲んで、喉を鳴らした。


喉の音が、会話の間を一つ進める。


進めるけれど、何かが決まるわけではない。


「場所、どこにあるの?」


Bが聞いた。


聞いた瞬間、私たちの視線が一度、宙に浮いた。


場所。


場所という言葉は、具体的な座標を要求する。


けれど、今話しているものは、座標を持たない方がそれらしい。


Aは首を振った。


「知らない。地図に載ってないって」


「地図に載ってない場所って、あるの?」


Bが言う。


「あるんじゃない? 載せない場所」


Aが言う。


載せない。


載せないという意思がどこかにある。


でも、誰の意思かは分からない。


「っていうか、載せられないんだって。行き方も、説明しにくいって」


「それ、ただの都市伝説じゃん」


Bはカップを置いた。


置く音が、さっきより少し大きい。


「都市伝説みたいだけど、なんか、否定しきれない感じ」


Aが言う。


否定しきれない。


否定しないまま置く。


置くという行為が、この話の核心になってきた。


「でもさ、そういう話って、結局『行ったら救われた』みたいなオチが付くじゃん」


Bが言う。


「救われた、って言ってなかった。救われるとかじゃないって」


Aの言い方が少しだけ真面目になる。


真面目になるけれど、断定はしない。


「行っても何も起きないことがあるって」


Bが少し黙った。


黙ったまま、スプーンの柄を指で回した。


スプーンは回る。


回るのに、どこへも行かない。


「何も起きないなら、行く意味ないじゃん」


Bが言った。


「意味、っていうか。行ったっていう感覚だけが残るんだって」


Aは、紙袋の持ち手を触った。


触った手が、少しだけ湿っている。


湿り気は、雨の名残か、手の汗か。


どちらでも同じ。


「行った感覚だけ」


Bが繰り返す。


繰り返して、また少し笑う。


笑いは軽い。


軽いから、話が続く。


「それ、忘れ物じゃなくない?」


Bが言った。


「忘れ物じゃないのに、忘れ物扱いになるって話」


Aは、そう言って肩をすくめた。


忘れ物扱い。


扱い方。


ここで、話は物ではなく扱い方へ移っている。


移っていることに、会話の中の誰も気づかない。


気づかないまま、自然にそうなる。


「前からそういう場所、あったのかな」


Bが言った。


「前から、って言ってたよ。昔から。誰かの親の世代も聞いたことがあるって」


Aが言う。


昔から。


昔からという言葉は便利だ。


理由を省略できる。


始まりを省略できる。


「昔からあるって言われると、それっぽい」


Bが言って、窓の外を見た。


雨は完全に止んでいる。


止んだのに、濡れた地面はまだ黒い。


黒い地面の上を、人が歩いていく。


足跡はすぐに消える。


消えるのに、通ったことだけは残っているように見える。


「でもさ、行ってみたくない?」


Aが言った。


言った瞬間、言った本人も「言いすぎた」と思ったみたいに笑った。


「行って、何するの」


Bが返す。


「何もしないんじゃない?」


「何もしないために行くって、変だね」


「変だけど、言い方ない」


Aはまたその言葉を使った。


言い方がない。


言い方がないものは、噂になる。


噂は、言い方の代わりに広がる。


広がるが、形は決まらない。


「場所、どこだっけ」


Bが笑いながら言った。


笑いながら言うから、本気に聞こえない。


本気に聞こえないまま、でも問いだけが残る。


Aは首を振る。


「知らないって。だって、聞いただけ」


「じゃあ、調べられないじゃん」


Bが言った。


言いながら、スマートフォンを出そうともしない。


出せば検索できる時代なのに、出さない。


出さないことが、話の形に合っている。


「調べると消えるんじゃない?」


Aが冗談っぽく言った。


「何が」


「そういう話。調べたら、ただの場所になっちゃう」


ただの場所。


場所がただになる。


ただになると、噂としての温度が失われる。


温度が失われることを、誰も望んでいないわけではない。


ただ、今は望んでいない。


「いや、でも、もし本当にあるならさ」


Bが言う。


「何を持っていくの? 座らなかった椅子とか? どうやって」


「持っていけないから、場所が受け取るんじゃない?」


Aが言った。


受け取る。


その言葉が、テーブルの上に置かれた。


受け取ると言った瞬間、私はふと、誰かの手のひらを思い浮かべそうになった。


小さな手。


ピンク色。


しかし、その像はすぐにほどけた。


ほどけたまま、会話は続く。


「受け取るって、何を」


Bが聞いた。


「……分かんない。分かんないけど、そういう言い方してた」


Aは、言いながら紙袋を少しだけ自分の方へ引き寄せた。


引き寄せた動きが、無意識に「守る」みたいに見える。


守るほど大事なものが入っているわけではない。


けれど、動きはそうなる。


「返さなくていいことがあるって言ってた」


Aが続ける。


Bが目を細めた。


「返さなくていい、って優しいの?」


「優しいって言ってたわけじゃない。返さない方がいいって」


返さない方がいい。


その言葉は、どこかで聞いた気がする。


気がするだけで、確かめない。


確かめようとすると、会話が説明になってしまう。


説明になると、重くなる。


重くなると、こういう雨上がりの午後に合わない。


「でも、返さないってことはさ、失くしたままってことじゃん」


Bが言う。


「失くしたまま、でも……失くしたってことにしない、みたいな」


Aが言って、言いながら自分で首を傾げた。


「失くしたってことにしない?」


Bが繰り返す。


繰り返すと、言葉が変になる。


変になるのに、どこかで受け取れる。


「なんかさ、昔からそういう扱い方があったって言うんだよ。『忘れ物』っていうより、『置いていく』って」


Aはそう言って、テーブルの上のスプーンを少しだけ端へ寄せた。


寄せたスプーンは、落ちそうで落ちない。


落ちそうで落ちない位置は、不思議と安心する。


「置いていく、って。捨てるのとは違うの?」


Bが聞いた。


「違うって。捨てると、終わる。置いていくと、終わらない」


終わらない。


その言葉が、少しだけ重く聞こえた。


重く聞こえた瞬間、店の外で車が通る音がした。


音が、重さを割ってくれる。


割れるから、会話が続く。


「終わらないのって、嫌じゃない?」


Bが言う。


嫌という言葉は、今日の会話では強い。


強い言葉を言うと、空気が少しだけ固くなる。


Aはすぐに首を振った。


「嫌とかじゃなくて……そういうものなんだって」


そういうもの。


そういうもの、という言い方は便利だ。


理由を省略できる。


始まりを省略できる。


「昔から?」


Bが言う。


「昔から」


Aが頷く。


昔からそうだった、という語りは、疑いを許さないようでいて、実は何も決めない。


決めないまま、ただの空気として残る。


「でもさ、もし本当にそういう場所があるなら」


Bが言いかけたところで、店の入口のベルが鳴った。


カラン、と軽い音。


音は軽い。


軽い音が、会話の途中に入ってくる。


入ってきた人が、私たちの席の近くを通り過ぎる。


香水の匂いが少しだけ残る。


残った匂いは、雨の匂いと混ざる。


混ざった匂いは、最初からそうだった気もする。


Bは言いかけた言葉を、そこでやめた。


やめた言葉は、誰にも拾われない。


拾われないまま、テーブルの上に落ちる。


落ちた言葉は、いつの間にか別の話題に押し流される。


「そろそろ行く?」


Aが言った。


「うん」


Bが頷いた。


二人は立ち上がる。


椅子が床を擦る音がする。


擦る音は、さっきの雨の終わり方と似ている。


終わりを告げる合図がない。


ただ、音が変わる。


会計をして、外へ出る。


外の空気は冷たい。


冷たいけれど、拒むほどではない。


私たちは店の前で一度立ち止まった。


立ち止まったのは、雨上がりの道を渡るタイミングを測っているからだ。


測っているのに、誰も数えない。


「ねえ」


Bが言った。


「うん?」


Aが返す。


「その話、どこで聞いたって言ったっけ」


Aは少し考える。


考える時間が、二人の間に小さな空白を作る。


空白は、風が通る。


「……誰かが言ってた。たぶん、前から聞いたことがある人」


Aは、結局そう言った。


曖昧だ。


曖昧だから、嘘にはならない。


嘘にしないための曖昧さ。


「前から聞いたことがあるって、便利だね」


Bが笑った。


「便利。昔からって言うのも」


Aが笑う。


二人の笑いは軽い。


軽いから、話はここで終わる。


終わるけれど、消えない。


消えないのは、場所の名前ではない。


地図でもない。


連絡先でもない。


ただ、


『そういう場所があるらしい』


という言い方だけが残る。


残った言い方は、誰にも保存されない。


メモもされない。


検索もされない。


確認もされない。


それでも、次に誰かが「忘れ物」の話をするとき、きっとまた出てくる。


「そういえば、前に聞いたことがある」


そういうふうに。


誰も行き先を知らなかったのに、その話だけは、ずっとそこにあった。


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