忘れ物74 いない人の順番
# 忘れ物74 いない人の順番
センターの扉は、押せば開く。引けば閉まる。
その動きだけが、ここが今日も「場所」であることを教えていた。
私は、自分が何をしに来たのかを、はっきりとは覚えていない。
忘れ物をしたのかもしれない。誰かに頼まれたのかもしれない。あるいは、ただ歩いていて、いつの間にかここに来ていたのかもしれない。
けれど、足が止まった。
止まったところに、入口があった。
ピンク色の制服の人が立っていた気がした——と思ったのは、一瞬だけだった。
その一瞬は、息を吸って吐くまでの間に消える。
受付のカウンターは、今日もそこにある。
古い木の天板。角の丸さ。何度も触れられた場所の光沢。そこに置かれている紙の束。
けれど、その紙は、今日の誰かの名前を待っていない。
いくつかの椅子が並んでいる。
座っている人もいる。立っている人もいる。
列なのかどうか、分からない。
それでも、私が入ったとき、自然に空いている場所があった。
そこは、誰かが立っていた形のまま、少しだけ空けられていた。
私はその形に沿って立った。
すると、自分の体の前後に、ちょうどよい距離が生まれた。
前の人の背中が近すぎず、遠すぎない。
後ろの人の気配が、触れないところに収まっている。
誰も「並んでください」と言っていないのに、並んでいるようになった。
けれど、誰が先で、誰が後かは、どこにも書かれていない。
整理券がない。
番号も呼ばれない。
ただ、待っている時間が、床に薄く広がっている。
空気が静かで、音が聞こえる。
外の車の走る音。遠くの信号の鳴る音。誰かが咳をする音。
それらは、センターの中に入ると少し丸くなる。
角が取れて、どこか遠くの出来事みたいに。
受付の奥を見ても、人はいない。
誰も出てこない。
それが不思議だと感じたのは、また一瞬だった。
私は、何かを言おうとした。
「すみません」と。
でも、その言葉は、口の中でほどけてしまった。
言葉にするほどのことではない、と身体が先に判断してしまう。
みんなも、そんなふうに見えた。
誰かが時計を見た。
視線が動いただけで、時間が一つ揺れたような気がした。
けれど、時計の針がどこを指しているのかは、分からない。
私の手首には時計がない。
スマートフォンはある。
けれど画面を点けるのが、少しだけ面倒だった。
面倒というより、必要がない。
待つという行為が、すでに完了しているような。
完了、という言葉が、ここでは使いにくい。
終わりも始まりもない。
ただ、待っている。
そして、それで足りている。
椅子に座っている人が、足を組み直した。
床に小さな音が落ちた。
その音が、誰かの順番を一つ進めたような気がした。
でも、誰も動かない。
動かないというより、動かないことが、自然に守られている。
私は自分の前の人の背中を見ていた。
肩のあたりが、少しだけ緊張している。
それは、忘れ物をした人の緊張かもしれない。
何かを受け取りに来た人の緊張かもしれない。
あるいは、ただ冷えているだけかもしれない。
断定できるほどの情報は、何もない。
ここには、説明がない。
説明がないことが、最近は普通になってきた。
最近、というのも曖昧だ。
ここが昔からこうだったのか。
途中からこうなったのか。
それを確かめる必要が、ない。
必要がないから、誰も確かめない。
それでも、私は一度だけ、思った。
——前は、誰かがいたような。
その誰かの輪郭は、ピンク色だった。
小柄で、音を立てずに歩いて、何かを運ぶ人。
しかし、その像は、すぐに溶けた。
溶けたというより、最初から形になっていなかった。
思い出しそうになったところで、思い出さない。
それが、ここでは礼儀のように守られている。
誰かが昔を語り始めたら、それはそれで受け取られるのだろう。
けれど、今は誰も語らない。
語らないことが、今日の順番になっている。
私は視線を下げた。
足元のあたり、壁と床の境目の影が濃いところに、黒いものがあった。
黒と、ほんの少し紫。
最初は、落ちている布かと思った。
けれど、布にしては輪郭が生きている。
生きている、という言い方も、ここでは慎重になる。
その黒いものは、動いていない。
でも、いないとも言えない。
影の縁に沿って、そこに「置かれている」感じがした。
置く、という言葉も難しい。
誰かが置いたのではなく、そこがその形を許している。
私は、近づきもしない。
触れようとも思わない。
ただ、そこにあることを、見た。
見た、というだけで十分だった。
黒いものは、こちらを見返さない。
目があるのかどうかも分からない。
それでも、気配だけがある。
気配は、強すぎない。
人の体温を邪魔しない。
影の冷たさと同じ温度で、そこにいる。
私は、ふと、背中側を振り返った。
後ろにいたはずの人の位置が、少しだけ変わっていた。
変わっていたというより、空気が増えている。
人が一人減ったのかもしれない。
けれど、出ていく音は聞かなかった。
扉の開閉の音もない。
ただ、そこにあった気配が、なくなっている。
誰かが呼ばれたのだろうか。
呼ばれたなら、声がするはずだ。
番号があるなら、番号が呼ばれるはずだ。
でも、ここには番号がない。
呼ばれないまま、順番が進む。
順番が進むのに、前に出ない。
前に出ないのに、進んでいる。
私はその矛盾を、矛盾として扱わなかった。
ただ、「そういう動き」を受け取った。
この場所は、そういうふうに回っている。
回っている、という言葉も正確ではない。
止まっているのに、進んでいる。
変わっていないのに、減っている。
その両方を許すのが、ここだった。
しばらくして、受付の奥から、紙の擦れる音がした。
私は、思わず息を止めた。
誰かが来たのかもしれない。
でも、次の音はしなかった。
椅子が動く音もない。
足音もない。
ただ、紙が擦れた。
それだけ。
紙が擦れただけで、何かが処理された気がした。
処理、という言葉もまた、ここでは浮いてしまう。
完了がないのだから。
承認もない。
記録もない。
それなのに、紙が擦れただけで、世界のどこかが少しだけ整った気がした。
整う、というより、整わないまま納まった。
私は、また足元を見た。
黒いものは、少しだけ位置を変えていた。
変えたというより、影の形が変わった。
外の光が、雲に隠れたのかもしれない。
そのせいで、影が伸びた。
伸びた影の先に、黒いものがいる。
それは、いつもそこにいたようにも見える。
いつからいたのかは、分からない。
分からないままでいい。
そういう優しさが、この場所にはある。
前の人が、ほんの少しだけ、肩を落とした。
何かが終わったのかもしれない。
終わったというより、諦めたのかもしれない。
でも、諦めたという言葉は、強すぎる。
ただ、肩が落ちた。
それだけ。
肩が落ちたことが、何かを返したのか、返さなかったのか。
それも、分からない。
分からないまま、ここに残る。
私は自分の手の中を見た。
何も持っていない。
ポケットの中にも、鍵の感触はない。
紙の角もない。
細い毛糸の糸くずもない。
それなのに、ここに来た。
来たこと自体が、忘れ物なのかもしれない。
行為が忘れ物になる、という話を、どこかで聞いた気がする。
誰が言ったのかは分からない。
「聞いた気がする」だけが残る。
残った気がするから、私はそれを追わない。
追わないことが、この場所の仕事になっている。
仕事、という言葉も、昔ほど重くない。
誰かがそれを引き受けていた時期があったとしても。
今は、場所が引き受けている。
私は、もう一度、受付のカウンターを見た。
そこには紙がある。
紙の白さは、白すぎない。
少し黄ばんでいて、使われた時間がある。
でも、今日書かれた文字はない。
書かれなかったことが、そこに置かれている。
書かれなかったまま、棚に入らない。
棚、というものも、ここでは意味が薄い。
物は棚に置けなくなった。
代わりに、位置が置かれる。
距離が置かれる。
待ち時間が置かれる。
私は、自分の足の裏の感覚を確かめた。
床は冷たい。
けれど、嫌な冷たさではない。
冷たいのに、そこに立っていていい、と許されている冷たさ。
どこにも行かなくていい。
何もしなくていい。
それが、ここでの「受け取り方」なのかもしれない。
そのとき、前の人がいなくなった。
いなくなった、という言葉が一番近い。
動いたのでも、出ていったのでもない。
ただ、いない。
次の瞬間には、私の前の空間が、少し広がっていた。
広がった空間が、私に「前へ」と言っているようだった。
でも、言葉はない。
私は一歩も動かなかった。
動かないまま、距離だけが変わる。
距離が変わることで、順番が保たれる。
順番が保たれることで、誰も傷つかない。
誰も傷つかない、という断定も、ここではしない。
ただ、そう見える。
私は、ゆっくりと息を吐いた。
吐いた息が、白くはならない。
室内は暖かい。
暖かいのに、冷たい。
その両方が、同時にある。
同時性。
最近、この場所が大事にしているもの。
同時に残っている間。
私はその言葉を思い出したが、それがどこから来たのかは分からない。
言葉だけが、ひとりでにここへ届く。
届く、という言葉も、最近は揺れている。
届かなかった荷物があった。
まとめて届いた箱があった。
残された箱の底があった。
そして今は、順番のない待ち時間がある。
私は、もう待つことに飽きていた。
飽きていた、というより、ここにいることが終わっていた。
終わっていたのに、私はまだいる。
いることが、そのまま続く。
続くことが、世界の回り方になっている。
私は、扉の方を見た。
扉は閉まっている。
出ようと思えば出られる。
誰も止めない。
止めないというより、止めるという概念がない。
私は一歩だけ、扉の方へ体重を移した。
それだけで、背中側の空気が少し動いた。
後ろの人が、私が出るのかと思ったのかもしれない。
でも、思ったかどうかは分からない。
私は出た。
扉を開ける音がした。
その音は、さっきまでの静けさを切らずに、静けさの一部になった。
外の空気が冷たかった。
冬の始まりの冷たさ。
頬に触れて、すぐに馴染む。
私は振り返った。
センターの中は、見えない。
ガラスが曇っているわけではない。
ただ、見ようとしても、焦点が合わない。
中がどうなっているのかは、分からない。
分からないまま、扉は閉まった。
閉まった音がした。
その音が、私の中の何かを一つだけ確かにした。
私は、待っていた。
何を待っていたのかは、分からない。
誰に呼ばれるのを待っていたのかも、分からない。
それでも、待っていた。
待っていたという感覚だけが、手のひらに残っている。
手のひらには何もない。
何もないのに、温度だけがある。
私は、その温度を、捨てなかった。
捨てる場所がない。
返す先もない。
保留する棚もない。
ただ、持って帰る。
持って帰るというより、私の中を通過していく。
歩きながら、私はふと思った。
あの黒いものは、まだ影の縁にいるだろうか。
いるかどうかは分からない。
でも、最初からいた気がする。
最初からいた気がするものは、たぶん、最初からそこにいる。
そういうふうに、この世界は語られていく。
誰も呼ばれなかった。
それでも、その場所は、ちゃんと順番を保っていた。




