忘れ物62 渡されなかった封筒
# 忘れ物62 渡されなかった封筒
封筒は、白すぎない白だった。
紙の白は、まっさらなほど眩しくない。少しだけ影を含んでいて、角にうっすらと折り目がある。封の糊は乾ききっていて、ふくらみはない。中身が軽いのか、薄いのか、それとも、ただ紙が空気を含んでいないだけなのか。
午後の光が入口から斜めに差し込み、受付の床に四角く落ちた。その四角の端に、封筒は置かれていた。
いつからそこにあったのか。
誰が置いたのか。
そういうことは、最近ここでは、確かめても答えにならない。
モノカゲは扉の鍵を確かめるために入口へ行き、そこで封筒に気づいた。足元に落ちているわけではない。誰かが拾って「ここなら見つけやすいだろう」と置いたような高さでもない。
ただ、入口と受付の間。
必ず通る場所ではなく、通ることもある場所。
モノカゲは立ち止まり、封筒の上に落ちる影の形を確かめた。影が封筒の角を少しだけ削り、白の輪郭が薄くなる。
手を伸ばす。
指先が封筒の縁に触れる前に、カゲマルが小さく動いた。
机の脚元の影から、入口側の影へ。
黒と紫の体が、床の境目をなぞるように移動し、封筒から少し距離を取ったところで止まる。
近づかない。
遠ざからない。
境界の端。
モノカゲは封筒を持ち上げた。
紙の重さが手に移る。重さは、軽い。けれど、その軽さが「何も入っていない」軽さではなかった。何かが入っていて、軽い。あるいは、入っていないのに、軽い。
封筒の表面には宛名が書かれている。
文字は丁寧で、揺れていない。
宛名の下に郵便番号の枠があり、その枠は空白だった。
切手もない。
差出人欄は、空白。
空白は白紙のままではなく、そこだけ指で擦られたような光り方をしている。書こうとしたのか、書いたのか、それとも、書かないことにしたのか。
モノカゲは封筒を裏返し、封の部分を見た。
封は閉じている。
開けるための切り口もない。
開けることはできる。けれど、開ければ、その封筒は別のものになる。
ここは、別のものにしてしまう場所ではない。
別のものにしてしまうのが正しいときもある。けれど、今のモノカゲは、正しさのために手を伸ばさない。
封筒を持ったまま受付へ戻った。
机の上に置く。
封筒は机の端に近いところで止まった。紙が机の木目に吸い付くような、静かな音がする。
モノカゲは封筒を見下ろし、息を整えた。
耳の奥が、少しだけ熱くなる。
声ではないもの。
情景。
指先。
封筒。
封筒を差し出す腕。
そして、受け取る側の手。
受け取る側の手は、伸びる。
伸びて、止まる。
止まるのは拒んだからではない。
拒む、という形ではない。
ただ、ほんの少し遅れる。
遅れることで、二つの手の間に距離が生まれる。
距離は、埋まらない。
埋まらないまま、空気の厚さだけが残る。
モノカゲは目を伏せた。
今見えたものが、誰のものかは分からない。
この封筒のものかどうかも、確かではない。
確かではないからこそ、言葉にできない。
言葉にしてしまうと、そこに理由がくっつく。
理由がくっつくと、封筒は「出せなかった手紙」になる。
そう決めるのは、ここでは違う。
モノカゲは封筒を手のひらで包み込み、机の上を少しだけ滑らせた。紙が擦れる音が、ほんのわずかにする。
カゲマルは受付台の下の影で、動かない。
動かないが、目は封筒の位置を見ている。
封筒の白が、影の中でも浮き上がって見える。
午後の時間は、ゆっくりと進んだ。
来訪者が一人、また一人と訪れる。
鍵。
傘。
帽子。
財布。
どれも、ここに来るものとしては普通だ。
モノカゲは受け取り、棚を見て、渡せるものは渡す。
渡せないものは、置く。
その間、封筒は机の端に残った。
机の端は、落ちやすい。けれど、封筒は落ちない。
落ちないことが、最近のこの場所の「普通」に近い。
夕方が近づく頃、入口の扉が静かに開いた。
空気が少しだけ変わる。
外の匂いが入ってきて、床の光が揺れる。
入ってきたのは、背の高い人だった。
帽子を深くかぶり、コートの襟を立てている。前髪が影になり、顔の輪郭がはっきりしない。
扉を閉める音が、ほとんどしない。
音を立てないように閉めたのか。
扉が自然に静かだったのか。
どちらでも、いい。
その人は、待合スペースの椅子の列の前で足を止めた。
椅子を見る。
見るが、座らない。
座らないことが、その人の習慣なのか、今日だけの形なのか分からない。
モノカゲは受付の奥から一歩前へ出て、低く頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
その人は少しだけ視線を上げ、口を開いた。
「……すみません」
声は小さい。
小さいが、聞こえる。
聞こえる程度に、ここに来る。
それは、ただの偶然ではない。
その人は言葉を続けようとして、止めた。
止めた瞬間、指先がコートのポケットの縁を掴み、離す。
掴んで離す。
その動きが、封筒の断片と少しだけ重なった。
重なるが、同じではない。
モノカゲは封筒を見ない。
見れば、見たことになる。
見たことになると、ここで何かが決まってしまう。
「どうされましたか」
モノカゲの声は、いつもと同じ温度だった。
その人は頷き、視線を床へ落とした。
「……落とし物、というか」
言いかけて、止まる。
言葉が途中で切れる。
切れたところに、何かが残る。
残るが、形にならない。
「……ここに、来てしまって」
来てしまって。
その言葉は、目的を言わない。
けれど、目的の輪郭だけが見える。
モノカゲは頷いた。
「はい」
その人は、また口を開ける。
「……誰かが、置いたものが、あるかもしれない、と」
それだけ。
何があるのか、言わない。
どこに置いたのか、言わない。
誰が置いたのか、言わない。
言えば、それは確かになる。
確かにするために、ここへ来たのではないのかもしれない。
モノカゲは棚を見るふりをした。
ふり、というほど意識的でもない。
棚を見ることが、癖になっている。
棚には様々なものがある。
けれど今は、棚が答えを出さないことも多い。
モノカゲは棚の前に立ち、指先で背表紙を押した。
紙の束。
小さな箱。
透明な袋。
それらは静かだ。
その人は待合の椅子の前で立ったまま待っている。
座らない。
立っていることで、時間が短く感じられる。
短く感じるだけで、実際の時間は変わらない。
モノカゲは棚から戻り、受付台の前に立った。
「今、確認できるものはありますが……」
言いかけて、止めた。
確認できるもの、と言うと、封筒も含まれる。
封筒を含む、と言えば、封筒が「その人のもの」になる。
そう決めるのは、違う。
モノカゲは続きを変えた。
「……今日、ここにあるものは、ここにあります」
その人は、少しだけ眉を動かした。
表情の動きは小さい。
それでも、何かが触れたように見えた。
「……そうですか」
その人はポケットの中で指を動かし、何かを握った。
握っているものがあるのか、ないのか分からない。
握る動きだけが見える。
その人は、受付台の上を見ない。
目を上げれば、封筒が視界に入る位置だった。
けれど目は上がらない。
上がらないことが、拒みではない。
ただ、今日の形。
その人は帽子のつばを少し触り、頭を下げた。
「……すみませんでした」
そして、来たときと同じように音を立てず、扉へ向かった。
途中、椅子の列の横を通る。
手が背もたれに触れそうになる。
触れそうになって、触れない。
触れない指先が、空気を滑る。
それが、封筒の断片の距離と同じ厚さに見えた。
その人は出ていった。
扉が閉まる。
外の光が少し揺れ、床の四角がゆっくり戻る。
モノカゲは受付に立ち尽くし、封筒を見ないまま、呼吸を整えた。
カゲマルが受付台の下の影から、少しだけ前へ出た。
封筒の真横ではない。
封筒から二歩分ほど離れた床の境界に座る。
座ることで、そこに距離が固定される。
距離が固定されることは、解決ではない。
ただ、そこにある。
夕方の来訪者は、戻ってこなかった。
戻ってくるかどうかも、ここでは決められない。
モノカゲは封筒に手を伸ばした。
今度は、触れる。
触れて、持ち上げる。
封筒の白が、手のひらの上でわずかに影をつくる。
モノカゲは宛名を声に出さない。
声に出せば、名前が空間に残る。
残れば、返却の矢印ができる。
矢印を作らない。
モノカゲは封筒を持って立ち上がり、机ではなく棚の方へ歩いた。
棚の中に入れない。
棚の外へ押し出さない。
入口と受付の間にある、小さな棚の縁。
誰かが通ることもある。
通らないこともある。
手を伸ばせば取れる。
伸ばさなければ、そこに残る。
モノカゲは封筒を、その棚の縁に置いた。
置くとき、封筒の角が棚の木目に触れ、かすかな音がした。
紙が木に触れる音。
音は短い。
短いが、そこに「置かれた」ということだけが確かになる。
カゲマルは入口寄りの影へ移動した。
封筒と外の距離を測るような位置。
封筒を守るのではない。
封筒を押し返すのでもない。
ただ、その間にある空間を、空間として置く。
モノカゲは照明を落とした。
室内が暗くなる。
封筒の白だけが、少しの間、浮いて見える。
窓の外の光が細く残り、封筒の輪郭を最後に撫でる。
封筒は動かない。
風で揺れない。
落ちない。
封は閉じたまま。
モノカゲは扉へ向かい、鍵をかける前に振り返った。
入口と受付の間。
棚の縁。
そこに封筒が置かれている。
差出人欄の空白が、暗い中でもかすかに見えた。
空白は埋まらない。
切手は貼られない。
宛名は声にならない。
それでも、封筒はここにある。
誰かの手と、誰かの手の間の距離が、形を持ったまま残っている。
モノカゲは扉を閉めた。
鍵を回す。
金属の音が一つ。
その音が消えると、センターは夜に沈む。
封筒は、渡されないまま置かれた。




