忘れ物61 座らなかった椅子
# 忘れ物61 座らなかった椅子
椅子は、朝からそこにあった。
それは特別な椅子ではない。木目が少し見える程度の、背もたれの低い椅子だ。座面の角に傷がひとつ。脚の先に小さなフェルトが貼られていて、床を引っかかない。
忘れ物センターの待合スペースに並ぶ椅子の一つ。
ただ、その椅子だけが、少しだけ「そこにいる」感じがした。
モノカゲは開所前の静かな廊下を歩き、待合スペースの前で立ち止まった。窓から差し込む光が床に四角く落ち、椅子の影がそこに重なる。
影の輪郭が、他の椅子より少しだけ細い。
そんなはずはない。椅子は同じ形だ。
モノカゲは視線を上げ、椅子の配置を確かめた。
昨日までは、確か、窓際の列がほんの少し内側に寄っていた。通路を広く取るために、そうした気がする。けれど今朝は、椅子がほんの少しだけずれている。
一脚だけ。
壁に寄っていない。
通路にも出ていない。
誰かが座って、そのまま立ち上がった後のようでもある。
掃除の人が動かした後のようでもある。
理由は、どちらでもよかった。
モノカゲは、その椅子の背もたれに手を触れようとして、やめた。
触れれば、触れたことになる。
触れたことになると、そこに順番や理由が生まれやすい。
この場所は、最近それを必要としない。
必要としない、という言葉も、少し強い。
ただ、なくても進んでしまう。
モノカゲはそのまま受付へ向かった。
机の脚元の影に、カゲマルがいた。
黒と紫の境目が、朝の光で薄く変わる。
カゲマルはモノカゲの足音に反応し、少しだけ顔を上げた。目が合って、それで終わる。
「おはよう」
モノカゲが言うと、カゲマルは尻尾の先だけ動かした。
返事でも合図でもない。けれど、モノカゲはそれで十分だった。
開所の準備をする。
受付台の上を整え、ペンを揃え、書類の束を端に寄せる。
棚は、棚としてそこにある。
机は、机としてそこにある。
待合の椅子も、椅子として並ぶ。
それだけのことが、今日は少し丁寧に見える。
扉の鍵を開ける時間になり、モノカゲは入口へ行った。
外の空気が入ってくる。
誰もいない道。
遠くの信号の音。
風の気配。
モノカゲは扉を開け、札を表に出した。
営業中。
その文字も、ここでは何かを保証しない。
それでも、札は札として役に立つ。
午前の早い時間、最初の来訪者が来た。
背の高い人だった。コートの襟を立て、肩から細い布袋を下げている。顔は見えにくい。帽子のつばが少し影を作っている。
扉が閉まる音は、薄く響いた。
待合スペースに並ぶ椅子が、空気の振動を受けて小さく鳴る。
来訪者は足を止め、椅子の列を見た。
そこに迷いがある、と言うと強すぎる。
ただ、足の運びが一度途切れた。
窓際の椅子に近づく。
近づいて、止まる。
指先が背もたれの縁に触れる寸前で、空中に留まった。
来訪者はそのまま背筋を伸ばし、椅子に座らず受付へ来た。
モノカゲは低く頭を下げた。
「どうされましたか」
来訪者は布袋を持ち上げ、口を開けた。
「……ここに、忘れ物が来ると聞きました」
声は落ち着いている。
モノカゲは頷いた。
「はい」
「探している、というより……」
来訪者は言いかけて、止めた。
止めた言葉の代わりに、布袋の口を開けた。
中から出てきたのは、小さな編み目の袋だった。
手のひらに乗るサイズ。
袋の中に、何かが入っている。
小さなものが、いくつか。
来訪者は袋を机の上に置き、指先で押さえた。
「これ……落としました。たぶん、ここの近くで」
モノカゲは袋を見た。
布の網目の向こうに、淡い色が見える。
小さな、丸い。
ビー玉のような。
いや、ビー玉ほど硬くはなさそうだ。
来訪者は袋を押さえたまま、視線を下げた。
「拾った人が、入れてくれたのかもしれません」
モノカゲは袋に触れずに、目で中を確かめた。
丸いものが三つ。
ひとつは透明に近い。
ひとつは淡い青。
ひとつは薄い白。
光に当たると、微かに反射する。
来訪者はそれ以上説明しなかった。
モノカゲも、詳しく聞かなかった。
ここでは、聞くことが正解にならない。
来訪者は受付の横に立ち、待合の椅子を背中に感じているはずなのに、振り返らない。
モノカゲは棚の方へ行った。
探す、という動きは残っている。
残っているが、以前のような「戻すため」の探し方ではない。
見つければ返す、という一本道ではない。
モノカゲは網袋の中身に似たものを置いた記憶のある棚を、順に見た。
分類は、すでに万能ではない。
けれど、癖のように手は動く。
指が背表紙を押し、紙の束の沈み方を確かめる。
その時、耳の奥が少しだけ熱くなった。
声ではないもの。
情景。
布袋。
指先。
網袋。
そして――椅子。
椅子の背もたれ。
そこに触れようとして、触れない。
触れない指先の温度。
温度がそのまま残る。
残っているのに、どこにも移らない。
モノカゲは呼吸を整えた。
今の断片は、袋から来たのか、椅子から来たのか分からない。
分からないままでいい。
モノカゲは棚の一段目の端で、薄い箱を見つけた。
箱の蓋に、何も書かれていない。
書かれていないことが、最近は珍しくない。
モノカゲは箱の蓋を開けた。
中には小さな丸いものがいくつか入っていた。
透明に近い。
淡い青。
薄い白。
同じように三つ。
ただ、網袋はついていない。
モノカゲは箱を閉じ、受付へ戻った。
来訪者は立ったまま待っていた。
椅子に座らない。
立っていることで、時間の長さが少し違って見える。
モノカゲは箱を机の上に置いた。
「これと、似ています」
来訪者は箱を見て、息を止めたように見えた。
止めた、というより、吸うのを少しだけ遅らせた。
来訪者の指先が箱の縁に触れる。
触れて、すぐに離れる。
「……はい」
短い。
それ以上の言葉は来ない。
モノカゲは箱を開け、中身を見せた。
来訪者は三つの丸いものを見て、手のひらを握ってほどいた。
握ってほどく、その動きが、どこかに合図のように残る。
「数は、合っていますか」
モノカゲが言うと、来訪者は小さく頷いた。
「……はい」
来訪者は布袋の網袋を持ち上げ、箱の中身と並べた。
網袋の中にも、同じ色がある。
同じ三つ。
同じ、ということが、ここでは確かなようで確かではない。
来訪者は網袋を閉じ、布袋に戻した。
箱の中身は、モノカゲの手元に残った。
来訪者は、それを持っていかない。
持っていかない、と決めたわけでもない。
ただ、手が伸びない。
モノカゲは箱を閉じた。
「こちらは、こちらで預かります」
来訪者は頷いた。
「……お願いします」
来訪者は一歩下がり、待合の椅子をちらりと見た。
見て、また視線を受付に戻す。
視線が、一脚の椅子のあたりで少しだけ止まった。
止まるだけ。
来訪者は椅子に近づかない。
モノカゲも、そこに目印を置かない。
来訪者は帽子のつばを少し持ち上げ、軽く頭を下げた。
「……ありがとうございました」
扉へ向かう。
途中、椅子の列の横を通る。
通るだけ。
椅子に触れない。
そして出ていった。
扉が閉まる。
椅子が、また薄く鳴る。
モノカゲは、その音が消えるまで立っていた。
カゲマルは受付台の下の影から出てこない。
影の縁に沿って、ほんの少しだけ位置を変えた。
椅子のある待合スペースには行かない。
行かないことで、待合の空間が別の場所のように見える。
午前の後半、次の来訪者が来た。
今度は二人。
一人は小さな子で、もう一人はその保護者のようだった。
子どもは入口で靴を揃えようとして、片方だけ揃えて満足し、もう片方を忘れてしまう。保護者が静かに揃え直す。
子どもは待合の椅子に向かって走った。
走って、すぐに別の椅子に座った。
座って、足をぶらぶらさせる。
その椅子ではない。
その椅子は、子どもが通り過ぎた風で、少しだけ揺れた。
揺れて、止まる。
保護者は子どもの横に座り、モノカゲの受付の方を見る。
「すみません、落とし物の件で」
小さな手袋だった。
片方だけ。
見慣れた形。
モノカゲは丁寧に応対し、棚を見て、該当する手袋を見つける。
返却は自然に進んだ。
子どもは手袋を受け取り、すぐに片手にはめる。
はめて、嬉しいのかどうかは分からない。
ただ、動きが軽くなる。
子どもは椅子から降りて、待合の椅子の列の間を歩き回る。
その椅子の前でも、止まらない。
止まらないことが、決定ではない。
ただ、通り過ぎる。
保護者が会釈し、二人は出ていった。
椅子は、また使われない。
昼。
日差しの角度が変わり、椅子の影が床の上で少しずれる。
椅子の影が、床に描く線は正直だ。
モノカゲは昼休憩の湯を沸かし、カップを持って待合スペースへ行った。
普段なら、受付の奥で飲む。
けれど今日は、待合の空気を確かめたかった。
モノカゲは椅子の列の端に立ち、空いている椅子を見た。
座ってもよかった。
誰もいない。
座れば、椅子は使われる。
使われれば、今日の「使われなかった」という事実は変わる。
モノカゲは、椅子の前で止まった。
その椅子の前で。
座面の角の小さな傷。
脚のフェルト。
背もたれの木目。
それだけしかない。
それなのに、モノカゲは膝を曲げなかった。
耳の奥が、また少しだけ熱くなる。
情景。
誰かがここで、座ろうとしている。
座る前に、立ち止まる。
背もたれに手をかける。
かけて、離す。
離した手は、どこにも置かれない。
置かれない手の形が、少しだけ空中に残る。
残るが、言葉にならない。
モノカゲはそれを飲み込むように、カップの縁に口をつけた。
温かい。
温かい、という感覚は確かだ。
確かだからこそ、そこに余計な言葉を足したくない。
カゲマルが待合スペースの入口まで来ていた。
来ているが、中へ入らない。
入口の影の縁で止まり、床を見ている。
カゲマルの視線の先には、椅子の脚が並んでいる。
脚。
床。
距離。
カゲマルはその距離を測っているように見えた。
モノカゲはカップを持ったまま椅子の横に立ち、ほんの少しだけ体を傾けた。
座面の高さを確かめる。
それだけ。
座らない。
カゲマルは尾の先を動かし、入口の影から戻っていった。
戻る、というより、影が濃い方へ移った。
午後。
来訪者はぽつぽつと来る。
財布。
帽子。
傘。
モノカゲは淡々と受け取り、棚を見て、渡せるものは渡す。
渡せないものは、そこに置く。
その間も、待合の椅子の一脚は使われない。
誰もそこに座らない。
誰もそこに荷物を置かない。
誰もそこに上着を掛けない。
椅子は、椅子としての形を維持したまま、ただ時間の中に残る。
夕方。
光が斜めになる。
待合スペースの影が長く伸び、椅子の影が床の四角の中から外へ出る。
影が長くなることで、椅子の位置がはっきりする。
位置がはっきりすることは、意味がはっきりすることではない。
終業の時間が近づき、モノカゲは受付台の上を片づけた。
書類を揃え、ペンを戻し、メモを裏返す。
裏返された白い面が、今日のまま残る。
モノカゲは待合スペースへ行った。
誰もいない。
椅子だけが並んでいる。
その一脚も、同じようにそこにある。
モノカゲは椅子の前に立ち、少しだけ手を伸ばした。
背もたれの縁。
指先が触れれば、木の冷たさが分かるだろう。
触れれば、触れたことになる。
モノカゲは触れなかった。
指先は空中で止まり、すっと戻った。
戻った手は、制服の袖口を整える。
その動きが、今朝の来訪者の動きに少しだけ重なる。
重なるが、同じではない。
同じではないから、決められない。
決められないから、置いておける。
モノカゲは椅子の横に立ち、椅子の高さと、自分の膝の位置を確かめる。
それだけ。
座らない。
カゲマルが待合スペースの入口にいた。
影の縁。
カゲマルは椅子を見ている。
椅子の座面ではなく、床に落ちる影。
影の境界。
カゲマルはそこに形を置き、動かない。
見張りでもない。
拒んでもない。
ただ、境界がそこにあることを示している。
モノカゲは一歩下がって、椅子の列全体を見た。
どの椅子も、同じように見える。
同じように見えるのに、一脚だけ今日一日、使われなかった。
使われなかった理由は、ここにない。
理由が必要なら、誰かが持っていく。
持っていかないから、ここに残る。
モノカゲは照明を落とす。
待合スペースが暗くなり、椅子の輪郭が薄くなる。
薄くなる中で、椅子の影だけが最後まで床に残った。
影は誰かが座った形にならない。
座った形にならないまま、夜へ溶けていく。
扉の鍵をかける前に、モノカゲはもう一度だけ椅子の方を見た。
椅子は、椅子のままそこにある。
今日も。
その椅子は、今日も使われなかった。




