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忘れ物センター便り  作者: にめ


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忘れ物63 呼ばれなかった名前

# 忘れ物63 呼ばれなかった名前


 朝の受付は、いつもより静かだった。


 静か、というのは音がないという意味ではない。遠くの道路を走る車の音はあるし、風が建物の角を回る音もある。ただ、人の動きに伴う音が、まだ来ていない。


 モノカゲは受付カウンターの前に立ち、今日使う紙を揃えた。案内用の紙、確認用の紙、控えの紙。それらを重ね、端を揃える。


 その横に、小さな紙束がある。


 呼び出し用の紙。


 一枚ずつ切り離せるようになっていて、上から順に使う。名前を書く欄があり、その下に小さな番号の枠がある。番号は、今はあまり意味を持たない。それでも、枠は残っている。


 モノカゲは紙束を手に取り、重さを確かめた。


 軽い。


 紙の重さは、昨日と同じはずだ。減ってもいないし、増えてもいない。それなのに、手に乗せたとき、ほんの少しだけ軽く感じた。


 一枚目の紙に、何も書かれていない。


 それは当然だ。まだ、誰も来ていない。


 当然なのに、モノカゲはその紙を「未使用」とは思わなかった。


 未使用という言葉は、使われる前提を含んでいる。


 最近、この場所では、前提が先に壊れることが多い。


 モノカゲは紙束を受付カウンターの脇に置いた。


 その位置は、受付と待合の境界に近い。


 完全に受付側でもなく、待合側でもない。


 カゲマルは、机の脚元の影にいた。


 黒と紫の体が、床の色と溶け合っている。


 カゲマルは紙束を見ない。


 見ないが、そこにあることは分かっているようだった。


 開所の時間になり、モノカゲは扉の鍵を外した。


 金属の音が小さく響く。


 それだけで、朝が始まった。


 最初の来訪者は、少し遅れてやってきた。


 背中を丸めた人だった。肩にかけた鞄が、歩くたびに小さく揺れる。


 扉が開き、閉まる。


 その音で、待合の空気が少しだけ動いた。


 来訪者は、椅子の列を見て、端の方の椅子に座った。


 座る、という動作は迷いがない。


 モノカゲは受付に立ち、軽く頭を下げた。


「いらっしゃいませ」


 来訪者は頷き、鞄を膝の上に置いた。


「落とし物で……」


 モノカゲは紙束に手を伸ばし、一枚目の紙を切り離した。


 ペンを取り、名前を書く欄を見る。


 一瞬、手が止まる。


 止まったのは、書く名前が分からないからではない。


 書く必要があるのかどうか、その感覚が薄くなっている。


 以前は、書いていた。


 名前を書くことで、その人がここに来たことが記録された。


 記録されることで、順番が生まれ、呼び出しが成立した。


 今は、その流れが必須ではない。


 モノカゲは名前を書かずに、紙を脇に置いた。


「どのような物でしょうか」


 来訪者は鞄を開け、鍵束を見せた。


 特徴は簡単だった。


 モノカゲは棚を見て、該当する鍵を見つけ、返した。


 来訪者は鍵を受け取り、小さく会釈をした。


「ありがとうございます」


 それで終わる。


 名前は呼ばれない。


 呼ばれなくても、やり取りは成立する。


 来訪者は立ち上がり、椅子を押し戻し、出ていった。


 紙束の一枚目は、使われないまま、脇に残る。


 二人目、三人目の来訪者も、同じように対応した。


 財布。


 傘。


 帽子。


 それぞれが、自分の物を受け取り、帰っていく。


 モノカゲは紙束から二枚目、三枚目を切り離し、必要なときだけ、最低限のことを書いた。


 番号は書かない。


 名前も書かない。


 それでも、紙は使われる。


 使われる紙と、使われない紙が、並んで残る。


 一枚目だけが、白いまま。


 白さが、周囲より少しだけ目立つ。


 誰も気づかない。


 気づかないことが、問題にならない。


 昼前、少し慌ただしい時間が過ぎたあと、常連に近い人が来た。


 以前から、何度か顔を合わせている人だ。


 モノカゲは、その人を見て、軽く頭を下げた。


「いらっしゃいませ」


 その人は、受付の前まで来て立った。


 以前なら、名前で呼んでいたかもしれない。


 名前で呼ぶと、距離が少し縮まる。


 距離が縮まると、役割がはっきりする。


 今は、その必要がない。


 その人は、モノカゲの前に立ち、少しだけ待った。


 呼ばれるのを待つ、という姿勢ではない。


 ただ、立っている。


「今日は……」


 言いかけて、止めた。


 言葉が途中で切れる。


 切れたところに、何かが残る。


 残るが、形にならない。


「……これを」


 その人は小さな袋を差し出した。


 中身は、以前にも見たことのある物だった。


 モノカゲは受け取り、頷いた。


「お預かりします」


 それだけ。


 名前は呼ばれない。


 その人は、一瞬だけ視線を受付カウンターの上に置いた。


 紙束の方を見る。


 白い一枚目が、そこにある。


 見るが、何も言わない。


 その人は小さく息を吐き、頷いた。


「お願いします」


 そして、少しだけ立ち止まってから、出ていった。


 立ち止まった時間は、ほんの一瞬だ。


 それでも、その一瞬が、ここでは長く残る。


 モノカゲは耳の奥に、断片を感じた。


 声ではない。


 音でもない。


 呼ばれる準備をしていた姿勢。


 背筋を伸ばし、顔を上げる角度。


 そのまま、声が来ない。


 来ない声を待つ形だけが、空間に残る。


 モノカゲは目を伏せた。


 感情の名前は、付けない。


 付ければ、決まってしまう。


 午後になり、来訪者の数は減った。


 紙束は、半分ほどになっている。


 最初の一枚だけが、残る。


 モノカゲはその紙を手に取り、光に透かした。


 何も書かれていない。


 書かれていないが、そこには枠がある。


 名前を書くための枠。


 番号を書くための枠。


 呼ぶための余白。


 モノカゲはその紙を、破らない。


 捨てない。


 書かない。


 受付と待合の境界に、そっと置いた。


 誰かが見れば、そこに何かを書くための紙だと分かる。


 だが、誰かが書くことはない。


 カゲマルが、入口寄りの影へ移動した。


 紙と声の間にある距離を、測るような位置。


 声は、そこまで届かない。


 届かないことが、拒みではない。


 ただ、今日の距離だ。


 午後になり、来訪者の数は減った。


 紙束は、半分ほどになっている。


 最初の一枚だけが、残る。


 モノカゲはその紙を手に取り、光に透かした。


 何も書かれていない。


 書かれていないが、そこには枠がある。


 名前を書くための枠。


 番号を書くための枠。


 呼ぶための余白。


 モノカゲはその紙を、破らない。


 捨てない。


 書かない。


 受付と待合の境界に、そっと置いた。


 誰かが見れば、そこに何かを書くための紙だと分かる。


 だが、誰かが書くことはない。


 ――そのまま、時間が少しだけ進むはずだった。


 午後の光が傾きはじめたころ、扉が勢いよく開いた。


 若い人が一人、息を切らせて入ってくる。頬が赤い。手にはスマートフォンを握っていて、画面の明かりが指先を照らしている。


「すみません、すみません……ここ、忘れ物センターで……」


 言葉が先に走る。靴のつま先が入口のマットに引っかかり、体が少しだけ前へ揺れた。


 モノカゲは一歩近づき、揺れが落ち着くのを待った。


「はい」


 若い人は肩で息をしながら、待合の椅子を見た。座りたいのかもしれない。けれど、座らない。座面に手を置きかけて、置かない。


 その手が宙で止まる。


 止まる動作は短いのに、モノカゲの耳の奥が少しだけ熱くなる。


 声ではないもの。


 呼ばれる準備。


 呼ばれる前の、姿勢。


 それが、今ここで繰り返されている。


「……落とし物、というか」


 若い人は視線を受付に戻し、スマートフォンの画面を見せた。


 そこにはメモのような文章が表示されている。短い言葉の列。誰かから送られたものか、自分で打ったものかは分からない。


「これ、言われたんです。『ここに行けば、呼んでくれる』って」


 呼んでくれる。


 その言葉が、ここでは少しだけ浮く。


 モノカゲは頷いた。


「どのような物でしょうか」


 若い人は鞄の中を探り、紙切れを出した。


 小さな紙切れ。片側がちぎれている。そこに数字が書かれている。


 数字は途中で途切れている。


 若い人は紙切れを握りしめ、言った。


「番号、って言われて……」


 番号。


 呼ばれなかった番号。


 呼ばれなかった名前。


 それらが、ここでは同じ棚の奥に並んでいるように感じる。


 モノカゲは紙切れを受け取り、目で確認する。


 数字は、確かに数字だ。けれど、それが何の番号なのかは決められない。


 若い人は待合の椅子の前で立ったまま、少しだけ背筋を伸ばした。


 呼ばれるのを待つ形。


 モノカゲは紙束の方へ視線を落とした。


 最初の一枚。


 白いままの枠。


 そこに今、名前を書けば、呼ぶことができる。


 呼べば、相手は反応する。


 反応すれば、ここは「呼ぶ場所」になる。


 けれど、呼ぶことは、決めることだ。


 モノカゲはペンを取った。


 そして、取ったまま止まった。


 若い人の名前は聞いていない。


 聞けばいい。


 けれど、聞いてしまえば、その瞬間にこの場の距離が変わる。


 距離が変わることを、良いとも悪いとも言えない。


 モノカゲはペンを置き、紙束を押さえた。


「こちらで確認できるものは、限られています」


 言葉は丁寧だが、はっきりしすぎないように置く。


 若い人は目を見開いた。


「……じゃあ、呼ばれない?」


 問いかけは、責める形ではない。けれど、空気が少しだけ薄くなる。


 モノカゲは首を横に振らない。


 頷きもしない。


 ただ、少しだけ視線を下げる。


「呼ぶ必要があるときもあります。ないときもあります」


 若い人はその言葉を受け取りきれず、口を開けて閉じた。


 閉じた口の中に、言いかけた言葉が残る。


 モノカゲは棚へ向かった。


 紙切れの数字に似た札や、途中で途切れた番号が入っている区画を見に行く。


 そこには、半券のような紙、切り取られた整理券、角だけ残ったカードがある。


 どれも「呼ばれるためのもの」だったはずなのに、今は呼ばれない。


 モノカゲは一つだけ、紙切れの形に似たものを見つけた。


 同じようにちぎれていて、同じように数字が途中で途切れている。


 それを持って戻る。


 若い人は受け取らない。


 受け取らないまま、しばらく見ている。


「……これ、ぼくのじゃない」


 そう言って、少し笑った。


 笑いは軽い。


 軽い笑いの下に何があるのか、モノカゲは言葉にしない。


「たぶん、違いますね」


 若い人は紙切れを握り直し、肩を落とした。


 その肩の落ち方が、呼ばれる準備の姿勢と反対の形になる。


 モノカゲは紙束の一枚目を見た。


 白い枠。


 そこに何も書かれないまま、今日が終わっていく。


 若い人は「すみません」と言い、帽子もかぶっていない頭を下げて出ていった。


 扉が閉まる音が、今朝より少しだけ重い。


 モノカゲは、棚から持ってきた似た紙片を元の場所へ戻さなかった。


 戻す理由が、今はない。


 紙片は紙片として、机の端に置かれる。


 そして、最初の一枚の白い紙は、境界に置かれたまま。


 ――それからしばらく、電話が鳴った。


 受話器の音は久しぶりだった。


 モノカゲは一瞬だけ動きを止め、それから受話器を取った。


「はい、忘れ物センターです」


 向こうの声は、途中で途切れる。


 息が混ざる。


 言葉にならない音が先に来て、言葉が遅れてくる。


『……名前を、言わなくても、いいですか』


 モノカゲは受話器を持ったまま、白い紙の方を見る。


 名前を書く枠。


 名前を呼ぶための枠。


 モノカゲは小さく頷いた。


「はい」


 電話の向こうは、それ以上何も言わない。


 呼び出しもない。


 確認もない。


 ただ、受話器の向こうで、誰かがそこにいる。


 いる、ということだけが分かる。


 モノカゲは言葉を足さない。


 足せば、相手の輪郭を決めてしまう。


 決めないまま、受話器を戻した。


 カゲマルが影の縁で、尾の先を一度だけ動かした。


 それは合図ではない。


 けれど、今日の出来事が確かにここを通ったことだけが残る。


 夕方、照明を落とす時間になった。


 待合の椅子は空いている。


 受付は静かだ。


 モノカゲは紙を置いた場所を、もう一度見た。


 白い紙が、床の影に少しだけ重なる。


 影の中でも、白さは残る。


 その白さは、「無」ではない。


 呼ばれなかった枠。


 呼ばれなかった名前。


 それでも、ここに在る。


 モノカゲは扉へ向かい、鍵をかけた。


 金属の音が、一つ。


 それで、一日が終わる。


 紙はそのまま残る。


 誰の名前も書かれていない。


 けれど、呼ばれるはずだった場所が、確かにそこにある。


 その名前は、今日も呼ばれなかった。


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