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忘れ物センター便り  作者: にめ


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忘れ物51 呼ばれなかった名前

# 忘れ物51 呼ばれなかった名前


 朝の開館準備は、昨日と同じ順番で進んだ。


 鍵を回し、扉を開け、照明を点ける。光が床に落ち、机の輪郭がはっきりする。返却トレーの位置も、棚の影も変わらない。境界に置かれた整理券と、日付のない書類も、そのままの場所にある。


 モノカゲは机を拭いた。布は机の中央から端へ、端から中央へ動く。布が紙に触れないよう、自然に避ける動線ができている。避けられていることを、確かめる必要はない。


 受付カウンターの端に、小さな物が置かれているのが見えた。


 名札だった。


 プラスチック製で、透明なカバーが付いている。留め具も揃っていて、壊れてはいない。擦れた跡もなく、文字が消えた形跡もない。


 名前を書く欄だけが、空白だった。


 モノカゲは名札を手に取り、机の上に置いた。軽い音がする。裏返し、留め具を確かめ、もう一度表に戻す。空白は、最初からそこにある。


 触れた瞬間、断片が届いた。


 人の流れ。


 立ち止まる気配。


 視線が向く。


 口が動く。


 音が出ない。


 別の方向から、別の名前が呼ばれる。


 呼ばれた人が振り返る。


 自分の背中を、人が通り過ぎる。


 モノカゲは名札を机の中央に置いた。


 中央は、まだ何も決まっていない場所だ。名前が書かれていれば、ここに置く時間は短い。棚に入るか、返却されるかがすぐに決まる。


 記録用紙を取り出す。品目欄に「名札」と書く。


 所有者の欄で、手が止まった。


 空欄のままでも、記録はできる。実際、空欄の書類は今までにもあった。


 けれど、この名札の空白は、「分からない」ではない。


 書くべき名前が、最初から存在しない。


 モノカゲはペンを置き、紙の端を揃え直した。


 カゲマルは、棚の上にはいなかった。受付と入口の間を行き来している。人が立つ位置、人が呼ばれる位置の近くを選び、声が出そうな瞬間には距離を取る。


 モノカゲは棚の前に立った。


 名札の棚は、きちんと整理されている。名前の書かれた名札が並び、用途ごとに分かれている。


 名前のない名札を入れると、「誰でもないもの」として固定される。


 固定する理由は、まだない。


 モノカゲは名札を棚に入れず、机に戻した。


 午前中、来客があった。


 名札を探しているという。色と形を確認し、棚を探す。該当の名札が見つかると、持ち主は名前を見て、安心したように頷いた。


 名前があるということは、それだけで終わりを作る。


 その様子を、空白の名札は机の中央から見ていた。


 昼過ぎ、モノカゲは名札を机の端へ移した。端に置くと、中央との差が明確になる。端は、保留の位置だ。


 境界に置かれた整理券、日付のない書類との距離が測られる。三つは、同じ線上には並ばない。


 カゲマルは三つの間を移動し、どれにも触れずに止まる。


 夕方。


 モノカゲは名札を持ち上げ、受付カウンターの近くへ運んだ。返却トレーには入れない。棚にも入れない。


 人が立ち、名前が呼ばれる場所の近く。


 そこに、名札を置いた。


 呼ばれない名前は、呼ばれる前提の場所には置かない。


 閉館の時間が来る。


 灯りを落とす前に、モノカゲは名札を見る。空白は、今日も埋まらない。


 *


 二日目。


 名札は、昨日置いた場所にある。


 誰かが動かした形跡はない。空白は、そのままだ。


 モノカゲは机を拭き、名札の周囲を自然に避ける。避ける動線が、すでに作業の一部になっている。


 断片が届く。


 今日は、声だけが残る。


 名前の前で途切れる声。


 呼ばれた人の足音。


 残る空間。


 モノカゲは名札を一度、机の中央に戻した。中央に置いても、意味は立ち上がらない。


 すぐに、元の位置へ戻す。


 午前中、別の名札が返却される。名前を呼ばれ、持ち主の手に戻り、終わる。


 空白の名札は、終わらない。


 昼。


 名札を記録しようと、もう一度記録用紙を取り出す。所有者欄を見る。空白のままでもいいはずだ。


 けれど、この空白は「未記入」ではない。


 書き込まないという判断も、ここでは成立しない。


 モノカゲは紙を揃え、引き出しに戻した。


 カゲマルは入口の近くにいる。人の出入りに合わせて位置を変えるが、名札からは一定の距離を保つ。


 夕方。


 名札は、人が立つ位置の近くにある。


 呼ばれないまま、そこにある。


 *


 三日目。


 名札は、そこにあることが前提になる。


 確認する動作は、省かれる。


 人は来て、帰る。名前は呼ばれ、返却は終わる。


 空白の名札は、呼ばれない。


 断片は、ほとんど届かない。


 届かないことが、異常ではなくなる。


 モノカゲは名札を管理しない。


 名前を探さない。


 仮の名前も付けない。


 ただ、名前を要求されない場所に置いたままにする。


 カゲマルは、その近くで動かない。


 時間は進む。


 センターは開いている。


 仕事は続いている。


 名前のない名札が、呼ばれることのない位置に残っている。


 *


 四日目。


 朝の光は、昨日より少しだけ強かった。入口のガラスに反射した白さが床に広がり、名札の透明なカバーにも薄く映る。モノカゲはその反射を確かめることなく、いつものように机へ向かった。


 名札は、人が立つ位置の近くにある。


 もう「移された物」ではない。そこに置かれる前提で、空間が出来上がっている。


 モノカゲは机を拭く。布は名札の周囲を円を描くように避け、触れない。触れない動作が、意識されなくなっている。


 断片は、ほとんど届かない。


 今日は、人の気配だけだった。


 足音が近づき、止まり、また離れる。その間に、名前が呼ばれることはない。


 午前中、センターの外で呼びかける声がした。誰かを探す声だ。名前は聞こえたが、名札には結びつかない。


 名札は動かない。


 昼過ぎ、モノカゲは名札を一度持ち上げ、裏面を確かめた。留め具は正常で、紐も切れていない。名前を書く欄には、傷も汚れもない。


 書く余地は、十分にある。


 けれど、何を書くのかが決まらない。


 決まらないまま、名札を元の位置に戻す。


 カゲマルは、その動きに合わせて少し位置を変えた。高くも低くもなく、人の視線の外側。


 夕方。


 名札の近くで、人が立ち止まることがあった。呼び出しを待つ人だ。視線が名札をかすめるが、気づかれない。


 名札は、呼ばれる前提から外れた場所にある。


 *


 五日目。


 名札は、境界の一部になる。


 境界線を示すテープや印はない。名札の位置そのものが、ここが「呼ばれない側」であることを示している。


 モノカゲは朝の作業を進めながら、名札の存在を前提に動く。避けるでもなく、意識するでもなく、ただそこにあるものとして。


 断片は、ほとんど完全に届かなくなる。


 届かないことが、異変ではなくなる。


 午後、別の名札が返却される。名前を呼ばれ、確認され、持ち主の手に戻る。流れは滑らかだ。


 その横で、名前のない名札は動かない。


 夕方、モノカゲは名札を数ミリだけ動かした。境界に沿って、昨日と同じ距離。


 動かしたという事実だけが、作業になる。


 カゲマルは、その位置に合わせて身体を寄せる。説明することも、促すこともない。


 閉館の時間が来る。


 灯りを落とす前、モノカゲは名札を見る。空白は、今日も埋まらない。


 名前は与えられない。


 探されもしない。


 それでも、名札はそこにある。


 時間は進む。


 センターは開き、閉じる。


 仕事は続く。


 ただ、呼ばれない名前を抱えたまま。


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