忘れ物52 返却されなかった返却物
# 忘れ物52 返却されなかった返却物
入口の前に、箱が置かれていた。
開館の時間より少し前、モノカゲが鍵を回し、扉を開けたとき、最初に目に入ったのがそれだった。返却トレーではない。棚の近くでもない。入口のすぐ内側、外へ向かう動線の脇に、段ボール箱が一つ。
箱は新しくも古くも見えなかった。角は潰れておらず、底も抜けていない。側面には「返却用」と印刷された文字があり、その上から一度貼られたであろうテープの跡が残っている。剥がしたあとが、少しだけ白くなっていた。
宛名欄は空白だった。
モノカゲは箱の前で一度止まり、靴先の位置を揃えてから中に入った。扉を閉め、いつものように照明を点ける。床に光が落ち、箱の影がはっきりする。
箱は、返されるはずの物だった。
机を拭く前に、モノカゲは箱に近づいた。膝を折り、上から覗く。蓋は軽く閉じられているだけで、固定されていない。指をかけて開くと、箱の中は空だった。
何も入っていない。
緩衝材も、紙も、袋もない。箱としては、完全に空だ。
触れた瞬間、断片が届いた。
箱を閉じる手。
テープを引く音。
宛名欄を見る視線。
ペンを持つ手。
書かれない。
箱が持ち上げられる。
しかし、運ばれない。
開ける。
中は、空。
モノカゲは箱の蓋を戻し、ゆっくりと立ち上がった。箱はそのまま、入口の近くにある。
机を拭く作業に入る。布を広げ、中央から端へ、端から中央へ。返却トレーの縁をなぞり、最後に机の手前を拭く。布は箱に触れない。避けるというより、動線に含まれていない。
境界に置かれた整理券は、番号のないままそこにある。日付のない書類も、決まった位置にある。名前のない名札は、人が立つ位置の近くに置かれている。
箱だけが、入口に近い。
モノカゲは箱を持ち上げ、机の近くへ運ぼうとした。持ち上げると、思ったより軽い。中が空であることを、手の感触が確かめる。
机の横まで来て、止まる。
机の上に置くと、返却物として扱われる。棚に置けば、保管になる。返却トレーに入れれば、問い合わせを待つ。
どれも、合わない。
モノカゲは箱を持ったまま、棚の前に立った。棚には返却を待つ箱も並んでいる。宛名が書かれ、封がされ、中身がある箱たちだ。
中身のない箱を並べると、返却の意味だけが先に固定される。
固定する理由は、まだない。
モノカゲは箱を床に戻した。戻した位置は、入口から一歩分だけ内側。外へ出すわけでもなく、中に収めるわけでもない。
カゲマルは箱の周囲を回った。中を覗かない。箱の角に鼻先を近づけ、すぐに離れる。高い位置へは行かず、入口と机の間を往復する。
午前中、来客があった。
返却物を取りに来た人だ。小さな箱に入れられた品を確認し、宛名を読み、受け取る。箱はそのまま持ち帰られ、返却は終わる。
そのやり取りを、入口の箱は見ていた。
返却が終わる様子を。
昼過ぎ、モノカゲは箱をもう一度開けた。空だ。中身は増えていない。増える理由もない。
宛名欄を見る。白いままだ。
書こうと思えば、何かを書ける。だが、誰に返すのかが決まらない。決まらないまま、書くことはできない。
返却トレーに入れてみる、という選択肢も浮かぶ。だが、返却トレーは「返す相手がいる」前提の場所だ。
この箱には、相手がいない。
モノカゲは箱を、元の位置よりほんの少しだけ内側に動かした。入口に近いが、出ていく動線からは外れている。
夕方。
箱の位置は、変わらない。
問い合わせは来ない。
箱について尋ねる人もいない。
閉館の時間になり、モノカゲは箱を見る。返却されないまま、一日が終わる。
*
二日目。
箱は、昨日と同じ位置にあった。
誰かが動かした形跡はない。宛名欄は空白のまま。テープの跡も変わらない。
モノカゲは机を拭き、箱の周囲を避けて動く。避ける動作が、もう特別ではない。
断片が届く。
箱を閉じる手。
宛名欄を見る視線。
書かれない。
それだけが、短く繰り返される。
午前中、別の返却箱が棚から出される。中身があり、宛名があり、返されて終わる。
入口の箱は、終わらない。
昼。
モノカゲは箱を持ち上げ、ほんの数歩だけ動かしてみた。返却トレーの方へ一歩。すぐに止まる。
返却トレーの中には、入らない。
棚の方へ一歩。こちらも止まる。
箱を、元の位置に戻す。
戻すという行為が、処理になる。
カゲマルは、その動きに合わせて位置を変える。箱の外周をなぞるように、距離を保つ。
夕方。
箱は、入口に留められている。
*
三日目。
箱がそこにあることが、前提になる。
確認する動作は、省かれる。
人は来て、返却は終わり、箱は出ていく。
この箱だけが、出ていかない。
断片は、ほとんど届かない。
届かないことが、異常ではなくなる。
モノカゲは箱を返そうとしない。
処分もしない。
解体もしない。
ただ、返却を要求されない位置に置いたままにする。
カゲマルは、その近くで動かない。
時間は進む。
センターは開き、閉じる。
仕事は続く。
返却されるはずだった箱が、返却を終えないまま、入口に留められている。
*
四日目。
朝、入口の光は箱の側面をかすめて伸びていた。段ボールの表面に刷られた「返却用」の文字が、少しだけ白く浮く。モノカゲはその文字を読むことなく、靴先の位置を揃えて中に入った。
箱は、もう「置かれた物」ではなかった。入口の動線の一部として、そこにある。
机を拭く布は、自然に箱を避ける。避けるという動作が、意識に上らない。動線が先に決まり、身体がそれに従う。
断片は、ほとんど届かない。
今日は、音だけだった。
テープが剥がれる音。
箱を閉じる音。
そのあとに来るはずの、運ばれる音が来ない。
午前中、入口付近で立ち止まる人がいた。外を確認し、すぐに去っていく。箱には触れない。視線も向けない。
箱は、返却の気配を持たない。
昼過ぎ、モノカゲは箱の側面を軽く押した。中が空であることが、押し返す力のなさで分かる。箱は動くが、位置は変えない。
動かせることと、動かすことは違う。
棚の前に立つ。返却箱が並ぶ棚には、今日もいくつかの箱が出入りしている。入って、出て、役目を終える。
入口の箱は、そこに加わらない。
夕方。
箱は、入口に近い位置を保ったまま、一日を終える。
*
五日目。
箱がそこにあることを、朝はもう確認しない。
あることが前提になり、作業が始まる。
人は来て、返却を終え、箱は出ていく。
入口の箱だけが、残る。
断片は、完全に届かなくなる。
届かないことが、仕事の一部になる。
モノカゲは箱を持ち上げない。
宛名も書かない。
処分も、解体も、返却もしない。
ただ、入口に留める。
カゲマルは箱の近くで動かない。中にも外にも触れず、境界の線を保つ。
閉館前、モノカゲは入口の箱を見る。
返却用の箱は、返却を終えないまま、今日もそこにある。
外へ出ることもなく、内に収まることもなく。
時間は進む。
センターは開き、閉じる。
仕事は続く。
終わらない返却を、抱えたまま。




