忘れ物41 受領印のない封筒
# 忘れ物41 受領印のない封筒
朝の机は、まだ温まっていない。
忘れ物センターの窓から入る光は、机の端に細い帯を作り、そこから先へは届ききらない。紙の白さは白いままで、影は淡く、輪郭がはっきりしない。時計の針は進んでいるはずだが、その音はここまで来ない。
机の上には、昨日の名残がきちんと片づけられている。ペンはペン立てに戻り、クリップは箱に収まり、紙の端は揃っている。揃っているものは、朝の始まりと似ている。
モノカゲは机の前に立ち、書類の束を一枚ずつ確認していた。返却済み、処理中、保留。それぞれの札が、決まった位置に挟まれている。文字は同じ太さで、日付も揃っている。揃っているものは、流れに乗る。
その中に、一枚だけ、流れに乗らないものがあった。
封筒だ。
茶色の封筒で、角は折れていない。宛名は印刷され、住所もはっきり読める。裏面の封は、すでに切られている。開封済みの封筒。
受領印の欄が、空白だった。
モノカゲは封筒を机の中央に置いた。書類の束から外れた位置。置いただけで、周囲の紙の配置が少し変わる。中心がずれる。
受領印の欄は、白い。
白いままでも、書類は書類だ。宛名があり、内容があり、届いた事実もある。
ただ、「受け取った」という線だけがない。
モノカゲは指先で封筒の端を押さえた。紙はしっかりしている。薄すぎない。大事なものを入れるための厚み。
封筒の口は開いたままではない。開封された切り口が、閉じようとしても閉じきれない形をしている。中の紙は一枚ではないらしく、角が重なって見える。中身は見ない。見れば、内容が生まれる。
——ペン。
聞こえたのは、ペンを持つ音だった。
キャップが外される音。紙の上に影が落ちる。ペン先が、署名欄の上で止まる。
止まったまま、動かない。
紙に触れる音はしない。
息をする音だけが、そこに残る。
その息の速度が、決まらない。速くも遅くもならない。署名欄の白さだけが、そこにある。
モノカゲは封筒から手を離した。ペンを持つ手は、現実にはここにない。それでも、署名欄の白さは、変わらない。
机の下は静かだった。カゲマルの気配はない。いつもなら、机の脚の影に黒と紫が溶けている時間だが、今日は見えない。見えないことが、違和感にならない程度の距離。
モノカゲは窓口のほうを見ずに、封筒の宛名の位置をもう一度だけ確認した。住所の数字が、整って並んでいる。字は印刷で、手書きの揺れがない。
印刷された宛名は、誰かの手の迷いが混じらない。
だから、ここにある。
ベルが鳴った。
受付のベルは、短く鳴る。
モノカゲが顔を上げると、窓口の前に人が立っていた。背丈は平均的で、服装も目立たない。コートを着ていない。季節に合っている。
靴のつま先に、少しだけ水の跡がある。外の天気は、ここからは分からない。
「……こちらに、書類が届いていると聞いて」
声は低くも高くもない。探しているようでもあり、確かめているようでもある。
「受付番号は……」
モノカゲが問いかけると、その人は少しだけ首を傾けた。
「番号は、分からなくて。でも、たぶん……」
言葉が途切れる。
名前が続く気配はあるが、出てこない。
来訪者は視線を窓口の台の角に落とした。角の傷を数えるみたいに。そこには小さな擦れがあり、光が当たると白く見える。
モノカゲは机の中央に置いた封筒を見た。封筒はそこにある。そこにあるだけで、すでに「届いた」という事実を持っている。
「こちらですね」
モノカゲは封筒を持ち上げ、窓口の内側に置いた。受け渡しの距離。互いに一歩ずつ近づけば触れられる位置。
来訪者は封筒を見た。見て、うなずいた。
「……それです」
声は小さい。
モノカゲは返却書類を引き出した。ペンを取り、署名欄の位置を指で示す。
来訪者の視線が、署名欄に落ちる。
落ちて、止まる。
「……」
何も言わない。
モノカゲは促さない。署名を求める言葉は、いつもなら自然に出る。今日は、出ない。
出ない理由を探す前に、手順が止まってしまう。
来訪者は封筒を持ち上げた。持ち上げたまま、しばらく立つ。重さを確かめるようでもあり、確かめていないようでもある。
封筒の縁が指に食い込み、紙がわずかに鳴る。鳴っても、破れない。
「確かに……受け取りました」
言葉は、そう言った。
署名は、ない。
モノカゲはペンを置いた。机の上に、音を立てないように。
来訪者は封筒を胸の前に抱え、少しだけ考えるように立ったあと、そっと机の上に戻した。
戻すときの動作は丁寧だ。乱暴ではない。置いた位置は、最初とほとんど変わらない。
「……やっぱり」
続きは言わない。
来訪者は一歩下がり、軽く頭を下げた。名前は名乗らない。
「また……」
その言葉も、途中で止まる。
止まった言葉は、宙に残らない。残らないまま、消える。
ベルが鳴り、来訪者は去った。
扉が閉まる音は、小さい。
足音は廊下に溶ける。溶けたあと、何も残らない。残らないことだけが残る。
モノカゲは封筒を机の上に残したまま、しばらく動かなかった。返却書類の署名欄は、白い。
白い欄は、書かれなかったのではなく、書けなかったようにも見える。
カゲマルが机の下から現れた。黒と紫の輪郭が、床の影から浮かぶ。封筒には近づかない。視線も向けない。ただ、机の脚の近くに留まる。
近い位置。
人が立っていた場所の近く。
モノカゲは封筒を手に取った。開封された口から、中の書類が少しだけ見える。内容は見ない。見る必要はない。
返却棚に置けば、返却されたことになる。
保留棚に置けば、待つことになる。
倉庫に下げれば、距離ができる。
どれも、今の封筒には当てはまらない。
モノカゲは封筒を、書類の束の間に挟んだ。処理中とも、保留とも書かれていない位置。机の上。
机は、物を置く場所だ。
決まらないものを、一時的に置く場所。
挟まれた封筒は、紙の束の中で浮く。厚みが違う。紙の色が少し違う。浮いているのに、抜けない。
夕方が近づく。
窓の光が机の中央へ伸び、封筒の影が少し長くなる。受領印の欄は、白いまま。
他の書類は片づいていく。棚に戻り、箱に収まり、姿を消す。
封筒だけが残る。
モノカゲは机の上を整えた。ペンを定位置に戻し、紙の端を揃える。封筒は揃えない。
揃えないことで、そこにあることが分かる。
カゲマルは机の下で丸くなる。今日は、棚のほうへ行かない。人が立っていた場所の近くにいる。
封筒は閉じられない。
閉じれば、何かが終わる。
終わらせる理由が、まだない。
窓の外の光が、ゆっくりと色を変えていく。
センターは、いつも通りに動いている。
ただ、受け取られなかったことが、仕事の中に、静かに混ざり始めていた。




