忘れ物42 置いたままの席
忘れ物42 置いたままの席
開館前の忘れ物センターは、いつも同じ匂いがする。
消毒用アルコールと、紙と、少し古い空気。その混ざり方まで、毎朝ほとんど変わらない。
モノカゲはカウンターの内側で、いつものように机を拭いていた。布巾を端から端まで滑らせ、角で一度折り返す。特別な意味はない。昨日も同じ順番で拭いた。明日も、たぶん同じだ。
布巾を戻そうとして、足元で止まった。
机の横に、椅子があった。
折りたたみ式の、どこにでもありそうな椅子だった。金属の脚に、少しだけ艶の落ちた樹脂製の座面。色も形も、思い出そうとすれば思い出せる気がするし、思い出さなくても困らない。
新品ではないが、壊れてもいない。軋みもない。汚れも目立たない。
ただ、使われていない感じがした。
モノカゲはしばらく、その椅子を見下ろしていた。視線を向けている時間が、いつもより少し長い。それだけのことだった。
「……」
何かを思い出そうとしたわけではない。
理由を探したわけでもない。
昨日、ここにあったかどうかを考えようとして、考える前にやめた。
カウンターの奥、棚の方から、かすかな音がした。カゲマルが動いたのだろう。
だが今日は、棚の上にはいない。
床にいた。
カゲマルは、低い位置でじっとしていた。椅子を避けるでもなく、近づくでもなく、通路の途中で止まっている。視線はどこか定まらないまま、椅子と机の間の空間を外していた。
モノカゲは、椅子を動かさなかった。
開館準備の続きをする。受付用の端末を起動し、書類の束を整える。今日の予定表をめくる。いつも通りの手順が、何も変わらず進んでいく。
椅子だけが、机の横に残った。
開館時間になると、数人の来館者が入ってきた。
紙袋を抱えた人。小さな箱を持った人。名前を呼ばれないまま、カウンターの前に立つ人。
誰も椅子を見なかった。
正確には、視界に入っていないわけではないはずだが、気に留める様子がなかった。
モノカゲは、いつもと同じ応対をした。
預かる物を受け取り、番号を振り、棚に向かう。
椅子の横を通るとき、少しだけ動線がずれた。
ほんの数センチ。足が当たらないように、自然に避けるだけの距離。
それでも、椅子はそこにある。
午前の業務が一段落したところで、モノカゲは管理票を一枚取り出した。
空欄に、文字を書こうとする。
品目。
ペン先が止まる。
「……」
椅子、と書けばいい。それだけだ。
そう思ったところで、ペンが動かなかった。
理由は浮かばない。
違和感とも言い切れない。
モノカゲは、管理票を裏返し、もう一度表に戻した。文字を書くための紙としては、何も問題がない。
それでも、貼る場所が思いつかなかった。
棚を見渡す。
保留の棚。
返却待ちの棚。
分類不能の棚。
どれも、違う気がした。
奥の棚の存在が、頭の端をかすめる。
だが、足はそちらに向かなかった。
管理票は、そのまま机の上に置かれた。
昼を過ぎても、椅子は動かない。
来館者が増える時間帯でも、誰も座らなかった。椅子は空いたまま、机の横に置かれている。
モノカゲは、一度だけ、座ることを考えた。
考えただけで、実行しなかった。
代わりに、座面を軽く拭いた。埃はほとんどつかなかった。布巾はすぐにきれいなまま戻ってくる。
そのとき、断片的な情景が浮かんだ。
広い部屋。
机が並び、椅子が等間隔に置かれている。
どの席にも、名前はない。
時間だけが進む。
何かを決めるために集まったはずの人たちが、何も決めないまま立ち上がる。
椅子が引かれ、音がして、部屋は空になる。
そこに残るのは、座られなかった席だけだ。
感情は伴っていなかった。
温度もなかった。
ただ、配置だけが残る。
モノカゲは、その断片を追わなかった。
午後、カゲマルが少しだけ近づいた。
椅子とモノカゲの足元、その間に位置を取る。高いところには登らない。棚にも戻らない。
視線は上がらない。
理由を探る様子もない。
ただ、そこにいる。
夕方、業務終了の時間が近づく。
モノカゲは書類を閉じ、端末を落とした。今日一日の記録を確認する。管理番号が並ぶ中で、一つだけ空白がある。
その空白に、椅子は含まれていない。
含めようとして、やめたわけでもない。
含めないと決めたわけでもない。
ただ、残った。
閉館後、モノカゲは椅子の前に立った。
座らない。
持ち上げない。
少しだけ、位置をずらす。
机から数センチ離す。それだけで、通路は少し広くなった。
椅子は、相変わらず空いたままだ。
カゲマルが、その前に立つ。椅子とモノカゲの間に、自然に収まる位置。
守るようでも、遮るようでもない。
ただ、配置が決まった。
明日の準備を終え、灯りを落とす。
忘れ物センターは、翌日も開く。
棚は整っている。
机の上も片付いている。
椅子だけが、そこに残った。
その席は、今日も空いたままだった。
夜の静けさが、建物の中に満ちていく。外の通りの音が遠くなり、残るのは換気口の低い音だけだった。
モノカゲは、もう一度だけ室内を見回した。見落としがないかを確かめる、いつもの癖だ。棚の札、机の引き出し、窓の施錠。その確認の途中で、視線が自然と椅子に戻る。
そこにある。
あること自体が、確認事項のようになっていた。
消灯したあとも、椅子は暗闇の中で形を保っていた。輪郭が溶けるほどの闇ではない。目を凝らさなくても、そこにあると分かる程度の明るさ。
モノカゲは一歩だけ近づき、止まった。
距離は縮まったが、触れない。
理由は考えない。
ただ、そこで足が止まった。
そのまま鍵を閉め、扉を押す。いつもと同じ音がして、忘れ物センターは夜に入った。
翌朝。
開館前の空気は、昨日と同じ匂いをしていた。アルコールと紙と、少し古い空気。違いを探そうとして、やめる。
鍵を開けると、最初に視界に入るのはカウンターだ。次に棚。そして、机の横の椅子。
位置は、昨日と変わっていなかった。
誰かが動かした形跡もない。
モノカゲは、それを確認してから、いつもの作業を始めた。
布巾を取り、机を拭く。端から端まで。角で折り返す。昨日と同じ順番。
布巾が椅子の脚に触れそうになり、少しだけ軌道を変えた。
それだけのことだ。
カゲマルは、今日も床にいた。昨日とほぼ同じ位置。椅子の正面ではないが、離れてもいない。
動かない。
開館時間が近づくと、外の音が少しずつ近づいてくる。足音、話し声、遠くの車の音。
最初の来館者が扉を開ける。
年配の男性だった。手には小さな布袋を持っている。
カウンターに向かう途中で、椅子の横を通る。
一瞬、足が止まったように見えた。
だが、それは本当に一瞬で、視線は椅子に向かなかった。そのままカウンターに進み、用件を告げる。
モノカゲは、いつも通りに応対した。
布袋を預かり、番号を振る。棚に向かう。
椅子の前を通るとき、また動線がずれた。
昨日と同じずれ方。
通り過ぎたあと、椅子は元のまま残る。
午前中、何人かの来館者があった。
子どもを連れた人。
書類の束を抱えた人。
何も持たずに立ち寄った人。
誰も椅子に座らない。
誰も、はっきりと椅子を見ることはない。
それでも、全員がわずかに避けて通る。
モノカゲは、そのことを数えることもしなかった。
昼前、電話が鳴った。忘れ物の問い合わせだった。対応を終え、受話器を戻す。
そのとき、椅子の座面に落ちる光の角度が変わった。
窓から差し込む光が、少しだけずれている。
椅子は、光を受けている。
受けているだけで、何も返さない。
午後、管理票の整理をする時間になった。
机の上には、記入済みの紙が並ぶ。その中に、一枚だけ、白いままの管理票がある。
モノカゲは、その紙を指で揃えようとして、手を止めた。
白いままの紙は、他の紙と重ねると、すぐに分からなくなる。
だが、重ねなかった。
端に置く。
それだけで、机の上に小さな空きができる。
空きは、すぐに埋まらない。
午後の来館者が続く中で、カゲマルが一度だけ位置を変えた。
椅子から半歩、モノカゲ側に寄る。
それ以上は近づかない。
モノカゲは、その変化に反応しなかった。
夕方、外の光が弱くなる。
業務終了の時間が近づくと、センター全体が少しずつ静かになる。人の出入りが減り、音が減る。
最後の来館者を送り出したあと、モノカゲは扉の前で一度振り返った。
椅子は、そこにある。
昨日と同じ位置。
朝と同じ形。
モノカゲは、椅子の前に立つ。
座らない。
持ち上げない。
名前を付けない。
ただ、そこにあることを確認する。
そして、ほんのわずかだけ、向きを変えた。
机に対して、少しだけ斜めになる。
理由はない。
動線が変わるほどではない。
それでも、配置は昨日と違う。
カゲマルは、その動きに合わせて位置を取り直した。椅子とモノカゲの間。ちょうど影が重なる場所。
見上げない。
音も立てない。
灯りを落とす。
センターは、また夜に入る。
棚は整っている。
記録は揃っている。
それでも、机の横には、名前のない席が残っている。
その席は、今日も使われなかった。
そして、まだ、どこにも行っていない。




