表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘れ物センター便り  作者: にめ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

43/69

忘れ物42 置いたままの席

忘れ物42 置いたままの席


 開館前の忘れ物センターは、いつも同じ匂いがする。

 消毒用アルコールと、紙と、少し古い空気。その混ざり方まで、毎朝ほとんど変わらない。


 モノカゲはカウンターの内側で、いつものように机を拭いていた。布巾を端から端まで滑らせ、角で一度折り返す。特別な意味はない。昨日も同じ順番で拭いた。明日も、たぶん同じだ。


 布巾を戻そうとして、足元で止まった。


 机の横に、椅子があった。


 折りたたみ式の、どこにでもありそうな椅子だった。金属の脚に、少しだけ艶の落ちた樹脂製の座面。色も形も、思い出そうとすれば思い出せる気がするし、思い出さなくても困らない。


 新品ではないが、壊れてもいない。軋みもない。汚れも目立たない。

 ただ、使われていない感じがした。


 モノカゲはしばらく、その椅子を見下ろしていた。視線を向けている時間が、いつもより少し長い。それだけのことだった。


 「……」


 何かを思い出そうとしたわけではない。

 理由を探したわけでもない。


 昨日、ここにあったかどうかを考えようとして、考える前にやめた。


 カウンターの奥、棚の方から、かすかな音がした。カゲマルが動いたのだろう。

 だが今日は、棚の上にはいない。


 床にいた。


 カゲマルは、低い位置でじっとしていた。椅子を避けるでもなく、近づくでもなく、通路の途中で止まっている。視線はどこか定まらないまま、椅子と机の間の空間を外していた。


 モノカゲは、椅子を動かさなかった。


 開館準備の続きをする。受付用の端末を起動し、書類の束を整える。今日の予定表をめくる。いつも通りの手順が、何も変わらず進んでいく。


 椅子だけが、机の横に残った。


 開館時間になると、数人の来館者が入ってきた。

 紙袋を抱えた人。小さな箱を持った人。名前を呼ばれないまま、カウンターの前に立つ人。


 誰も椅子を見なかった。

 正確には、視界に入っていないわけではないはずだが、気に留める様子がなかった。


 モノカゲは、いつもと同じ応対をした。

 預かる物を受け取り、番号を振り、棚に向かう。


 椅子の横を通るとき、少しだけ動線がずれた。

 ほんの数センチ。足が当たらないように、自然に避けるだけの距離。


 それでも、椅子はそこにある。


 午前の業務が一段落したところで、モノカゲは管理票を一枚取り出した。


 空欄に、文字を書こうとする。


 品目。


 ペン先が止まる。


 「……」


 椅子、と書けばいい。それだけだ。

 そう思ったところで、ペンが動かなかった。


 理由は浮かばない。

 違和感とも言い切れない。


 モノカゲは、管理票を裏返し、もう一度表に戻した。文字を書くための紙としては、何も問題がない。


 それでも、貼る場所が思いつかなかった。


 棚を見渡す。


 保留の棚。

 返却待ちの棚。

 分類不能の棚。


 どれも、違う気がした。


 奥の棚の存在が、頭の端をかすめる。

 だが、足はそちらに向かなかった。


 管理票は、そのまま机の上に置かれた。


 昼を過ぎても、椅子は動かない。


 来館者が増える時間帯でも、誰も座らなかった。椅子は空いたまま、机の横に置かれている。


 モノカゲは、一度だけ、座ることを考えた。


 考えただけで、実行しなかった。


 代わりに、座面を軽く拭いた。埃はほとんどつかなかった。布巾はすぐにきれいなまま戻ってくる。


 そのとき、断片的な情景が浮かんだ。


 広い部屋。

 机が並び、椅子が等間隔に置かれている。


 どの席にも、名前はない。


 時間だけが進む。


 何かを決めるために集まったはずの人たちが、何も決めないまま立ち上がる。


 椅子が引かれ、音がして、部屋は空になる。


 そこに残るのは、座られなかった席だけだ。


 感情は伴っていなかった。

 温度もなかった。


 ただ、配置だけが残る。


 モノカゲは、その断片を追わなかった。


 午後、カゲマルが少しだけ近づいた。


 椅子とモノカゲの足元、その間に位置を取る。高いところには登らない。棚にも戻らない。


 視線は上がらない。


 理由を探る様子もない。


 ただ、そこにいる。


 夕方、業務終了の時間が近づく。


 モノカゲは書類を閉じ、端末を落とした。今日一日の記録を確認する。管理番号が並ぶ中で、一つだけ空白がある。


 その空白に、椅子は含まれていない。


 含めようとして、やめたわけでもない。

 含めないと決めたわけでもない。


 ただ、残った。


 閉館後、モノカゲは椅子の前に立った。


 座らない。

 持ち上げない。


 少しだけ、位置をずらす。


 机から数センチ離す。それだけで、通路は少し広くなった。


 椅子は、相変わらず空いたままだ。


 カゲマルが、その前に立つ。椅子とモノカゲの間に、自然に収まる位置。


 守るようでも、遮るようでもない。


 ただ、配置が決まった。


 明日の準備を終え、灯りを落とす。


 忘れ物センターは、翌日も開く。


 棚は整っている。

 机の上も片付いている。


 椅子だけが、そこに残った。


 その席は、今日も空いたままだった。


 夜の静けさが、建物の中に満ちていく。外の通りの音が遠くなり、残るのは換気口の低い音だけだった。


 モノカゲは、もう一度だけ室内を見回した。見落としがないかを確かめる、いつもの癖だ。棚の札、机の引き出し、窓の施錠。その確認の途中で、視線が自然と椅子に戻る。


 そこにある。


 あること自体が、確認事項のようになっていた。


 消灯したあとも、椅子は暗闇の中で形を保っていた。輪郭が溶けるほどの闇ではない。目を凝らさなくても、そこにあると分かる程度の明るさ。


 モノカゲは一歩だけ近づき、止まった。


 距離は縮まったが、触れない。

 理由は考えない。


 ただ、そこで足が止まった。


 そのまま鍵を閉め、扉を押す。いつもと同じ音がして、忘れ物センターは夜に入った。


 翌朝。


 開館前の空気は、昨日と同じ匂いをしていた。アルコールと紙と、少し古い空気。違いを探そうとして、やめる。


 鍵を開けると、最初に視界に入るのはカウンターだ。次に棚。そして、机の横の椅子。


 位置は、昨日と変わっていなかった。


 誰かが動かした形跡もない。


 モノカゲは、それを確認してから、いつもの作業を始めた。


 布巾を取り、机を拭く。端から端まで。角で折り返す。昨日と同じ順番。


 布巾が椅子の脚に触れそうになり、少しだけ軌道を変えた。


 それだけのことだ。


 カゲマルは、今日も床にいた。昨日とほぼ同じ位置。椅子の正面ではないが、離れてもいない。


 動かない。


 開館時間が近づくと、外の音が少しずつ近づいてくる。足音、話し声、遠くの車の音。


 最初の来館者が扉を開ける。


 年配の男性だった。手には小さな布袋を持っている。


 カウンターに向かう途中で、椅子の横を通る。


 一瞬、足が止まったように見えた。


 だが、それは本当に一瞬で、視線は椅子に向かなかった。そのままカウンターに進み、用件を告げる。


 モノカゲは、いつも通りに応対した。


 布袋を預かり、番号を振る。棚に向かう。


 椅子の前を通るとき、また動線がずれた。


 昨日と同じずれ方。


 通り過ぎたあと、椅子は元のまま残る。


 午前中、何人かの来館者があった。


 子どもを連れた人。

 書類の束を抱えた人。

 何も持たずに立ち寄った人。


 誰も椅子に座らない。


 誰も、はっきりと椅子を見ることはない。


 それでも、全員がわずかに避けて通る。


 モノカゲは、そのことを数えることもしなかった。


 昼前、電話が鳴った。忘れ物の問い合わせだった。対応を終え、受話器を戻す。


 そのとき、椅子の座面に落ちる光の角度が変わった。


 窓から差し込む光が、少しだけずれている。


 椅子は、光を受けている。


 受けているだけで、何も返さない。


 午後、管理票の整理をする時間になった。


 机の上には、記入済みの紙が並ぶ。その中に、一枚だけ、白いままの管理票がある。


 モノカゲは、その紙を指で揃えようとして、手を止めた。


 白いままの紙は、他の紙と重ねると、すぐに分からなくなる。


 だが、重ねなかった。


 端に置く。


 それだけで、机の上に小さな空きができる。


 空きは、すぐに埋まらない。


 午後の来館者が続く中で、カゲマルが一度だけ位置を変えた。


 椅子から半歩、モノカゲ側に寄る。


 それ以上は近づかない。


 モノカゲは、その変化に反応しなかった。


 夕方、外の光が弱くなる。


 業務終了の時間が近づくと、センター全体が少しずつ静かになる。人の出入りが減り、音が減る。


 最後の来館者を送り出したあと、モノカゲは扉の前で一度振り返った。


 椅子は、そこにある。


 昨日と同じ位置。

 朝と同じ形。


 モノカゲは、椅子の前に立つ。


 座らない。


 持ち上げない。


 名前を付けない。


 ただ、そこにあることを確認する。


 そして、ほんのわずかだけ、向きを変えた。


 机に対して、少しだけ斜めになる。


 理由はない。


 動線が変わるほどではない。


 それでも、配置は昨日と違う。


 カゲマルは、その動きに合わせて位置を取り直した。椅子とモノカゲの間。ちょうど影が重なる場所。


 見上げない。


 音も立てない。


 灯りを落とす。


 センターは、また夜に入る。


 棚は整っている。

 記録は揃っている。


 それでも、机の横には、名前のない席が残っている。


 その席は、今日も使われなかった。


 そして、まだ、どこにも行っていない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ