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忘れ物センター便り  作者: にめ


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忘れ物40 受け取り手のない紙袋

# 忘れ物40 受け取り手のない紙袋


朝の空気は、まだ硬い。


忘れ物センターの窓ガラスに、外の光が薄い膜のように張りついている。床の白さは白いままで、影は短く、角が立っている。扉の向こうから聞こえる音は少ない。始業の時間はとっくに過ぎているのに、今日の朝は、何かを急がせない。


モノカゲは返却棚の前に立っていた。


返却棚は、戻るものが戻るための場所だ。札が整い、箱が並び、袋が並ぶ。受け取りが済めば、棚から消える。消えた分だけ、空きが生まれる。空きがあるから、次のものを置ける。


棚の中央あたりに、紙袋が一つ残っている。


取っ手の付いた、普通の紙袋。印刷されたロゴもない。色は少し薄い茶で、角が折れていない。口は閉じられていないが、開きっぱなしでもない。中身が見えない程度に、少しだけ折り返されている。


返却済みの札が、取っ手の付け根に貼られている。


札の角は、少しだけ丸くなっていた。紙がそこにある時間が、短くない。


モノカゲは札を指で押さえ、日付を確かめた。今日の日付ではない。昨日でもない。


間違いではない。


記録を見れば、返却の手続きは完了している。連絡も、規定の通りに行われている。書類の線は揃い、番号も整っている。間違う場所がない。


それでも、紙袋はここにある。


モノカゲは紙袋に手を伸ばし、取っ手の片方を軽く持ち上げた。紙が鳴らない程度の力で。


中身の重さが、手に乗る。


軽すぎない。重すぎない。持ち帰るには十分な重さ。


モノカゲは紙袋を持ち上げたまま、口元の折り返しを見た。覗かない。覗く必要がないわけではない。覗けば、何かが確定してしまうから。


床の近くで、カゲマルが動いた。


作業台の脚の影から、黒と紫の輪郭が少しだけ伸びる。近づいてくるのかと思うと、途中で止まった。距離を保ったまま、首を少し傾ける。


カゲマルは紙袋を見ない。見ないようにしているのとも違う。視線は紙袋の少し手前、棚板の角を見ている。角の位置を確かめるみたいに。


モノカゲは紙袋を棚に戻した。元の位置に戻すのではなく、ほんの少しだけ置き直す。紙袋の底が棚板に触れる音は小さい。


「……」


声は出さない。出す必要がない。


返却棚の前に立ち止まる時間が、少しだけ長くなる。長くなっても、誰にも迷惑はかからない。朝の業務は始まっていても、急ぐものはまだない。


モノカゲは返却棚の横に置かれた記録箱を開け、紙袋の番号を指でなぞった。指でなぞるだけで、記録は記録のまま。


受け取りの欄は、空白。


空白は、書かれていないのではなく、書かれないままになっている。


モノカゲは箱を閉めた。


ベルが鳴る。


受付のベルではない。奥のほうで、小さなベルが一度だけ鳴った。作業用の合図。誰かが荷物を運び込んだときの音。


モノカゲは返却棚から離れ、作業台へ向かった。


今日の荷は、段ボール箱が二つ。紙袋が一つ。手袋のまま段ボール箱を開け、内容物を確かめる。傘。ハンカチ。名札のついたキーホルダー。ふつうの忘れ物。


ふつうの忘れ物は、ふつうに片づく。


ふつうに片づくから、棚が動く。


棚が動くから、残るものが残る。


モノカゲは傘を拭き、ハンカチを畳み、キーホルダーの記録を取った。ペン先の動きは一定。字の太さも一定。


カゲマルは作業台の下で丸くなる。今日は、梁には行かない。低い位置にいる。低い位置にいるのに、落ち着いているとも言い切れない。尾が、床を一度だけ払う。


午前の受付が始まり、何人かが窓口に来た。


「鍵が……」


「傘、届いてますか」


「子どもの帽子……」


モノカゲはそれぞれの記録を取り、棚へ案内し、必要な手続きを進めた。受け渡しの距離は、いつも通り。手が届く距離に置き、相手が伸ばすまで待つ。


相手が伸ばした手に、物が移る。


移ったら、棚から消える。


棚から消えれば、空きが生まれる。


空きができれば、次が入る。


返却棚も同じだ。


同じはずだ。


午前の終わりが近づくころ、モノカゲは返却棚の前に戻った。


紙袋は、そこにある。


午前の間に、棚のものは減っている。消えた場所に、別の返却物が置かれている。動いたものは動いた。


紙袋だけが動いていない。


札は、同じ角度で貼られたまま。


モノカゲは紙袋を持ち上げ、返却済みの札の下にある番号を確かめた。見慣れた数字。見慣れた筆跡。


モノカゲ自身が書いたものだ。


書いた記憶がある。


記憶があることと、受け取られることは、別だ。


モノカゲは紙袋の取っ手を指で整えた。取っ手が絡まないように。誰かの手が入ったときに引っかからないように。


その動作は、待つための準備。


——玄関。


聞こえたのは、玄関の音だった。


靴が揃えられている。ドアの鍵が回る音。ドアが開く音。外の風が一瞬だけ入る。


紙袋が持ち上げられる。


紙が擦れる。


持ち上げられた重さが、腕に乗る。


でも、次が続かない。


紙袋は、すぐに置き直される。


置き直す音。


取っ手が一度だけ、床に当たる。


ドアが閉まる。


鍵が回る。


室内は、明るい。


明るいまま、音だけが途切れる。


モノカゲは紙袋を棚に戻した。今度は、元の位置に戻した。余計なことをしないように。


カゲマルが返却棚の手前まで来ていた。


棚の前で止まり、鼻先を少し上げる。匂いを確かめるような動き。しかし、紙袋には触れない。触れないまま、しばらくそこにいる。


モノカゲはカゲマルを見ない。見れば、意味が増える。意味が増えれば、決まる。


決まらないまま置くには、見ないまま作業を続ける。


モノカゲは記録箱を開き、紙袋のページをもう一度だけ開いた。連絡履歴はある。日時もある。担当欄もある。


受け取りの欄は、空白。


空白のままでも、記録は成立している。


成立しているのに、終わらない。


終わらないものは、終わらないままになる。


モノカゲはページを閉じ、箱を閉めた。


昼が過ぎる。


窓の光の角度が変わり、返却棚の影が少し伸びた。紙袋の影も伸びる。伸びても、紙袋は動かない。


返却棚には、新しい物が増え、また減る。動く。


紙袋だけが残る。


モノカゲは、紙袋を別の位置へ移した。


返却棚の中央から、端へ。


移した距離は、指の幅ほどではない。棚板の端に寄せるだけ。端に寄せれば、中央が空く。中央が空けば、他の物が並びやすい。


棚札は替えない。


日付も書き足さない。


返却済みの札も剥がさない。


ただ、端に寄せる。


端に寄せられた紙袋は、見える。


見えるけれど、目立たない。


目立たないけれど、消えない。


カゲマルは、その作業を少し遠くから見ていた。近づいたり離れたりを繰り返す。一定の距離が決まらない。足元の影が揺れる。


モノカゲは紙袋の取っ手をもう一度だけ整えた。取っ手の片方が、少し内側に倒れていた。起こして、揃える。


揃えると、誰かが持てる形になる。


持てる形になると、持たれないことが目立つ。


目立つことが増えると、棚の空気が変わる。


変わっても、センターの業務は続く。


夕方の光が、棚の端を横切った。


紙袋の側面が、少しだけ白くなる。紙の繊維が見える。そこには、何も書かれていない。宛名も、メモも、ない。


中身は、見ない。


見ないままでも、重さは分かる。


重さがある。


重さがあるのに、動かない。


モノカゲは作業台へ戻り、書類の束を揃えた。ペンを定位置に置く。机の角度を整える。紙の端の影が同じ形になるように。


カゲマルは作業台の下に戻り、丸くなる。丸くなっても、目は閉じない。


返却棚の端の紙袋は、そこにある。


返却済みの札は、同じ角度。


受け取りの欄は、空白のまま。


窓の光だけが、ゆっくり場所を変えていく。


センターは、いつも通りに動いている。


ただ、終わらないものが、終わらないまま、棚の端に残っていた。


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