忘れ物39 空になった薬箱
# 忘れ物39 空になった薬箱
朝の光は、窓の角に細い線を引いた。
忘れ物センターの床に落ちる影は、まだ短い。空調の風は弱く、紙の束の端を揺らすほどでもない。受付のベルは鳴らず、外の足音も遠い。始業の時間は過ぎているのに、空気だけが少し遅れている。
ガラスの向こうには人の往来があるはずなのに、音は薄い。電車の通る気配が一度だけして、すぐに消える。ここでは、何かが来て、去っていく速度が、少しだけ違う。
モノカゲは返却棚の前に立っていた。
返却棚は、戻るものが戻るための場所だ。棚札はきれいに揃い、箱も袋も同じ向きを向いている。返却済みの札が付いたものは、時間が経てば棚から消える。受け取られたなら、その場所は空く。
空くはずの場所に、今日は小さな箱があった。
透明な蓋のついた、薬箱。
蓋の留め具は壊れていない。角も欠けていない。仕切り板もきちんと入っている。どこかの家庭で、引き出しの中に収まっていそうな大きさ。
ただ、中は空だった。
モノカゲは箱を手に取った。手袋越しに、プラスチックの軽さが伝わる。軽い。軽い箱は、持ち上げやすい。
返却済みの札が、端に小さく貼られている。日付も番号も、間違っていない。手続きの線は、きちんと引かれている。
戻るべきものは、戻った。
それでも、ここにある。
棚の「ここにある」は、置き忘れではない。置かれた事実だ。
カゲマルは作業台の下にいた。床の影と重なっている。目が合う前に、尾が一度だけ動き、影が少し揺れた。嫌がる気配はない。ただ、箱には近づかない。
モノカゲは薬箱を作業台に置いた。透明な蓋の向こうに、何もない仕切りが見える。仕切りは、あるべきものの形を覚えているみたいに並んでいる。
仕切りの底は、きれいすぎない程度にきれいだ。水で洗った跡はない。薬の匂いも、ほとんど残っていない。残っているのは、箱が箱であった時間だけ。
モノカゲは蓋の端を押さえ、留め具のかかりを確かめた。開ける前の確認。箱が「閉まる」ことは、箱の役目の一つだ。
——台所。
聞こえてきたのは、硬い音だった。
朝の台所。蛇口から水が落ちる。コップに水が注がれる。遠くで湯気が鳴る。鍋のふたが少しだけ揺れる音。窓の外で鳥の声が途切れる。
薬箱の蓋が開く。
プラスチックの小さな音。
仕切りの中は、空。
空を確かめるように、指が一度だけ仕切りをなぞる。そこにあるはずの包装の感触がない。紙の擦れる音も、銀色の包装の音も聞こえない。
蓋が閉まる。
その動作は、急いでいない。乱暴でもない。日課のように閉められる。
コップが置かれる音。
それから、何も続かない。
次の動作が来ないまま、台所の音だけが続く。水が止まる。布巾が何かを拭く。引き出しが閉まる。別の場所で、椅子が擦れる。
薬箱は、そこに置かれたまま。
モノカゲは息を変えずに手を離した。薬箱の透明な蓋は光を受け、白く反射する。中身のない反射。
分類札の束を引き寄せ、『生活用品』の位置に指を置く。薬箱は、そこに入る。入るはずだ。
しかし、指が止まる。
薬箱は生活用品だ。けれど、中身のない薬箱は、ただの箱でもある。
箱は、箱であるだけで、役目が薄れる。
役目が薄れると、置き場所が増える。
置き場所が増えると、戻す場所が減る。
モノカゲは札を戻し、代わりに返却書類の束を一枚引き出した。白い紙。項目が並び、空欄が残る。空欄は、埋めるためにある。
紙の端を揃え、ペン先を確かめる。キャップを外す動作が、いつもよりゆっくりになる。ゆっくりになっても、遅れない。
ベルが鳴った。
入口のベルは、いつも通りの音で鳴った。短く、乾いた。
「こんにちは」
窓口の前に、人が立っていた。薄いコートを着ている。髪は整っていて、顔色も悪くない。荷物は小さい。探し回って来た人の息の荒さはない。
「これ、こちらで受け取ったんですけど」
人はそう言いながら、レジ袋のような小さな袋を差し出した。袋の取っ手が少し伸びている。中に、透明な薬箱が見える。
モノカゲは作業台の上の薬箱に視線を落とし、それから窓口の袋へ戻した。
二つの箱は、同じ形だった。透明な蓋の角度も、仕切りの並びも。
「記録があります」
モノカゲが言うと、来訪者は小さくうなずいた。
「ですよね」
来訪者は、袋を持ったまま言った。持ったまま、ということが少しだけ長い。置けば手が空くのに、置かない。
「中、空でした」
言葉はそれだけ。
空、という単語が、箱の中の仕切りと重なる。
モノカゲは返却書類を指先で整えた。紙の端が揃う。揃うことで、出来事が整列する。
「お返しした後、またこちらに届きました」
事実を置く。
来訪者はうなずいた。驚くでもなく、否定もしない。
「ええ。袋ごと出しちゃったみたいで」
袋ごと、という言葉は、軽い。誰かのうっかりのようにも、わざとのようにも聞こえる。判断できない速さ。
来訪者は袋の口を少し開き、薬箱を見せるように傾けた。見せたいのは箱ではなく、中身のなさだ。
「使わないので」
来訪者は付け足した。
モノカゲは薬箱を窓口の内側へ置いた。受け渡しの距離。届く距離にあるが、来訪者は手を伸ばさない。
袋の取っ手を握った指だけが、少しだけ強くなる。
「薬は入っていませんでしたか」
モノカゲの問いは、確認の範囲。
「最初から、入ってなかったです」
来訪者は、少しだけ視線を逸らした。
「だから……もう」
『もう』の続きはない。
カゲマルが作業台の下で姿勢を変えた。前足が少しだけ出て、すぐ引っ込む。近づくでも離れるでもない。
モノカゲは返却の欄にペン先を置き、止めた。
返す。
返した。
返したのに、戻ってきた。
戻ってきたものは、返していないのか。
返したのは、箱だけだったのか。
薬箱は、薬箱の形をしている。
でも、中身がない。
中身がないことは、悪いことではない。使い切ったのかもしれない。使われなかったのかもしれない。どちらでも、断定はできない。
それでも、中身のない仕切りは、空いたまま、そこにある。
透明な蓋の向こうで、仕切りは動かない。
「こちらで処理できます」
モノカゲは言った。処理、という言葉は冷たい。だから、声を低くしない。淡々と。
来訪者は小さく息を吐いた。笑う息ではない。
「お願いします」
『お願いします』は、薬箱に向けられているようにも、空気に向けられているようにも聞こえる。
モノカゲは薬箱の蓋を開けた。中は空。仕切りの底に、小さな粉のようなものが一粒だけ残っている。指で拭えば消える程度。
その粒は、何かの名残なのか、ただの埃なのか分からない。
モノカゲは指を近づけ、触れずに止めた。触れれば消える。消えれば「なかった」ことになる。触れなければ「残る」。
残すべきものかどうかを決めるほどの大きさではない。
モノカゲは蓋を閉めた。音は小さい。
来訪者は袋を持ち直し、窓口から一歩下がった。
「もう、うちにはいらないので」
言い直すように言った。
モノカゲはうなずいた。肯定でも否定でもない。
来訪者は一度だけ箱を見て、すぐ視線を外した。視線の先は、窓口の台の角。
ベルが鳴り、来訪者は去った。
扉が閉まる音が、室内の静けさに混じる。
モノカゲは薬箱を持ち上げた。軽い。軽い箱は、どこにでも置ける。
どこにでも置けるものほど、置き場所を決めにくい。
分類棚に戻すなら、『生活用品』だ。
しかし、そこに戻すと、この薬箱はただの箱になる。
返却棚に戻すなら、『返却』だ。
しかし、返却棚に置けば、また誰かが取りに来るように見える。
保留棚に置くには、『保留』だ。
しかし、保留するほどの何かが残っているのか、分からない。
モノカゲは棚札の列を見た。札の文字は整っていて、同じ太さで並んでいる。言葉は、棚を支える。
言葉にすると、決まる。
決めないままにするには、言葉を増やさない。
作業台の引き出しを開けると、札と紐と、小さな封筒が整列している。道具は必要な順に並んでいる。モノカゲはその並びを見て、手を止めた。札を取り出さない。
札を取り出せば、決まる。
決めないなら、手を戻す。
モノカゲは引き出しを閉め、薬箱を持ったまま棚へ向かった。
棚の端。生活用品の棚の中でも、端。隣の箱との間に、指一本分の空白を作る。
棚の中で、少しだけ分類から外れた位置。
棚札を書き換えない。
新しい札も作らない。
ただ、置く。
薬箱は透明だから、中身のなさが隠れない。隠れないことは、誰かに見せるためではない。ただ、見えてしまう。
カゲマルが作業台の下から出てきた。床を滑るように歩き、棚の手前で止まる。薬箱には触れない。透明な蓋を見て、すぐ目を逸らす。
逸らした先に、何もない。
それでも、目を逸らす。
モノカゲは棚の前で立ち止まり、箱の角度をほんの少しだけ整えた。隣の箱と平行にする。透明な蓋の反射が揃う。
その反射の中で、一瞬だけ、台所の光の色がよみがえる。
——行き先。
空気の流れが変わるような感覚が、ほんの一瞬。
どこかの廊下の匂い。消毒液とも洗剤とも言えない薄い匂い。足音が遠い。ドアが閉まる。鍵が回る音。
すぐに消える。
モノカゲは追わない。追えば、そこに名前がつく。名前がつけば、場所が決まる。
決めないまま置くために、追わない。
モノカゲは作業台へ戻った。返却書類の束を揃え、ペンを定位置に置く。机の上の角度を整える。紙の端の影が同じ形になるように。
薬箱は棚の端にある。
空の仕切りが、透明な蓋の下で整列している。
役目の形だけが残っている。
窓の光が床を横切り、棚の端の影の形を少し変えた。
薬箱は動かない。
センターは、いつも通りに動いている。
ただ、棚の端の空白だけが、少しだけ増えたように見えた。




