沈みゆく泥船
「無理なものは無理です! だって……わたくしにはもう、雀の涙ほどの財産しか残ってないのですから……!」
「は……?」
絞り出すような声で告げるローランドに、ミシュラン宰相は呆けた声を漏らした。
アンリから聞いていたのは、ブリント連合王国の各地に貿易拠点を持ち、その資産は国家予算を超えるほどであること。
これでは、まるで話が違う。
ミシュラン宰相は、思わずアンリを見やる。
だが彼もそれは寝耳に水だったようで、驚いた様子でかぶりを振るばかり。
「どういう、ことじゃ……?」
「半年前までは、確かに宰相閣下のおっしゃるとおりでした。ですが……」
「なんしゃ! 早く言え!」
「資産のほとんどを、株券に換えたんです!」
そう……ローランドは、自らが引き起こした未曽有の好景気に、ほぼ全てを投資してしまったのだ。
「既に信用も失われ、株券は紙切れ同然になってしまいました。……こんなものでよければ、いくらでも差し出しますよ」
「そ、そんな……っ」
頼みの綱だったローランドの財産も当てにすることができなくなったことを悟り、ミシュラン宰相は茫然自失となって膝から崩れ落ちる。
あまりのショックからか、彼の髪がいくつか抜け落ち、顔も十歳は老け込んだように見えた。
五歳以上年の離れた、シャルル王よりも。
「……ここで落ち込んでいても、仕方ありません。この危機を乗り越えるため、良い知恵がないか皆で考えましょう」
大臣の一人が青ざめた表情で力なく告げる。
他の大臣達も頷き、会議は明け方まで及ぶ。
だが決まったことは、ミシュラン宰相が代表して今回の件をシャルル王に報告する、ただそれだけだった。
◇◆◇◆◇
「ミシュラン閣下が、亡くなられたそうだ」
あの騒動から一か月が経った日の午後。
アンリはそう言うと、お茶を口に含んだ。
「まさか彼も、デュバル伯爵にその命を奪われるとは、夢にも思わなかっただろうな」
「わたしも、あの御方はしぶとく生き残るものと思っておりました」
二人はそんな会話を、互いに抑揚のない声で交わす。
彼等にとってオルレイア王国の宰相の死は、その程度のことに過ぎなかった。
とはいえ、デュバル伯爵はどうやって彼の殺害に成功したのだろうか。
常に厳重に警戒しているミシュラン宰相がこのような目に遭うなど、何者かが手引きをしたとしか考えられない。
だが二人はそのことを、言及するつもりもない。
「ですが今回の件、このような結末でよろしかったのでしょうか」
「そうだな……」
結局、設立した会社は倒産し、株券により生じた多額の負債を、隣国〝ハイリグス帝国〟に肩代わりしてもらうことで、かろうじて難を逃れることができた。
……いや、その表現は正しくない。
これから王国はハイリグス帝国に対し、今後一世紀以上にわたる返済を強いられることになるのだ。
なお、今回の元凶であるローランドは、残った僅かな財産を手に国外へ逃亡。
ブリント連合王国に引き渡しを要求したが、どうやらあの男、母国には帰っていないようで、未だ行方はつかめていない。
何より――この一連の顛末を、シャルル王は知らないのだ。
そう……ミシュラン宰相は、結局このことをシャルル王に報告せず仕舞いだった。
彼に失望されたくないという、その一心で。
だが、他の大臣達は、ミシュラン宰相に対しそのことを責めることはできない。
そのせいで、自分が矢面に立たされることを嫌ったのだ。
「不思議なのですが、殿下にその役が回ってはこなかったのですか? 彼等なら、平気で押しつけてきそうなものですが」
「相変わらず辛辣だな。……だが、そうはならなかったよ」
これもまた、全てのきっかけとなったアンリに頼ることを、ミシュラン宰相が受け入れられなかっただけ。
これまで蔑んできた無能の王太子にしてやられた事実など、彼にとって到底認められない。
それだけは、ミシュラン宰相の矜持が許せなかったのだ。
「……殿下のご助言のおかげで、実家のフォンタニエ家は難を逃れることができました」
「それは何より。あんな信用ならない紙屑に大事な財産をつぎ込むなんて、自殺行為だからな」
そう……アンリは最初からこの金融政策が成功するとは、微塵も思っていなかった。
むしろこうなることは、彼にとって自明の理だったのだ。
「そういえば、メロー侯爵家は結局破産したんだったか」
「はい。ハイリグス帝国の商人に、財産を全て差し押さえられたそうです」
アニエスの実家は、クロエの言葉どおり全てを失った。
噂ではメロー侯爵は、その帝国の商人に株券を強く薦められ購入したらしいが、詳しいことは定かではない。
「彼女もあのまま侍女をしていれば、それなりの給金を得られただろうに」
「破綻寸前の王国の財政で、それを賄えるものなのでしょうか」
「手厳しいな」
クロエのごもっともな指摘に、アンリも思わず苦笑する。
「だがそうなると、君にも給金が支払えなくなってしまうが」
「ご冗談を。普段から苦労をかけさせられている分、殿下には必ずお支払いいただきますので」
二人はそんな会話こそしているが、既にアンリは彼女の給金を一生分確保してある。
仮にこの後何が起ころうとも、クロエが路頭に迷うことはない。
「だけど、君もアニエスのように、わざわざ泥船に乗り続ける必要はないんだぞ」
「彼女は侍女を辞して沈んだわけですから、こうして殿下の侍女を続けるのが正解では?」
「どうだろうな」
短く答えると、アンリは窓の外を見つめる。
彼は今、その長い前髪の裏側で、どのような表情を浮かべているのだろうか。
クロエは、窺い知れないアンリの横顔を、静かに見つめていた。
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