一通の手紙
「おはようございます」
朝になり、カーテンを開けるクロエ。
窓から差し込む日の光によって目を覚ますのが、アンリのいつもの変わらない一日の始まりだった。
「おはよう。だが……おや? ひょっとして今日は、機嫌が良い?」
「殿下の目は節穴でしょうか。わたしのどこを見て、そうお思いで?」
彼女の指摘どおり、冷めた表情をしたクロエは上機嫌からかけ離れている。
これでは『節穴』と言われても、仕方ないだろう。
「つまり、私の気のせい、ということか……?」
「そのとおりですね。それより、余計なことを言っている暇があるのなら、早く身支度をしてください」
「……あ、ああ」
叱られてしまい、肩を落としながら支度を整えるアンリ。
毎朝のこととはいえ、見る者が見れば王太子に対しこのような態度、不敬と言わざるを得ない。
だがそれを、クロエに指摘する者は皆無。
むしろ実際は、アンリの世話をしなければならない彼女に、使用人達は同情すら覚えていた。
そんなアンリを除くこの宮殿にいる者達全てを、クロエは心から軽蔑する。
それは、あのシャルル王でさえも。
「それで、今日の公務は?」
「午前中は先の遠征にかかる事後処理についての会議、午後は宰相閣下との会談です」
「そうか」
王太子であるアンリに休みなどなく、朝から夜遅くまで常に公務に追われている。
といっても、彼にできることなど何一つなく、相変わらずただそこにいるだけなのだが。
「それと」
「? これは……」
クロエが差し出したのは、一通の手紙。
それを見たアンリの前髪の隙間から覗く瞳に、仄暗い光が宿った。
それはまるで、光でありながら相反する闇へと引きずり込もうとしているかのように。
◇◆◇◆◇
「やはりイスタニア王国には、賠償金だけでなく領土の一部の割譲を求めるべきですぞ!」
「いやいや、そんなことをすれば周辺諸国が黙っておるまい。忘れたのか? 今回の遠征が、イスタニアの侵略を受ける〝ポルガ王国〟の救援という名目で行ったことを」
「…………………………」
宮殿のサロンで闊達な議論を繰り広げるのは、宰相を筆頭とした居並ぶ大臣達。
アンリの役割はその様子を見守り、最後に形式的に意見を求められるも、ただ頷くだけ。
なお、先の遠征は、大臣の一人が言ったとおり表向きはポルガ王国への救援だが、その実態はそれにかこつけて隣接するイスタニア王国への侵攻。
特に、重要な軍事拠点となるピレネウス山脈周辺を制圧すること。
だがその目論見は、周辺の列強国の介入によって頓挫してしまい、残されたのは浪費した戦費への借金ばかり。
「ふう……よいですか? 我が国の財政は度重なる遠征によって、既に火の車なのです。なら、搾り取れるだけ搾り取らねば破綻してしまいます」
深く息を吐き、財務総監の〝ビセンテ=デュバル〟が指摘する。
彼の言うとおり、オルレイア王国の国庫は枯渇しており、このままでは王国の存続すら危ぶまれた。
「黙れ! 『太陽王』であらせられる国王陛下を、西方諸国の笑い者にする気か! たかが雀の涙ほどの借金があったとて、強欲に金を無心しては、王国の恥を晒すようなものじゃ!」
この会議の参加者の中で最年長の宰相〝ジュール=ミシュラン〟が、一喝する。
背も高く宰相でありながら武人のようなその体躯と大臣達を圧倒する覇気は、もうまもなく七十を迎えようとしている老人とは思えない。
老いてますます盛んとは、彼のことを指すのだろう。
「そもそもじゃ! 先程も申したように、此度の遠征はあくまでも他国を救援するために派遣したもの! 陛下は儂にこうおっしゃった! 『我がオルレイア王国は、大義のために動いた』とな! ならば臣下の我等は、陛下の思いを汲み取るべきじゃろう!」
「そ、そうですな」
「陛下がそうおっしゃるのであれば」
ミシュラン宰相がそう告げると、大臣達は慌てて同意する。
この国において、シャルル王の言葉は絶対。それに従う以外の選択肢などない。
「ビセンテよ、分かってくれるな?」
「は、はい……」
烈火のような勢いから一転し、ミシュラン宰相は柔らかい笑みを浮かべ、デュバル財務総監の肩を叩く。
デュバル財務総監は、ただ頷くことしかできなかった。
「では、イスタニア王国については提示された賠償金を受け入れることでよいな」
「異議なし!」
次々に賛同する大臣達を見て、ミシュラン宰相は満足げに頷く。
「アンリ殿下も、それでよろしいですな?」
「もちろんです。ようやく戦も終わり、陛下もお喜びになられることでしょう」
「わっはっは! そうですな!」
高笑いをするミシュラン宰相。
そんな彼に、アンリは冷ややかな視線を向けていた。
◇◆◇◆◇
「それにしても」
午後のミシュラン宰相との会談を控え、昼食を摂るアンリはクロエをしげしげと見つめる。
「……なんでしょうか」
「いや、君も私に長く仕えてくれているな、と」
訝しげに見るクロエにそう言うと、アンリはどこか遠くを見つめるような仕草をした。
クロエが侍女としてアンリに仕えたのは十七歳の頃。それから十年が経つ。
当時の彼女は今とは違い快活で、笑顔の絶えない少女だった。
だがその笑顔は、アンリに仕えるうちに徐々に失われ、一年も経たないうちに今のように無表情になってしまう。
感情のない、人形のように。
それでも。
「これまで私に仕えた侍女は、ほとんどが数か月、長くても一年で辞めるのが関の山だったんだがな……」
「以前の方達のことなど知りませんし、興味もありません。……ただ一つ言えることは、それだけ仕事への責任感や、何より殿下への忠誠心が皆無だったのでしょう」
しみじみと語るアンリに、クロエは辛辣な言葉で返した。
だがそれは、いつもの彼に向ける言葉よりも、幾分か棘があるように思える。
「なら君は、仕事への責任感はともかくとして、私に対して忠誠心を持ち合わせていると、そう捉えて構わないのかな?」
「朝からくだらない冗談はよしてください」
どうやら少々悪戯が過ぎたようで、クロエにぴしゃり、と言われてしまうアンリ。
分かってはいたものの、言葉にされるとつらいものがあると、彼は僅かながら傷ついてしまった。
だが、クロエがそう答えてしまうのも無理はないというもの。
何故なら、仕事への責任感や忠誠心は当然持ち合わせているものの、それ以上に彼女の中に秘めているものがあるのだから。
「そんなことより、まだ食事は終わらないのですか。このままでは、宰相閣下との会合の時間に間に合いませんよ」
「そ、そうだった」
クロエに指摘され、アンリは慌てて食事を済ませた。
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