愛人契約
「よろしければ、私と契約いたしませんか?」
彼女の言う『契約』が何を指しているのか、それを尋ねるのは野暮というもの。
つまりエミリーは、アンリと愛人契約を結びたいと申し出ているのだ。
「……ご冗談を。私は無能の烙印を押された王太子ですよ? そのような者と契約したところで、あなたにとって何もよいことなど」
「ございますわ。少なくとも、あと二十年は安泰になりますもの」
どうやら彼女は、シャルル王に見切りをつけたのだろう。
三か月後に七十六歳を迎えることを考えれば、生い先が短いことは言うまでもない。
「それに」
「……それに?」
「このままあの御方に任せていては、いずれ全て失ってしまうのではなくて?」
今の口振りから察するに、王国の財政危機についてそれなりに把握しているのかもしれない。
王都ルーテシアで、あれだけ騒動になったのだから、耳に入っていても不思議ではないことは確かだ。
知らないのは、このカルディナル宮殿に籠ったままの、シャルル王だけかもしれない。
「なるほど……ですが、何度も申し上げますが、私は自分というものを弁えておりまして。きっとあなたを後悔させることになるのでは、と」
「ご心配なく。あとはこちらが全て、丸く収めますわ」
胸に手を当て、自信に満ちた表情で告げるエミリー。
彼女が求めているのは、都合の良いお飾りの王なのかもしれない。
思いのままに操れる、そんなお飾りを。
「ふむ……なかなか魅力的なご提案だ」
「でしょう? アンリ殿下も、これで周囲を見返すことだってできるのではないかしら」
やはりエミリーも、アンリのことを侮っているのだろう。
そうでなければ、このような台詞が出てくるはずがない。
最初から彼のことを無能だと評しているような、そんな言葉が。
だが。
「せっかくですが、お断りします」
そもそもこの女は、アンリのことを何も理解していない。
彼が求めているものは、そんな些末なことではないのだ。
「……理由をお尋ねしても?」
「簡単ですよ。そもそも私は、何もしなくてもこのまま待っているだけで、王になれるのですから」
何度も言うが、オルレイア王国においてシャルル王の後継者は、アンリしかいない。
ならシャルル王がいなくなれば、自動的に彼が王となる。それは決定事項なのだ。
「王国の貴族達が、それを納得するのかしら」
「納得はしないでしょうね。ですが、それしか選択肢はない」
エミリーは暗に貴族達の叛意を示唆したのかもしれないが、それはないと彼は考えている。
そんなことになれば、オルレイア王国の多額の債権を持つハイリグス帝国が、黙ってはいない。
王国がなくなってしまったら、その債権を回収できなくなるのだから。
「とにかく、そういうことであれば他を当たってください。……少なくとも私は、今日のことを誰にも言うつもりはありませんので」
「……そうしていただけると、助かりますわ」
少なくともこの場で、これ以上の説得は無理と判断したのだろう。
エミリーはそれ以上何も言うことなく、この場を離れようとする……のだが。
「エミリー殿」
突然、アンリが呼び止めた。
「……なんでしょうか?」
振り返りもせず、彼女が尋ねる。
「実は私、ずっとあなたにお礼が言いたかったんです」
「お礼……?」
彼とまともに会話をするのは、これが初めて。
当然思い当たる節がなく、エミリーは小首を傾げた。
「ええ。……あなたのおかげで、あの女がいなくなったので」
「っ!?」
先程までとはまるで違う、アンリの底冷えするような声。
エミリーは息を呑み、思わず振り返ってしまった。
そこには。
「ありがとうございました」
深々とお辞儀をする、アンリの姿が。
ただし、その長い前髪から僅かに除く瞳には、愉悦の色が浮かんでいた。
(まさか……あのことを知って……っ)
今から七年前、シャルル王の愛妾となったエミリーは、一人の女性を殺害した。
その女性の名は、ラシェル=マリード=オルレイア。この国の王妃である。
といっても、彼女は今の地位を確固たるものにするために、邪魔な王妃を殺害した、というわけではない。
結果としてそうせざるを得なかっただけの、ただの正当防衛。
十三番目の妾に選ばれたエミリーに嫉妬した王妃が、暗殺を企てようとしたのだ。
既に殺害した十二人の妾と、同じように。
だがエミリーは、これまでの妾とは違い、頭脳明晰で強かだった。
王妃がお茶会と称し命を狙っていることを察知したエミリーは、それを逆手に取り、王妃のカップに毒を忍ばせて殺害。
王妃が自身の殺害のために用意した仕掛けを、利用したのだ。
エミリー自身が、疑われないように。
王妃は自らの策に溺れて死んだ。そういう結末になるように。
「し、失礼しますっ!」
さすがのエミリーも、これ以上暴かれては堪らないと、翻り逃げるように去っていく。
そんな彼女の姿が見えなくなるまで、アンリはいつまでも見つめていた……のだが。
「殿下」
不意に後ろから呼びかける、女性の声。
アンリは振り返ると。
「……ひょっとして、今の会話を聞いていたのかな?」
そこに立つクロエに、努めて軽い口調で尋ねた。
自身の焦りを、悟られないように。
「いいえ」
「そ、そう。ならよかった」
抑揚のない声で答えるクロエ。
アンリは内心胸を撫で下ろした。
「それで、君はどうしてここに?」
「なかなかお帰りになられないので、殿下を探しておりました」
「なるほど……」
今度から、予定の伝え方には注意しよう。
そう考え、彼はクロエを連れて部屋に戻る。
その途中。
「……エミリー様は、殿下に相応しくありません」
彼女のそんな呟きが背中越しに聞こえてしまい、『やはり聞いていたではないか』と、こめかみを押さえた。
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