夜這い②
――水を飲んで窓を開けて空気を入れ替え、香水を振り、しばらくして。
「まあよく考えてみれば私も人のこと言えたもんじゃなかったわね」
アレクシアは座った目で言った。若き女王に付き従う傭兵出身の護衛騎士の噂話は、今や国じゅうの好奇の的である。とうの騎士はうんうん頷きながら嬉しそうにアレクシアの世話を焼いていた。
「俺の母も父もまあ、色々あったし。人の噂なんてすぐ消えるさ。気にするな……というには問題が大きい気もするが」
彼の方も歯切れが悪い。綺麗な骨格の顎の付け根をカリカリかいて、アレクシアの足元を見る。蹲るライアンダーはオッドマンのように微動だにしない。
「俺も学院やめる……」
「ダメに決まってるでしょ。光の魔力なんて珍しいんだから魔法使い免許は取りなさい」
「友達、みんな今朝あったこと知ってんだけど」
「それで?」
「ヒィン」
フィリクスは苦笑した。アレクシアはなんとか座り直した。
「カレンナ様」
「はい、女王陛下」
「正直言って、ブレインフィールド伯爵の次の出方を教えていただけるのでしたら心から助かります」
少女の表情が明るくなった。
「ですが、あなたを通じて情報が流出することなど伯爵はとうにご存じでしょう。すぐに対策されます。失礼ながらまだ成人の儀さえ終えておられないお嬢様の知ることなど、政治の世界においては微々たるものです」
カレンナは俯いた。でも、とかあの、とか言い出そうとして喉で押し留めたような、自分のしでかしたことが十分以上に大人に打撃を与えるのを知っている子供の仕草だった。
「でもね――私のために怒って、私のために実家を抜けてきてくれた人がいてくれるというのは、とても嬉しいわ」
アレクシアはゆるゆると片手を差し出した。
「特別扱いはしなくてよ。ただの侍女見習いから初めてもらいます。知っていることはすべて教えて。そして、これからあなたの主は私です。わかって?」
「はい、女王陛下!」
カレンナは何度も頷きながらアレクシアの手を取った。嬉しさのあまり飛び跳ねそうに見えた。
「義憤のためにすべて失うなんて、かわいそうに……」
「……ねえ俺は? 俺かわいそうじゃないの?」
ライアンダーが哀れっぽく言うものの、アレクシアもカレンナもそっちを見ない。フィリクスが片膝をついて少年の肩を優しく叩いた。
***
さて、その日の午後、議会の内容を知らせるため議員たちがやってくる。今日で議会は開催から一週間が経つ。閉会を前に、議論は一層白熱し平行線をたどっているようだった。伝統死守派、とでもいうべきか、ブレインフィールド伯爵を中心とした大貴族派閥は今のところ優勢のようである。
「ああ議長、少し残ってちょうだい」
とアレクシアは報告の終わりに言った。
「……は」
すべてをわかっているのだろう、ブレインフィールド伯爵は直立して受け入れる。他の議員が好奇心を見せつつも退席すると、アレクシアと彼は同時に深い溜息をついた。
「面目次第もございません」
「いいえ、いいえ。お互い若者には手を焼きます」
「陛下はお若いですよ」
「お世辞はけっこうよ」
「いいえ、お若い。我が娘の不調法を笑って許してくださるなど、前代未聞の甘さです。他の王ならこれを機に私の失脚を狙います」
「……それでは議会が分裂してしまうでしょう」
「分裂した、その隙間に子飼いの者をねじ込むのですよ。前王が没落させた議員は多い。空席の議席を狙う者も多い。陛下はそうした小手先のやり口はお嫌いですかな?」
「そうねえ……」
アレクシアは頭の上まで続く背もたれにギシリと体重を預けた。ブレインフィールド伯爵とのやり取りは、その夫人と同じく流れるように続いて心地よい。ついつい本音を喋ってしまいそうになるほどだった。
「子飼いがいないわけではありますまい。フュルスト商会の息がかかった貴族など掃いて捨てるほどいることでしょう」
「ええ、もちろんそういう人たちはいるわ。そうではなくて、私は……そうね、何かをするとなったら歓迎されたいのかも」
アレクシアの脳裏には、テトラスから帰ってきたあの日のことがずっと根強く染み付いている。歓呼の声。人々の上気した顔。アレクシア様、女王陛下、ばんざあいと叫ぶ声。
彼女が何か失敗すれば瞬く間に処刑を望むことになる声だった。それはわかっていた。それでも、嬉しかったのだ。
かつて実の父親から逃げるため後にした故郷に、戻ってきてもいいと言われた気がした。
「どうせやるなら皆様に微笑んで迎えていただきたいのだわ。力づくで何もかも押し通すのは……前王と同じになってしまう」
とアレクシアが笑うと、ブレインフィールド伯爵は両手を広げた。負けましたよ、とでも言いたげに。
アレクシアは彼をバルコニーへ誘った。出てみると、カレンナが待っている。夕暮れ時の涼しい風が前髪を嬲る。立ち止まった伯爵の背中をアレクシアは押した。
「カレンナ嬢。いいえ――私の侍女カレンナ」
「は、はい」
「お父上と話して。説明して、理解を求めて。それからお許しを乞うのよ。安全だと信じて学院に預けたはずの愛娘がいなくなって、伯爵は気を揉んだことでしょうから」
「……お父様に謝ることなんてありませんわ」
少女はぷいっと横を向いて欄干に寄りかかった。父親はカエルが潰れるような呻き声を立てた。
「女王陛下、申し訳ございません。すぐに連れ帰ります」
「いいえ、彼女はもう私のものですよ」
アレクシアはくすくす笑った。
「カレンナ。あなた、お父様に本当のことは言ったの?」
「な、なんのことでございましょう?」
「本当の気持ち、本当に考えていることですよ」
アレクシアは踵を返す。バルコニーを立ち去り際、肩ごしに茶目っ気を含んで言った。
「話せるのは幸せなことよ。話してね。女王命令よ」
廊下に出るとフィリクスが待っていた。彼はくすりと笑って彼女の後ろに付き従う。アレクシアの頬も緩むので、結局、二人してけらけら笑いながら歩くことになる。
「女王陛下はいたずら好きだな」
「でしょう? 伯爵の驚いた顔といったら」
「もう今生の別れと決めていたのかもしれないな。普通の貴族であれば、娘御が手元を飛び立てば勘当ものだ。そう思って間違いない」
「私のために働いてくれている人たちには例外が認められていいと思うわ」
アレクシアはさらりと言った。見る者がいればどれほど傲慢で、高慢な考えなのだと激怒するようなことだった。それでもフィリクスはそれを肯定するのだ。彼女が彼女であるから、彼にとってそれは正しい。
「文句を言う奴がいたら俺がなんとかするよ」
彼は甘く浮かれた声で囁いた。
廊下は長く、夕闇が忍び寄って暗い。ぽつぽつと魔法灯がともり始め、徐々に明るくなるのに比例して影は長く伸びる。
アレクシアはこの時間がいつまでも続けばいいと思った。




