おかえりなさい
南国ファーテバにあるフュルスト邸は、広い玄関と窓を持つ屋敷である。海から吹く風を取り込み、白い夏の強い日差しを避けるための広い庇。さらにそこから硬い布製のシェードを張り巡らしてある。日焼けは淑女の大敵である。
白い漆喰で仕上げられた壁。中庭とその周りの長い回廊。木製の柱には繊細な彫刻が施され、室内装飾はリュイス風だ。絨毯とタペストリー、ソファにローテーブル。いずれも深いこっくりした色合いになるまで油を挿され磨かれたもの。
両開きの扉である玄関から中に入ると、広い吹き抜けの玄関ホールがある。突き当りには大広間へ向かう扉。その左右に、二階へ続く階段がゆるいカーブを描いて大きく伸びていた。
どの部屋からも中庭の緑と噴水が見える。夜になれば日除けは取り払われ、星空も見える。
窓辺には等間隔にアルコープが設えられている。座って外の景色を楽しめるよう、だが日差しは当たらないようにという配慮だった。白い漆喰の上に木の板でベンチが備え付けられ、花や薬草を描いた織物のクッションが所せましと置かれている。
訪れる者の誰もが王宮よりも心地良いと評する館だった。
アレクシアは手鏡を取り出して唇に塗った蜂蜜が垂れていないかチェックした。
「あれ? おねえさん綺麗ですね、いくつー?」
と茶化してくるルルシエルの目を狙って拳を出したのだが、いなされてしまった。残念。
とはいっても、ライアンダーとルルシエルの方もそわそわしている。何せ久しぶりの、当主の帰還である。玄関ホールは新築のようにピカピカに掃除され、使用人一同畳み皺のある新しいエプロンを身に着けた。全員、馬車の音を今か今かと待っている、そんな状況。
さやさやと衣擦れの音を立て、母ルクレツィアが現れる。もちろん一番浮かれているのは彼女である、と誰の目にも明らかな装いだった。
長く艶やかな蜂蜜色の金髪は丁寧に結い上げられ、薔薇の花をかたどる。後頭部から額までを数珠状になった真珠のネットが覆い、飾りとしてあしらわれた金細工のちょうちょが柔らかな光を受けてきらめく。耳の横から流れる数房の髪だけが意図的に残され、首筋を優雅に縁取っていた。
今日のために新調したのだろうドレスは深い葡萄酒色。胸元から腰にかけてはぴったりとして、身体の線を美しく見せるよう仕立てられているが、決して下品ではない。腰のあたりから裾へ向かうにつれて幾重にも重なった生地が大輪の花のように広がり、歩くたびに静かな波のような揺らぎを生み出している。袖口や襟には銀糸の蔦模様の刺繍が施されていた。
耳元には真珠の揺れる耳飾り。首には細い銀鎖の首飾り。薬指に光る指輪。
どれもこれもが派手過ぎず上品で、母の美しさを静かに引き立てていた。
少しでもものを知る小娘であれば皆、彼女のように年を取りたいと願うことだろう。若々しいみずみずしさではち切れんばかりに輝くわけではなく、歳月を重ねたからこそ生まれる優雅さと気品が、内側から輝きを放つ姿。
アレクシアは母に見惚れた。平静を装う双子は首の後ろや頭をかきながら態度で褒めた。
「お母様、とってもきれいねえ」
「ふふっ、ありがとう」
ルクレツィアは嬉しそうに瞬きをする。
「あの人、早く来ないかしらねえ」
「ねー。――ほら、ライとルルも何か言うことないの」
母が父のためにおしゃれしているのが気恥ずかしいらしい、双子は揃って目を逸らした。
「……ッス」
「ウイ……」
「なんだこいつらは」
「おやめ」
アレクシアは気を取り直す。
「いつ新調なさったの? 気づかなかったわ」
「驚かせようと思って。驚いた?」
「とっても」
アレクシアは思わず笑う。
「お母様ったら。お父様が帰ってくるの、すごく楽しみなのね」
ルクレツィアは娘の言葉に少しだけ頬を染めた。父母の正式な結婚がまだなことが、アレクシアには歯がゆくてたまらない。夫が帰ってくる日には少しでも綺麗な姿で迎えたい、なんて本当に自然な、妻の感情なのに。
「当然でしょう?」
そう答えた彼女の碧の瞳はきらきらと輝き、少女のようだった。
そうしてとうとう、皆が待ち望んだ馬車の音が響き渡る。邸宅の玄関前、馬車のための車寄せがある円形の広場に皆は居並ぶ。使用人たちがずらりと左右に広がって出迎えるのに片手で応えながら、父が馬車から降り立った。
「お父様!」
アレクシアは淑女らしさを忘れて駆け出した。
「アレクシア!」
ヘンリー・フュルストは両腕を広げる。
次の瞬間、娘は勢いそのまま父へ抱きついていた。フュルストはちょっとばかりよろめいて、足腰で耐えた。
「本当にお父様だわ。おかえりなさい!」
「偽物だったら困るなあ」
「そんな冗談を言う余裕があるなら元気だったんですわね!」
「ははは」
「どのくらいこの家にいらっしゃらなかったか覚えてらして? 八か月ですよ! 八か月!」
怒りながらもアレクシアの声は弾んでいた。フュルストは苦笑しながら娘の頭を撫でる。まるきり実の父娘の様子だった――もっとも、今更両者に血のつながりがないことを問題視する者などいないのだが。
アレクシアがすとんと地面に下されたところで、双子がのそのそと近づく。
「お帰りなさい、お父様」
「お父様、ご無事で何よりです」
ヘンリーは二人を見比べ両手を広げた。まずはライアンダーの肩をがしっと握る。
「大きくなったな。前に会った時より肩幅が増えた」
「魔力の鍛錬、続けてるんで」
ふふん、とライアンダーが胸を張る。
「俺はまだ父上より背が低いけどね」
けらけらとルルシエルが笑った。フュルストはそちらの肩もばんばん叩く。
「いや、もうほとんど変わらないぞ」
「え、本当?」
「今度ちゃんと測ってみるか」
双子は揃って誇らしげに顔を輝かせた。
しゃらしゃらと宝石と金銀と絹の音を響かせながら、ルクレツィアがゆっくり歩み寄った。
「お帰りなさいませ、あなた」
「ただいま、ルクレツィア」
二人はしばらく見つめ合う。
派手な抱擁だのキスだのはこの二人に必要なくて、そういうのは深夜、寝室で二人っきりになってからするのだ。三人の子供たちはへらへら笑って目と目を見かわした。やっぱり少しばかり居心地悪いらしく、双子の耳の先はほんのり赤かった。
「少し痩せましたわね」
「旅先の食事は、うちの料理には敵わないからな」
くすくす笑い合う父母につられて、一同は居間へ移動した。
天井から吊るされた魔法灯が柔らかな光を放ち、磨き上げられた床を照らしている。使用人たちが旅の荷物をそれぞれの部屋へ運び込むひそやかな音と振動が響く。
いつものソファに腰を下ろしたフュルストは深い溜息をついた。わくわく足踏みしながら、アレクシアは待ちきれない様子で身を乗り出した。
「それで? お父様?」
「うん?」
「お土産!」
フュルストはげほっと吹き出した。お茶を淹れる準備中のルクレツィアも片方の眉をぴんと上げる。
「まずそこからか」
「当然ですわよ。愛娘を八か月も待たせたんですもの」
「姉様、遠慮ないよね」
「まあ俺も気になるけどね、姉様」
双子がふんふん言いながら父の足元に座ろうか、もう大きいのでやめておこうかそわそわしている。
「正直な家族で助かるよ、まったく」
フュルストはこれだけは自分の手で持ってきた革の旅行鞄を引き寄せ、開いた。
最初に取り出されたのは、小さな銀箱だった。それ自体もみごとな細工を施された逸品である。小さな鍵のついた蓋を開けると、星型の魔石をあしらった首飾りが収められていた。
「アレクシアへ」
「きゃ……!」
彼女は息を呑んだ。魔石は吸い込まれそうなほど深い群青色に、まるで夜空の星を閉じ込めたような白い煌めきがいくつも散っている。よく見ると石本体の模様が見え隠れし、うまく台座の金属と調和している。
「身に着けた者に毒の反応があれば石は白く濁るそうだ。暗殺対策にいいと思ってな」
「ありがとうお父様、すごく使い勝手がよさそうね」
アレクシアはそっと首飾りを取り上げ、首元に当ててみせた。
「どう?」
「とてもよく似合っている」
夫の横に座ったルクレツィアもにっこりと微笑む。
「ええ、世界一の女の子よ」
「ほんとお?」
「うん、うん。私のうつくしい娘。実用もそうだが、きっと似合うと思って選んだ」
アレクシアは頬を染めた。
「ありがとうございます、お父様」
次に取り出されたのは細長い木箱である。
「ライアンダー」
箱の中には一本の短剣が収まっていた。銀色の刃には古代文字が刻まれ、柄には青い宝石が埋め込まれている。
「かつて西方に存在したというドワーフの鍛冶の村、そこの名工が鍛えたものだそうだ」
ライアンダーの表情が一変した。
「これは……」
「訓練用ではないよ。本物さ」
彼は慎重に短剣を持ち上げる。刃は信じられないほど軽く、薄く、だが重い。敵の心臓を一突きにできる重さだ。
「そうだ。魔力を流せば魔道具として使用できる」
「こんな貴重なものを……」
「もう子供ではないだろう。お前にはいずれその力でもって家を支えてもらわねばならん。そのための贈り物だ」
ライアンダーは感動してうまく声を出せなくなりながら、深く頭を下げた。
「大切にします」
最後にヘンリーは不思議な箱を取り出した。黒檀で作られた小箱で、表面には円状の魔法陣が彫られている。
「ルルシエルへ」
「何これ?」
「開けてみろ」
ルルシエルが蓋を開けた瞬間、箱の中から無数の光の鳥が飛び出した。
「うわあっ!」
青や緑、金色に輝く小鳥たちは大広間をくるくる飛び回り、天井近くで輪を描く。
「これも魔道具のひとつだ。幻影魔法がかけられており、中の魔石の力が尽きない限り何度でもこれを見られる」
「最高じゃん!」
ルルシエルは子供のように目を輝かせた。制限時間がくると光の鳥たちは再び箱へ戻り、静かに消えた。
ルルシエルは大事そうに箱を抱え込んで笑った。
「ありがとうお父様、大事にします」
「女の子に見せよって顔してるぜ」
「してるわねえ」
「あとそこの二人がうるさいので叱ってください」
「ははは」
フュルストは最後に、小さな白い箱を取り出した。
「ルクレツィア」
翡翠の耳飾りが手品のようにフュルストの手の中へ出現する。最高級の光沢を持った翡翠を、南大陸一の職人が丹精込めて削り上げた逸品である。
「まあ……」
「アプカ公国の港町で見つけたんだ。君の瞳の色に合う」
ルクレツィアは耳飾りを大事に手に取り、しばらく眺めた。
「ありがとうございます。大切にしますわ」
フュルストはほっとしたように大きく息をつき、子供たちは笑いさんざめいた。
「お父様って意外とロマンチストなんですわよね」
「意外とは何だ」
「だって普段は仕事の話ばっかりだもの」
「父様さあ、こういうときのプレゼント外さないよねえ……」
「やっぱ経験がもの言うんだろうなあこういうの」
双子はうんうん頷き合い、いつも自分たちの渾身のプレゼントがなんだか妙な反応をされるのはなぜかを議論し始める。アレクシアは呆れて首飾りをつけに鏡の前へ行ってしまう。
フュルストは隣に寄り添うルクレツィアの肩へ手を回した。見上げてくる妻のうつくしい面立ちは、二十年前と少しも変わっていない。ああ。
「帰ってきたなあ……」
「ほんとうに、お疲れ様でしたわ」
しみじみと小声で言った言葉にそう労わりを返され、顎にキスをもらい彼は柄にもなく照れた。
残酷なやり口で南大陸のひとつの国を乗っ取り、二人の公子を破滅させてなお、彼は家族を愛する父親だった。自分の両手に抱え込める幸福だけをひたむきに愛し、それ以外のものを足蹴にするその有様は無様で滑稽だろうと自分でも思う。どうしようもない孤独を抱えていると傍から見ればあからさまだろう。
(ようするに私は器が小さいのだろうなあ)
アプカ公国のことだって、やり方はいくらでもあったのだ。あれほどのことをしなくても、おそらくもっと時間をかけて同じ結果を引き寄せる道が。だが彼はそれを選ばなかった。そしておそらく――彼に一番よく似ている娘も、いつか彼と同じ酷薄さを身につけるだろう。
フュルストが子供たちにしてやれることは残り少ない。彼は人生のすべてを賭けて、ルクレツィアと子供たちが幸福であれるようにする。それが自分の使命だと信じている。
だが今は。
「少し、疲れた。眠るよ」
「ええ。夕食まで少しありますもの。おやすみなさい、ヘンリー」
彼はソファの背もたれに頭を乗せ、腕の中に最愛の妻の身体を引き寄せ、目を閉じる。耳には子供たちの喋る声が響いている。部屋の中は暖かく、よい香りがして、敵は一人もいない。守られている。守っている。
これが彼の幸福。最愛。生きる意味。
それ以外のものなど必要ないのだと、見つけた真理を商人は一人、胸の内に秘める。
【完】
フュルスト外伝完結です!お付き合いいただきありがとうございました。
書籍版 どうやら私は悪役のようですね。それで? 第2巻
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書き下ろし付いてます~~~
よろしくお願いいたします。




