潮が満ちる
厳密に言えばフュルストはトルネとヴァガッテ兄弟の公王位争いに興味はない。ただ、ヴァガッテ側が神殿を味方につけており国を平安にするにふさわしそうだったので、トルネの義理の父フェンネロッタ卿を殺し結果として味方したのである。
彼の目的は海運の支配である。港湾物流を掌握し、アプカ公国を金で支配する。公王の言う民の誇りは砂にまみれるかもしれないが、残念ながら諦めてもらうしかない。
フュルストは娘アレクシアほど甘くはない。南国ファーテバを通じた塩と塩漬け魚の流通により、各国の軍糧食のすべてを牛耳るつもりだ。そしてそのネットワークを通じて、あらゆる密輸を制する。
フュルスト商会は金貸しであり、密輸業者であり、それらすべてに付随する情報網を支配する一大企業となる。
どうして、そこまでするかって? そうしなければならないからだ。もう二度とルクレツィアを奪われないために。アレクシアが頬を青黒く腫らして痛々し気にしているのを見ないために。ライアンダーとルルシエルが愛する女と気兼ねなく愛し合えるように。フュルストは敵を倒してそいつの持ち物すべてを奪い取る。
グレゴリオ・エトゥーが裏帳簿の確認を終えた。フュルストは受け取ったその数字を眺める。商売の帳簿ではなく、ひそかな裏稼業についての表である。
アプカ公国の大神殿はひそかに密輸に手を染めている。国の保護は手厚くあってもなお、神殿というものは商売に向いていない。だが経営はしなくては、歴史ある神殿を維持できない。
神官になりそこねた元見習いや、神官の解放奴隷、裏方役で雇われていた食い詰め者たちが密輸業者として南大陸の文物を中央大陸はじめ他国に移しているのは、決して表沙汰にならない秘密だった。塩を始め翡翠、金、祈祷書、古代の書物、始祖王が身に着けていたというマントの切れ端まで。必要とされるものが必要とする者のところへ、法律も誇りも無視して運ばれる。
もっともお得意様なのは、南大陸中央部に位置する巨大一神教教徒の巣窟であるディングレン平原だった。奴隷を酷使し、痩せた土地を耕す貧しい農民たちの国々。彼らにとって翡翠と金は信仰に必要不可欠だし、塩の取れない内陸部は高くても密輸の塩に頼るしかない。
神殿の悪行に資金提供するフュルスト商会は、今では塩づくりの独占企業である。アプカ公国は一企業に敗北したのだ。つまりフュルストは塩や塩漬け魚の価格操作も意のままである。
神殿に寄進したことで宗教的正当性も獲得した。アプカ公国は金と信仰の力で支配されつつある。
「結局価格とは供給量の問題なのだなあ」
フュルストは執務椅子の背に体を預け、うんと伸びをした。潮の匂いが部屋に広がった。エトゥーは卓の端に立ち、羽ペンを持って待っていた。
「神官長との会合、お疲れ様でございました」
「うん」
フュルストは短く息を吐いた。感嘆とも苦笑ともつかぬ音がピュウと唇の端から漏れる。
「やれやれ、神殿も私掠船のことを掴んでいたよ。実数までは把握しきれていないようだが」
フュルストの外套を片付けるエトゥーの手がぴたりと止まった。
「神々よ、許したまえ。――あちらが手の内を見せたのでしょうか」
「牽制だろう。そのうち一枚噛ませろと向こうから言ってくるさ」
「無礼な。卿がどれだけ寄進をしたかわかってそんなことを言うなんて」
エトゥーは眉を顰めたが、フュルストはくつくつ笑う。
「ああ。私掠船の非公式貨物に自分たちの密輸品を乗せろと言ってきた。こちらが苦労して作り上げたルートにただ乗りしようって腹だな。困ったことには、彼らは自分たちの裏稼業は自分たちで直接管理したがるだろう」
「密輸品に何を混ぜられるかわかったものじゃありません。非公式貨物ですから、それ自体が商会の弱みになります。あちらもそれをわかってずけずけと要求しているに違いありません」
帳簿をまとめ、隠し戸棚に入れて小さな鍵をかける。エトゥーの一連の手際は大変よかった。何度も繰り返しすぎて慣れ切った仕草である。
「それともうひとつ。私掠船を使う場合に限り、神殿の解放奴隷と元見習いどもへの報酬を支払えと言われた」
「……理由は?」
「口を割るリスクの排除だ。追い詰められれば人間は喋る、と言ってな。我々が金を出せば売られずにすむなどと言う」
エトゥーはいらいらした様子で戸棚を見つめたが、やがて顔を上げた。普段はほとんど表情を動かさない男だが、ひん曲がった口はなんて有用に不満を伝えることだろう。
「乗ってやるべきかと」
「お前もそう思うか」
「思います。実際問題、我々は南大陸では外国人に過ぎません。報酬を先払いすれば売られるリスクはある程度抑えられます」
フュルストは腕を組んだ。エトゥーは感情をあえて抑えた静かな言い方で言う。
「倉庫を管理し、人夫への報酬の改善、そして船の積み荷の報告義務。その三つをくれてやり――実利をお取りになってくださいませ、フュルスト卿」
「やれやれ、こんなにも引いてやってなお足を引っかけられそうなのが恐ろしい」
「仕方ありません。急がば回れでしょ」
「違いない」
フュルストは頷き、天上を見上げながらとつとつと語る。
「倉庫の件、裏帳簿はお前に任せる。報酬の件は早めに、来月の支払いから変える」
「言いなりになりすぎではありませんか? 数か月は焦らすべきかと。いいところ取りはできないことを奴らにわからせてやるべきですよ」
フュルストは頭の後ろで手を組んで口の端で笑う。恐るべきことに、それはアレクシアの虎のような笑みととてもよく似ていた。
「なあに、あちらもわかってやっているのさ。秘密を共有すれば裏切れなくなると踏んでいるのだろう」
エトゥーは大事になりつつある状況に武者震いするようである。
「それにしても、神々の家を守る方々がなんと欲深いことですね」
「怖いか?」
「いいえ」
若者は上司に向かって不遜にも満面の笑みを浮かべた。
「面白過ぎて、ワクワクします!」
フュルストは手を叩いて笑った。彼はエトゥーが好きである。娘に似ているからだ。そして、彼自身にも似ている。このくらい傲岸不遜な人間がもっといてくれるといいのだが、と思った。
さて、翌週のことである。大神殿の神官長含む上層部がアプカ公国軍によって拘束され、首を斬られた。
「お許しください、お許しください!」
「違うんです、あのリュイス人が」
「我らは騙されたのです、公王様――!」
と、ぎゃあぎゃあ最期まで見苦しい終わり方だった。もちろんフュルストのタレ込みである。
神殿は彼の取引先であって上役ではないし、裏切られる可能性があるならこちらから裏切るまでのこと。それをわからなかったのは、やはり聖なる領域に長くいると俗世の汚さが想像もつかなくなってしまうのだろうか。
「やれやれ、いったい私がいつ、神殿に身を捧げ味方すると言ったというのだろうね?」
「そりゃ、脅されれば怖くなってしまいもしますよねえ。フュルスト卿とて人間でいらっしゃいますから」
商会長と秘書は顔を見合わせ、小娘同士のように含み笑った。
その後もフュルスト商会は南大陸で快進撃を続ける。資金繰りに困った貴族に融資し、彼らが借金を返しきれなくなれば返済不能で土地を永久取得。塩の専売権は完全に商会の流通に依存したため、彼はほとんどアプカ公国の塩大臣といった風情である。
私掠船の船長どもが結託して反抗してきたときもあったが、それさえ債権を盾に切り抜けた。軍事力はもはやフュルスト商会の敵ではない。金さえあればいくらでも傭兵を雇えるし、忠誠も買える。
フュルスト商会以外の商船は、むしろ率先してフュルスト商会の保護下に入った。護衛と引き換えにいくらかの料金を支払った方が、海賊に襲われるよりましであった。
密輸品のルートは大神殿のものを流用し、南国ファーテバの海岸部族と取引を確立した。アプカ公国により神殿が裏稼業のコントロール権を失った今、フュルスト商会の百戦錬磨の商会員たちが寄進と祈祷を名目に文字通り神殿内部に入り込み、いつの間にやら利権を手にした。フュルストは彼らに気前よく土地と実権を与え、ある程度の専横を許し、独立さえ許してやった。すべては安全かつ確実な商取引の実現ゆえである。安くはないが、利益になる。
「私に逆らうと船が沈むぞ」
と、彼が言ったとか言わなかったとか、意見は分かれるところだが――
他人がどう言おうがどうだっていいだろう、というのがフュルスト商会の公式見解なのだった。
塩を独占され、港湾管理権を奪われ、税収の三割近くを搾取され、私掠船により海をも支配され……アプカ公国で暴発が起こるのは、ある意味必然と言えた。
旗頭となったのは二人の公子である。どちらが公王を継ぐのかという争いは一時休戦としたらしく、互いに手を組んでフュルストへ向かってきたのがちょうど、アレクシアがリュイス王立魔法学院で何かをするのだと勢い込んでいた頃。
二人の正統なるアプカ公国の後継者たちは、フュルストの号令一下終結したドレフ人の傭兵団、私掠船に乗れば地上で戦うのも苦ではない荒くれ者ども、およびフュルストに与えられた土地や仕事を奪われまいとするアプカ人によって阻まれることになる。
「おのれ、海賊の味方をするのか! おのれ、海の誇りを忘れたかあ!」
と叫んだ兄トルネは、夜半に塩主の組合に待ち伏せされ、殴り殺された。彼は長年、自身の持つ塩田から上前を撥ね続けてきた。
「父上をお救いするのだ。兄上の仇を討つのだ!」
とわめく弟ヴァガッテは、神殿の悪徳を貪るため手段を選ばない者どもに売られた。神殿はこの公子の心の拠り所であったが、寄進が少なかったのだ。
どちらもフュルスト商会の方に将来性を見た。リュイス人の商人の方がこれまでよりましだと踏んだ。
フュルストは近い将来、公王に隠居を勧めるつもりだ。太った男は名ばかりの優しい王様となり、実権はフュルスト商会およびその一派が握る。ただの一商会が国を獲った。その事実だけを周辺諸国に残せばいい。
もちろん、公王がいてもらわなくては困る。フュルストが欲しいのは利権だけであるから、誰かしら野心的な貴族に一族の幼い子供でも擁立してもらえば事足りるだろう。十年後くらいに幼帝はフュルスト商会の追い出しを諮るかもしれないが……。
そのときはそのときだ。受けて立とう。
フュルストは海の向こうを見つめた。――ルクレツィアに会いたかった。




