踏み潰してやりたくなる
フュルストが手ぶらでスカフェン公王の邸宅を出ると、そこには煌びやかに飾り立てた馬に乗った男がいた。下馬もせず、彼はフュルストを睨みつける。
――商会長の陰謀によって命を失ったフェンネロッタ卿の義理の息子、双子の公子の兄トルネであった。
「これは、公子様」
フュルストは這いつくばるような一礼をした。門扉のところで待っていたエトゥーも同様に。また、南国ファーテバから連れてきた護衛騎士たちも同様にする。ただの嫌味である。彼の後見役であったフェンネロッタ卿を追い込んだフュルストとトルネが友好的に慣れ合えるはずもない。
商会が雇った馬車の御者ばかりは、雲の上の存在であるはずの公王や公子の気配に怯え縮こまっている。
「父上に何を吹き込んだ?」
「なんとご無体な仰せでしょうか、公子様。私はただ公王様のご機嫌伺いに参りました次第で」
「フェンネロッタを殺したこと、俺が忘れると思うな」
「……は」
フュルストは苦笑する。怒り狂う若獅子には近づかないのが吉である。
フュルストは若者をからかいたくなる気持ちをこらえた。公子はちょうど、息子たちよりやや年上くらいだった。娘と同じくらいの年齢だ。向こう見ずで未来が輝いていて、この世のすべてが思い通りになりそうな幻想に捕らわれるのも一興というとき。
――踏み潰してやりたくなる。
子供たちと妻はひょっとして知らないかもしれなかったが、フュルストという人間は生まれつき気性が荒く、攻撃性が高いのだ。我慢などできない。自分や自分の大切なものを害されれば特に。
「貴様が元奴隷であることなど俺は見抜いているぞ」
吐き捨てるような嘲りである。フュルストは許しを待たないままに顔を上げ、人の好い笑みを浮かべた。妻に言わせるとほんわりした、娘に言わせると胡散臭すぎて直視できない表情だそうだ。
「なんと心外な。かつて少しばかり、荷運びのお手伝いをさせていただいたことはありましたが、奴隷などと。いったいどこでそんな根も葉もないことをお聞きに?」
「フン、嘘つきめ。まあそうだろうな。所詮は成り上がりの塩運び人夫の出であるなど、貴様に従う者どもに聞かれるわけにはいかんだろうからなあ!――おい、お前たち、もしその気があるなら俺の元で使ってやってもいいぞ。俺に従いたい者は前に出てくるがいい」
彼はげらげらと大声で笑い、わざと馬を竿立ちにさせフュルストを威嚇する。頭にピンで留めた先が尖った帽子の先からつま先が尖った沓の先まで、何もかもが虚勢でできているような男であった。
砂埃が舞って喉の奥が痛かった。
「フェンネロッタめがしくじった程度で俺を牽制できると考えたなら、それはお前の浅知恵よ。いいかフュルスト、アプカ公国をおもちゃにできるのも父上を籠絡できるのも、俺が自由に兵を動かせるようになるまでの短い間よ。せいぜい震えて待っておれ」
「卿は最期まで、公子様のことを心配しておいででしたよ」
「貴様ッ」
公子は激高した。本当に馬で踏み潰そうとでもいうのか、手綱を高く掲げた。さすがにお付きの者どもが慌てて止めに入る。フュルスト商会はいまや、アプカ公国の生命線を握らんとしている。フュルストは王の覚えもめでたい。何かあれば彼は後継者争いで不利になる――そんなこと、本人が一番わかっていなければならないことなのだが。
「フェンネロッタ卿はあなたにとって、妻の父ではないのですか」
「我が義理の父を処刑したのは貴様であろうが! おのれ、たかだか行政上の手続きの不備をああも賢しげに揚げ足取りおって、貴様のせいで――」
馬がいななく。フュルストは下がる。侍従たちが悲鳴じみた声で叫ぶ。公子の目はらんらんと血走り、今にも腰の曲刀を抜きそうだ。
フェンネロッタ卿は確かにしくじった。フュルストはまずこの国に到着したその足で彼の元に足を運び、アプカ公国の文物をリュイスへ輸出する足がかりの助力を乞うた。もう七年近く前になる。
フュルストはフェンネロッタ卿に贈り物をし、公王に近しい彼に便宜を図ってもらえば厚く感謝してそれ以上の見返りを用意した。リュイスの絨毯、テトラスの宝石、ドレフ帝国の反物、南国ファーテバの金銀細工、そして歌い踊る美女たちを。もちろん美女は彼の間諜であったし、数ヶ月楽しんだあとは部下に払い下げしていた以上、フェンネロッタだってそれはわかっていたことだろう。
そうして長い親交を築き上げ、フュルストはもうひとつだけ、彼の力を借りた。フェンネロッタはアプカ公国随一の港であるトランパニッタ港およびその近海における海上交通の警備権を持っていた。アプカ公国に輸入されるものや人を監視し、ときに海賊を追い払い、あるいは追いかけてねぐらを暴く権利と義務である。
ここ数十年というもの、中央大陸から南大陸へ向かう航路は平穏そのものだった。ファーテバにおける族長同士の権力均衡は安定そのもの。また、南大陸における戦争の多くが内陸部の陸戦に集中していたこともあって、海にまで出向いて海賊行為を働こうという奇特な連中はおらず、あらくれ者どもの興味はすっかりそっちに集中していた。
フュルストはフェンネロッタからの目こぼしをやや過剰に拡大解釈した。ファーテバにて雇い入れた傭兵たちにアプカ公国からの輸出品を襲わせたのだ。あくまでひっそりと、偶然の不幸な事故を装って。積み荷の干し魚や塩は海に投げ込まれ、あるいは闇に消えた。それから中央大陸に出稼ぎにいこうとした人間が攫われ、地位ある者は身代金を要求され、それ以外の者たちは積み荷と同じ運命をたどった。
私掠船である。
当然、塩の値が上がる。ファーテバについた時点で例年よりやや高い程度。その後リュイス王国に、そして交易路を通ってテトラス王国に運ばれるたび、値段はつり上がる。じりじりと、じわじわと。王国官僚が気づいて対処しようにも、リュイスのコトル運河の通行権はそこを開発したフュルスト商会が握っている。
巨万の富が彼の懐に転がり込んだ。
フェンネロッタ卿が事態に気づいたときにはすでに遅い。アプカ公王スカフェンに報告は上がったのか、否か。そんなこともどうだっていい。
フュルストは経済的にこの国を手に入れる。
フェンネロッタは信頼する男を間違えたのだ。そしてその責任を取らされた。おそらくは娘の婿選びの時点から間違えていたのだ、とフュルストは結論づける。
公子たちがもう少し成長するまで待てばよかったのだ。だが誰がわかるというのだろう。合わせ鏡のような双子のどちらが光で、どちらが影なのか。あるいはどちらも光なのか、それとも? だなんてことが。
「貴様、貴様! 卑怯な手段を使って俺からフェンネロッタを取り上げたこと、決して忘れんぞ。いつか必ず目にもの見せてくれる!」
がっしりと骨太な男がそう吠えると、地面までびりびり震えるようだ。彼の妻から父親を取り上げたのは、他ならぬスカフェン王だというのに。
「ええ、お待ちしております」
フュルストは肩をすくめ、歩き出した。ステッキでからから地面をひっかき、商会員たちを従えながら。
決戦の時は近い。アプカ公国は、もうもたないだろう。




