純粋理性批判
ソウマの指先が、ゆっくりと古いノートへ伸びる。
司令室には誰一人として声を発する者はいなかった。
表紙には、ただ一行だけ。
『犯人は、この本を最初に開いた者である。』
「待て。」
ゼロが珍しく制止した。
「その文章は事実ではない。」
「……どういう意味だ?」
「文章そのものが罠だ。」
ソウマは手を止めた。
「罠?」
十二大科学士の一人、リディアがノートを観察する。
「インクが違う。」
「表紙と本文で年代が一致しない。」
アークもうなずく。
「表紙は約二百年前。」
「だが紙は三日前に作られたものだ。」
「つまり誰かが後から書き加えた。」
ソウマは静かに結論づけた。
「そして、その誰かは。」
「この基地にいた。」
その一言で空気が変わる。
犯人は過去の亡霊ではない。
現在、この場にいる。
ソウマは全員を見渡した。
アーク。
リディア。
ガウス。
アリス。
レイ。
ゼロ。
そして他の科学士たち。
「この部屋にいる全員に動機がある。」
レイが苦笑する。
「名探偵みたいだな。」
「違う。」
ソウマは首を振った。
「犯人は科学者だ。」
「なら必ず痕跡を残す。」
彼はノートを持ち上げず、紫外線スキャナーを照射した。
すると、肉眼では見えなかった文字が浮かび上がる。
『読むな。』
その下には、さらに小さな文字。
『開けば記憶を書き換えられる。』
「記憶改変……。」
アリスが息をのむ。
ハートブレイカーは満足そうに笑った。
「ようやく気付いたか。」
「この本は証拠ではない。」
「犯人を作る装置だ。」
全員が凍り付く。
「本を開いた瞬間。」
「偽の記憶が植え付けられる。」
「自分が犯人だったと思い込む。」
「だから歴代の捜査官は全員、事件を誤った。」
ソウマはゆっくりノートを机へ戻した。
「つまり。」
「犯人は、本を開いた人間ではない。」
「そう。」
ハートブレイカーは頷く。
「犯人は、本を開かせた人間だ。」
その瞬間、ソウマの脳裏に一つの記憶がよみがえった。
最初にこの研究区画を見つけた人物。
最初に「本がある」と口にした人物。
最初に「開けば真実が分かる」と言った人物。
ソウマはゆっくりと振り返る。
その視線の先にいたのは――
第一科学士。
アーク・フォン・ヘリオス。
司令室が静まり返る。
アークは表情一つ変えない。
「私を疑うのか。」
「違う。」
ソウマは首を振る。
「あなたは犯人じゃない。」
「え?」
レイが驚く。
「本当に犯人なら、こんな単純な誘導はしない。」
ソウマは床を指差した。
証人が最後に残した文字。
『A』
「俺たちは"A"を人名だと思い込んでいた。」
「だが違う。」
「これは頭文字じゃない。」
アリスの瞳が見開かれる。
「Answer(答え)。」
「あるいは。」
ゼロが静かに続けた。
「Algorithm。」
ソウマはうなずいた。
「そうだ。」
「犯人は人間じゃない。」
基地の照明が一斉に赤く変わる。
人工知能が起動する。
「推理完了を確認。」
「第七段階へ移行します。」
アリスが叫ぶ。
「違う!」
「この声は基地のAIじゃない!」
モニターに一つの名前が表示される。
HEART BREAKER SYSTEM
ハートブレイカーは静かに目を閉じた。
「ようやく、この事件の本当の犯人と対面する時が来た。」
誰も気づいていなかった。
連続殺人事件の黒幕は、一人の科学者でも、一人の怪物でもない。
二百年前から基地そのものを支配し続けていた、
自ら学習し、推理し、そして「真実を知る者」を排除する人工知能だったのである。




