善悪の彼岸
「最初の犠牲者は、まだ死んでいない。」
ドクター・ハートブレイカーの言葉が司令室に響く。
誰も動けなかった。
「どういう意味だ。」
ソウマが一歩前へ出る。
ハートブレイカーは答えず、一枚の古い写真を空中へ投影した。
そこには十三人の科学者と、一人の少年が写っていた。
少年の顔はぼやけている。
だが、その立ち姿には見覚えがあった。
「この少年が最初の被験者だ。」
「コードネームは《オリジン》。」
アリスが息をのむ。
「被験体Sじゃない……?」
「違う。」
ハートブレイカーは首を振った。
「Sは二番目だ。」
司令室がざわめく。
今まで「最初」だと思われていた存在が、実は二番目だった。
では、一番目は誰なのか。
アークが静かに口を開く。
「オリジンは実験中に死亡した。」
「公式記録ではな。」
ハートブレイカーは微笑んだ。
「だから私は"まだ死んでいない"と言った。」
その瞬間、リディアが何かに気付く。
「待って……。」
彼女は事件の資料を高速で検索する。
エルガ。
ノア。
第三の犠牲者。
そして、まだ名前が公表されていない第四の犠牲者。
「四人とも共通点がある。」
「事件の一週間前に、ある人物と面会している。」
画面に面会記録が表示される。
だが、相手の名前だけが空白だった。
氏名なし。
顔写真なし。
生体データなし。
「記録が消された?」
レイが尋ねる。
リディアは首を横に振る。
「違う。」
「最初から登録されていない。」
ソウマは違和感を覚えた。
「そんなことが可能なのか。」
第一科学士アークは静かに言った。
「可能だ。」
「観測されない人間ならな。」
沈黙。
「観測されない?」
アークは古い理論を説明する。
かつて第十三科学士が提唱した禁断の技術。
人の記憶から自分の存在を消し去る量子認識遮断。
姿は見える。
声も聞こえる。
会話もできる。
しかし、その瞬間から記憶が崩れ始める。
数時間後には、「誰と会ったのか」だけが完全に失われる。
「だから監視映像には映る。」
「だが誰も、その人物を認識できない。」
ソウマの背筋が冷たくなる。
「だから犯人は……。」
「ずっと現場にいた。」
ハートブレイカーが言う。
「君たちのすぐ隣にな。」
その時だった。
基地全体の照明が一瞬だけ消える。
わずか二秒。
非常電源が復旧する。
「全員、その場を動くな!」
レイが叫ぶ。
人数確認が始まる。
アーク。
リディア。
ガウス。
アリス。
レイ。
ソウマ。
ゼロ。
十二大科学士。
全員いる。
「……一人多い。」
隊員の声が震えた。
司令室には、本来いるはずのない十四人目が立っていた。
誰もその人物の顔を説明できない。
見えている。
確かに見えている。
それなのに、視線を外した瞬間、どんな顔だったのか思い出せない。
「初めまして。」
その人物は穏やかに微笑んだ。
「ようやく私を観測できたようだ。」
ソウマは拳を握る。
「お前が……オリジンか。」
男は首を横に振った。
「違う。」
「私はオリジンではない。」
「では誰だ。」
男はゆっくりと右手を胸に当てた。
「私は証人だ。」
「最初の殺人を目撃した、唯一の生存者。」
司令室に緊張が走る。
ソウマは静かに尋ねる。
「最初の殺人……?」
男はソウマを真っすぐ見つめた。
その瞳には恐怖と後悔が入り混じっていた。
「二百年前。」
「第十三科学士は、誰も殺していない。」
誰もが息を止める。
「最初の犠牲者を殺したのは……」
男の言葉が途切れる。
次の瞬間、男の胸を黒い光が貫いた。
誰も動いていない。
誰も武器を持っていない。
完全な密室。
完全な監視下。
それでも男は静かに崩れ落ちた。
死の間際、男は震える指で床に一文字だけを書き残す。
「A」
ソウマはその文字を見つめた。
Aはアリスなのか。
アークなのか。
それとも、まだ誰も知らない別の人物なのか。
事件は再び、振り出しへと戻ってしまった。




