君がこの手に落ちてきたら ~side Louis~ 【2】
薔薇の丘にくるのは初めてではない。
テーシェルにきてすぐの頃に、蜂蜜を買いたいというクロエに連れられて訪れたことがある。
秋の薔薇の庭は春とはまるで違う姿をしていた。傾いた陽に赤はより深く、白は蜜色に、黄は輝くように咲いている。
ルイスは林檎の花のような薔薇の花を探している最中だ。見た目が分からないこちらは付き添うしかないが、肝心のクロエは心ここに在らずだった。
普段纏わないような色のワンピースに袖を通したクロエは、ルイスの知る彼女よりも少しだけ遠い場所に立っているように見えた。
ティーの甘い香りを放つ花の側に佇むクロエを見付けたルイスは数瞬声を掛けることを躊躇い、普段通りにしろと内心己を戒め、彼女の手を取った。
足の傷が全快しているとは言えない彼女を一人で歩かせるのは心配なのもある。また、花には虫が寄ってくるものだ。非日常という状況にかこつけて手を取ったことを否定しない。
(今は連れ出せない)
誰も自分たちを知ることがない土地に行って暮らせとルイスはメルシエに責付かれた。
ここにいれば過去も危険も切り離せない。クロエを守りたいのなら遠くへ行くのが最善なのだろう。
だが、今すぐにそれを選べと言われてもそうすることはできなかった。
【赤頭巾】への人質として扱われたクロエは一人で外出もままならない。今はエルフェとレヴェリーがいる家にいる方が心は休まるだろう。認めたくないが、ヴィンセントがいることで安全も確保される。
今日の演奏会はクロエにとっては久々の外出になる。
花に囲まれる空間で彼女はやっと肩の力を抜いたようだった。少しだけ、笑ってくれた。
この穏やかな時間を守りたかった。
しかし、ロセッティーナ公爵家の姫君――ユエは場を選ばなかった。
己に流れる血を嫌うルイスにとってユエの要求はあまりに無遠慮だった。逃げ道を塞ぐような言い方が気分をささくれさせる。
(クロエさんはいつでも離れていける。オレが手を離さないというのはただの身勝手だ)
クラインシュミット家を立て直したいと望む以上、必要になることだとしても、それは名を取り戻してから考えたい。この血が引き寄せる悍ましい現実をまだ彼女には知られたくない。
ルイスがクロエに隠し続けているのはフェアではなかった。ユエは釘を刺したのだ。
「キミといることでオレだけが大変という話でもないんだ」
「変な態度取ってごめんなさい。貴方が心配しているような負担はないですよ」
「そんなことないだろ」
こちらといることで彼女が不幸になる可能性の方が高い。後悔を残させない為にそのことは何度も確認した。不幸になっても知らないと突き放したこともある。
優しい彼女はまだ許してくれるというのか。
「強がりじゃないんです。私の夢は家族と暮らすことですから」
想定していた返答とは違う。
クロエの誠意と覚悟を否定するのは不誠実だと、ルイスは言葉を探すのをやめた。
やがて前方に棚作りの薔薇が見えてきた。
白に近い薄桃色の花弁が夕暮れの日差しに仄かに透けている。派手さはないが何処か静かな強さを感じさせる薔薇だ。クロエはそこで足を止める。これが探していた花なのだとルイスは察した。
「この前のことをまた蒸し返したらしつこいって言いますか?」
それは唐突な問い掛け。
この流れで診療所でのことを蒸し返されるとは思いもしないルイスは間の抜けた相槌を打つしかできない。そのことが余計にクロエを煽った。
真面目な話をした後にそういう話をされると温度差に適応できない。
「――怒ってるとかじゃないですよ」
やり直しを求められていることくらいは分かる。
ルイスとて何も思っていない訳ではない。クロエが怪我をしているのに――抱きしめることすら彼女を壊してしまいそうだというのに、再び触れることをこちらから望むことができたというのか。
主張したいことはあったが、女性にこれ以上恥を掻かせることは良くない。
「なら、やり直しをしても?」
いざ、このように機会を得てしまえば恐ろしいと感じる自分がいる。
「……嫌なら、言ってくれ」
「嫌じゃないです」
クロエは覚悟を決めたように目を閉じる。
距離を縮め、短く触れる。
温度も分からないくらいの接触。
怯えていないだろうか。様子を窺うと目が合った。
彼女の淡い色の瞳は瞳孔の周りには花のような輪がある。まるであの夜の花火のように、終わらない火花のように煌めいて、また目蓋が閉ざされる。
行き場を失って惑う彼女の手を思わず捕まえてしまう。
最初のくちづけの後、すぐに離れるつもりだったのにまた触れている。
林檎の香りは花からするものか、彼女の髪からするものか。これ以上の深追いはするなと理性が告げていた。
離れた後に肩に寄りかかる温かさは信頼の重みだった。ルイスは黙ったままクロエを支え続けた。
「私、今日のことは一生忘れないと思います」
クロエは、もう自分には幸福なことはないかのように言う。
それを嗅ぎ取れたのはルイス自身、人生の幸福の全ては両親といる頃に味わったと思っていたことがあるからだ。
今のクロエはあの時の自分と同じだ。
「ルイスくんにとっては良い日にはなりませんか……?」
「思わないようにしたいよ」
この瞬間が最も幸福な時間だと思わないようにしたい。
彼女にこの瞬間が一番だったのだと言われないようにしたい。
きっと自分も忘れることはないだろうけれど、これよりも大きな幸福を築くことが自分のすべきことだと胸に刻んだ。
広場に近付くにつれ話し声が風に混じる。
花の香りは遠のき、代わりに涼しい空気が肺に入った。夕暮れは夜へ移りつつあった。
立ち止まったクロエがルイスを見上げた。
開けた広場にはコンサートの席が準備されている。ルイスは視線を軽く巡らせ、席全体の様子を把握する。来園者に警戒すべき気配はない。
クロエにすぐに席に戻るかを訊ねようとしたところ、横から声が掛かった。
「やあ、ルイ」
「シュオンもきていたのか」
振り向けば見慣れた顔があった。ルイスは軽く会釈する。
朝からユエに手伝いへ駆り出されたルイスであったが、この場にシュオンがくることまでは聞かされていなかった。フローリストの道具が入ったレザーケースを携帯しているところを見るに仕事で訪れていそうだ。
「サプライズはどうだった?」
それは随分と軽い響き。
「心臓に悪かった。ロセッティーナの姫君に話が伝わっていることも、御息女のことも驚いたよ」
「セレナをいつ君に紹介しようか楽しみにしていたんだ」
公爵家の令嬢が供も連れずに訪ねてきて、勤務先の喫茶店でコーヒーを大量注文していたら誰だって恐怖を感じる。
コーヒーを過剰に摂るのは良くないのではないかと思いもしたが、あのくらいの立場となると乳母がいるだろうか。唯でさえ厄介な相手に余計な口出しをして睨まれることだけは避けたい。
「キミの兄上様はロセッティーナ家の人間になるということで良いのか?」
「うん、ジークは婿だよ。うちにいるよりあっちにいる方が幸せだよね」
アルヴァース家には男子が三人もいることで公爵が持て余し気味だと言われている。長男以外はおまけ扱いだとシュオンは昔こぼしていた。
対してロセッティーナ家は三姉妹で男がいない。どの家も後継者問題で悩みを抱えているようだ。
「【アマランサスの宝石】を見た感想は?」
「……何処かにいるとは思っていた。シュオンが隠しているとは考えもしなかったけど」
「ごめんね」
「良いよ。言えない事情があるというのは分かる」
何も知らないまま婚姻関係を結んで、特殊な血を持つ子供が生まれたらどのような混乱が生じるだろう。
(祖母様は菫色の瞳だったとコリンナに聞いた。血が薄まっても特徴は出るということになる)
名前しか知らない祖母のマルガレーテはレヴェリーのような赤みがかった紫の瞳だったという。
ユエの妹のルーナが紫眼だという事実から、あの行動力のある公爵令嬢がどのような賭けに出たかをルイスは想像する。
ジークと言わず、相手の男性が生まれた子供を受け入れないようなら、ロセッティーナ家の側近が養子にし――両親が不明な子として――隠した。ユエの事情、そして紫眼のセレナを、ジークとアルヴァース家が受け入れたからロセッティーナ家との婚姻関係が成立することなったというところだろうか。
(オレとレヴィの他にもいるから【魔除け人形】なんて言われる訳だ……。母さんの血だってどう扱われているか……)
先日ファウストにはぐらかされた、輸血に使われた血の出所。
ユエに血の問題を突き付けられたことで考えなければならないことは確実に増えた。頭の片隅ではそのことが引っ掛かり続けている。だが、この場で思案に沈み込むべきではない。
ルイスは手を取ったままのクロエに視線を向け、シュオンを紹介する。
「クロエさん、改めて紹介する。こちらはアルヴァース家のリュシオン様。ジークリンデ様の弟だ」
「久しぶり。これまで通りに呼んでくれると嬉しいな」
「お久しぶりです。その節はありがとうございました」
クロエは丁寧に会釈をする。その所作は落ち着いていて、ルイスは少しだけ安心する。
クロエとシュオンが会うのは春にあった花の展覧会以来だ。シュオンは先刻の兄夫婦のようにクロエの心を乱すことはない。
「もしかして、テーブルのアレンジメントはシュオンさんが?」
「うん。義姉さんに身内料金で使われてます」
彼の軽口めいた言い方に場の空気が柔らぐ。
「受付のところにあったコスモスと薔薇のミックス、好きです。上手く言えないんですけど可愛いものが濃縮されてるって感じで、ここが非日常な空間だってわくわくしました」
「そんなに褒められると照れるね。あれはフェアリーテイルをイメージしたんだ」
「分かります。御伽噺のお姫様みたいですもん」
シュオンは肩の力を抜いた笑みを浮かべる。
クロエの声は弾んでいて、花を前にしたとき特有の熱を帯びていた。
その様子を横で見ながらルイスは静かに息を吐く。
(……どの花の話だろう)
自分が詳しくない分野の話題で盛り上がられるとどうしても取り残された気分になる。
「ところで君はルイの好きな花は知ってる?」
「知らないです。教えていただけますか」
「ルイに花を頼まれる時に、店内からイメージのアレンジメントを選んでもらうとピオニーが入っているんだ」
「ピオニー……、沢山種類ありますね」
「デ・シーカ文化には立てば芍薬、座れば牡丹なんていう女性を例える言葉もあるんだ。つまりピオニーの中ではっきりと分類が分けられているんだよね」
「シャクヤクとボタンですね。家に帰ったら図鑑で調べます!」
「僕は、八重咲きのピオニーが好みなんだろうなと推測しているところです。本人に直接訊くと【そんなの知らない】って言うだろうから、頑張って」
クロエからシュオンに向けられた笑顔に妬ましさは湧かない。彼女が楽しそうにしているのなら、それで良い。
(コスモス摘みもまだだった)
ピクニックの帰りに、今度はコスモス摘みにこようという話をしてそのままになっていた。
花の名前でも、どんな色が好きなのかでも良い。自分には分からない世界でも、クロエが楽しそうに話してくれるならそれを聞く存在でありたいのだ。
とはいえども、そろそろ話に加わっても許されるだろうか。
「オレの話はオレのいないところでしてくれないか」
「情報共有は大切だよ。第一、お嬢さんと二人きりでお話ししても良いのかな」
「独占しようとは思わないけど、それをされたら面白くない」
「ここで話すしかないよね」
「なら、せめて座ろう。オレも後学の為にキミたちの花談議は聞いてみたい」
「やったね。こちらの世界に引き込むチャンスだ」
そこでクロエに振るあたりシュオンは知った上でやっているのだ。
座れる場所に案内する、と先に行くシュオン。
エルフェたちのところへ戻らなくて良いだろうかとルイスがクロエに目をやると、彼女はこちらの手をぐいと引っ張った。
「シュオンさんが来ていて良かったです」
「ああ」
「やっぱり今日は素敵な日ですね」
「どうしても良い日だと言わせたいんだな」
「先のことも大事ですけど、やっぱり今日の思い出も大切ですもん」
良い日に違いない。大切な女性がいて、友人がいるのだから。
(浮ついて見えるだろうな)
今こうして同じ場所に立ち、時間を共有しているのは自分なのだと確かめるように彼女の手を離さずにいる。
他人に見せつけたい訳でも独占しようという訳でもない。ただ、離す理由がない。
クロエがテーシェルに戻ってきた夜、ルイスはここから連れ出したいこと――共に歩める人間になりたいのだと告げた。
クロエは静かに頷いた。
だが、それは約束であって保証ではない。
信じるとクロエは応えてくれていても、それは確定した未来ではない。他に共にいたいと思う相手が彼女に現れることがあるかもしれないし、別の場所を望むことも否定できない。考えたくはないが、母親に沿う道を選ぶかもしれない。
明日も、明後日も、ひと月後も隣にいることを望むだけならば簡単で、言葉にするだけなら幼子でもできることだ。
安心できることなど何もない。傍にあるからこそ大切にしなければ失ってしまう。
満たされている状況のはずなのに、胸には不安ばかりがあった。ルイスはそれをクロエには悟らせたくない。
想いは言葉にしなければいけないと思う。しかし、【貴方と生きたい】という言葉をクロエはそのまま信じはしないだろうし、抱える不安を消せもしない。ならば未来へ向けて努力をし続けるという本心を伝えるしかない。
積み重ねること。
それだけが今の自分にできる唯一の答えだ。




