さっちゃんとぼく 4
事件が起きたのは、その日の午後だった。
「ねえヒデちゃん。今日さっちゃんプール休んだけど、風邪なの?」
「発作とかじゃないの」
秀郎が学校に到着し友達と一緒にプールコートへと向かうと、午前中の演習を終えたばかりのクラスメイトが話しかけてきた。さっちゃんの友達で、秀郎ともそこそこ仲がいい女子連中だ。もちろん、さっちゃんの身体のことも知っている。
「だいじょうぶ。朝にちょっと逢ったけど、発作じゃないみたいだった」
「そう。お見舞い行ってだいじょうぶかな。うちのママ、風邪引いた子の近くに行っちゃダメって言うから」
「いいと思うよ。でも、まだ風邪引いてないなら移るかもだから、やめといたほうがいいんじゃない? さっちゃんもそう言うだろうし」
「そっか」
濡れ髪の女子生徒は、鞄から包みを取り出す。
「一日はやいけど、今日誕生日プレゼントあげるつもりだったの。でもこの後わたし、塾があるから……」
「ぼくが渡しておくよ。今日、また様子見にいくし」
「ありがと、森下くん」
「さすがヒデちゃん、やっさしー。川田、あんたも見習いなさいよ」
「うっせーな」
「ははは」
こう見えて秀郎はけっこう女子に人気がある。騒がれるというより、マスコットみたいに可愛がられたり、気安に話しかけられるタイプだ。男子にしては気が優しく乱暴なところが無く紳士的な心配りも出来て、且つちょっとドジっ気もあるところが「放っておけない」「ボセイ本能をくすぐる」らしい。アクの強い顔立ちも――ゲジ眉と言ってからかう奴はいるが――クラス内では愛嬌として好かれている。そういえばさっちゃんも同じようなことを言っていた。
「さっちゃん親衛隊隊長サマ、お願いしまーす」
「りょうかいでーす」
尤も、秀郎が女子と長く話しているとあの白い頬はむくれる。さっちゃんは、けっこうヤキモチ焼き屋さんなのだ。
夏休み中のプール行事は基本全員参加だが、強制というわけではない。いくつかノルマ項目があって、期日中にクリアすると花丸マークがもらえて体育の成績も上がる。水泳級の軽いものから重いものまで沢山項目分けしてあって、チェックが数多く埋まっている水泳ボードは、この小学校では一種の勲章なのだ。
「この前おれ、25mクロールでいけたよ。けっこう簡単だった」
「いいな。ぼくはクロール、にがて」
「なんで? ヒラより簡単じゃん。速いし」
「う~ん、なんでだろ」
なかなか埋まらないボードの項目を眺め、綺麗に埋まっている友達を羨む。秀郎はクロールより平泳ぎのほうが得意だった。というか、平泳ぎしか得意なものが無かった。
「わかった。クロールってさ、身体ぜんたいバタバタするじゃん。疲れるんだ、きっと」
「平泳ぎのほうがバタバタじゃん! そっちのが疲れるよ」
「そうかなあ……バタ足よりカエル足のほうがゆっくりで楽だと思うけど」
首をかしげながらボードをタオルと一緒に置いて、ビート板を手にする。曇り空下で少し色をくすませた白は、陽に焼けた手の甲によく映える。背は低いのに、そこだけ見ていると、まるで大人の手のようにしっかりとした大きさだ。同じように板を手にした友達が、羨ましそうな顔をする。
「ヒデはさ、手デケぇよな。だからじゃね? 先生言ってたじゃん。手と足がデケぇ奴は、水かく時いっぱいかけるんだよ。カエルみたいに」
「……」
「なんだよ、ほめてんのに。ヤだった?」
ちょっと前までは、手が大きいことがイヤだった。チビで細いのに、手足の甲はまるでスタンプのように広がっている。合う靴や手袋がなかなか無くて、全力疾走するときも自分で自分の脚を持て余す始末。そういう部分は未だにからかわれているし、前にも悪意を込めて「カエルみたい」と言われたことがある。傷ついたし、不恰好な体型は自分でも好きじゃなかった。
でも。
「……さっちゃんがね、」
「え?」
ぽつん、と零れる思い出のかけら。
「さっちゃんが、手足が大きいのはいいことだって言ってた。小さいうちから手と足が大きいのは、将来からだが大きくなる証拠なんだって。それに、大きい手ってあったかくてすきだって。カエルもすいすい泳げるから、だいすきだって」
「……」
「だから、今はぼく、自分の手、すき。クロール出来なくても、平泳ぎでがんばる。さっちゃんがすきでいてくれるように」
「……、ふ~~ん」
コース前に佇んでいた何人かが振り返った。秀郎を見て、くすくす笑っている。横に並んでいた何人かも、同様に。
「……ヒデ、おまえさあ」
友達はちょっと顔を赤くして、ぼそぼそと声を潜めた。
「あんまりそういうこと、デケぇ声で言わないほうがいいぜ。ヒデと泉川は男女関係ない大親友なんだっておれはわかってるけど、他の奴らだとぜってぇなんか言われる」
「もう言われてるよ。ぼくもさっちゃんも気にしてない。……すきっていうのはそういう意味じゃないよ」
多分、と脳内で付け加える。不思議なことに、本人がいない場所だと恥ずかしい台詞もさらっと言えてしまうのだ。秀郎はむしろそれでいいと思っている。面と向かっては言えないことも、本当の気持ちなのだから言える場所で言いたいと思う。ダイシンユウにもっと好かれたいって思うのも、不自然なことではないはずだ。多分。
「ヒデと泉川はそれでいいんだろうけどさー。泉川、色んな奴に人気あるんだよ。中にはヤな目でみてるのもいる」
「ヤな目?」
「すけべな目」
ちょっとどきりとする。今朝、さっちゃんに言われた言葉。秀郎自身、自分がそうでないかと反省したばかりだ。冗談かと思ったが、友達の目は笑っていなかった。
「泉川ってさ、乱暴女子だけどカワイイっちゃカワイイじゃん? 親は金持ちだし。そういうの目当てで、近づいてくる奴いっぱいいるんだよ」
友達は、首を竦めてビート板をぱたぱた振った。スイミングキャップの下の日焼けした顔が、ほんのり真面目なものになる。
「そういう奴は、ぜってえヒデのことよく思わない。気をつけろよ」
ふと、泳ぎ終わったばかりの上級生と目が合った。すぐに逸らされたが、浮かんでいた感情は隠しようが無い。忌々しげだった。
曇り空が、濡れたからだの体温をどんどん奪っていく。
夏休みのプール演習は午前の部と午後の部に分かれており、それぞれ都合のいいときに予定を入れることになっている。普段学級ごとな水泳も、この時期だけはごた混ぜだ。高学年も中学年も低学年も一緒で、人数が多いときはイモ洗い状態になっている。
演習が終わったあとの掃除当番も、全学年ごた混ぜである。人数が少ない午後の部は、ほぼ全員が共同作業なのだ。面倒くさい作業だけど、やらなきゃならないことなので仕方ない。
雲で陰る水面がゆらゆら揺れて、飛ばされてきた木の葉や虫の死骸が浮いている。お世辞にも綺麗とはいえない屋外のプール。
「おい」
「はい?」
足跡だらけな床にプールから汲んだ水を撒き、専用モップで排水溝にざっと流す。そんな作業に明け暮れていた秀郎に話しかけてきたのは上級生だった。話しかけてきたというより、突っかかってきた。
「邪魔」
がつん、とモップでモップを押しのけるようにされる。秀郎は力に対抗出来ず、握っていたものから手を離してしまった。ぽちゃん、と汚れた水面に落ちるモップの柄。
「あっ」
「自分で拾えよ」
意地悪い笑みを浮かべ、上級生はそのまま去ろうとする。しかしプールコートに先生らが残っていることに気付き、周りの目を気にしたのか立ち止まった。ドジを踏んだ下級生がモップを拾うのを見守る優しい上級生、そんなフリをしつつ秀郎を見下すように睨み付けてくる。そうして秀郎にしか聴こえない声量で、囁いた。
「――うざいんだよ、お前。ゲジ眉のチビガエルのくせに、そんなに泉川製薬の婿になりたいのか。身の程ってやつをしれよ」
「……」
思い出した。この上級生は、さっちゃんと同じくどこかお金持ちの家の息子だ。本来なら都心近くの私立小学校に通っているはずなのに、どうしてだが田舎の公立に転校してきた。そして何かとさっちゃんに付きまとい、その度こっぴどく拒否されている。フられて当たり前だと秀郎は思う。だってこいつは、友達の言うところの「ヤな目」でさっちゃんを見ているからだ。
「泉川の娘も、気持ち悪いだろーな。お前みたいな貧乏人に付きまとわれて」
「……」
(気持ち悪がられてるのは、そっちだよ)
そう言い返したいのを我慢する。子供心にも物凄く低俗なことを理由に突っかかられてるとわかったので、口を開きたくなかったのだ。自分より体格がいい上級生に上から睨まれ、少し怖かったのもある。一緒に掃除をしていた友達は、用足しのためにここにいない。
「お前みたいなやつが好かれるとか、本気で思ってんの? 勘違い過ぎて笑える。こんだけキショい顔してんのにな、お前」
「……」
キリが無いな、と秀郎は思った。この前のいじめっこみたく、自分より弱いやつをいたぶって憂さ晴らししようとする奴は学校に大勢いる。この前は大切なお手玉をとられていたから仕方なかったけど、今は何もない。特にこういう言葉の暴力に訴えるやつは、ねちねちとしつこく、構っただけ面倒なことになる。
そういうわけで構わないことにし、秀郎はしゃがんでプールの水面に手を伸ばす。もう少しで柄に手が届く。
「つりあわねーんだよ、お前と泉川の娘とじゃ」
「……」
「聞けよ」
「……」
無視を続ける秀郎に苛立ちを募らせたのか、上級生は声を荒げた。がらん、とモップがコートに投げ捨てられる音。
「チビが、調子に乗んなよッ」
どんっと。秀郎の背中に、衝撃が走った。何をされたのかを瞬時に把握し、秀郎の頭が真っ白になる。
(しまった)まったくのノーガードだった。演習に続くプール掃除で疲れていたというせいもあるけれど、すっかり油断していた。悪口を無視されると頭に血が昇ってこういう行動に出る奴がいる。お父さんからそのことを教えてもらい、秀郎自身もわかっていたのに。
『つりあわねーんだよ』
――その言葉に、無意識に動揺していたせいで。
後悔の念以外を感じる暇無く。
ばしゃんっ
秀郎の小さな身体は、服を着たままプールの水の中に突き落とされていた。
◇◇◇
――おばあちゃん、おばあちゃん。この前さっちゃんと一緒に山のかみさまに逢いに行ったよ。ぼく、そこでお願いした
――どんなことをだい?
――さっちゃんとずっと一緒にいられますようにって
――ほう。『さっちゃんの病気を治してください』じゃなくて?
――うん。それが一番のお願いなんだって、わかったから
――そうなのかい?
――うん。あのね、おばあちゃん。ぼく、さっちゃんのこと、ソンケイしてる
――おや、むつかしい言葉を知っているねえ、ヒデちゃん
――お父さんが教えてくれた。自分もそうなりたいってひとのこと、そう思うんだって。だからねおばあちゃん、ぼく、さっちゃんのそばにいるよ。ぼくもさっちゃんみたいになりたいから
――へえ。『さっちゃんはかわいそう』じゃないのかい?
――さっちゃんはかわいそうじゃないよ。だって、さっちゃんはぼくよりずっと、ずぅっとがんばってるもの。だから、病気が治らなくたってかわいそうじゃないよ。ソンケイできるひとなんだよ
――……
――……ほんとうは、病気、治ってほしい。さっちゃんが苦しんでるのはすごくイヤだ。でも、一緒にいるとわらってくれるんだ。『ヒデちゃんがそばにいてくれると、元気が出る』んだって。だからぼく、さっちゃんのそばにいる。ずっとずっと、一緒にいるよ
――……そうかい。えらい、偉いねえ。ヒデちゃんは本当に偉い子だよ。これが時代の光なのだねえ
――おばあちゃん、どうしたの。泣いてるの?
――ああ、だいじょうぶだよ。ちょっと嬉しくてねえ……
◇◇◇
ぱちっと色素の薄い瞳が見開かれる。ベッドから身を起こすと、額に載せられていた布が敷布の上に落ちた。人肌の熱を吸ってぬるまったそれを洗面器に戻し、布団の中から外に出る。手足の先が覚束ない。でも根性で身体を動かす。
どきんどきん、と心臓が波打っていた。呼吸も苦しい。
震える手でタンスを探り、なんとか着替えを引っ張り出す。汗をかいて熱は下がり、身体は冷えている。そしてそれだけではない寒気と動悸が、あとからあとから湧き上がってきていた。
覚えがあった。これは、「悪い予感」というやつだ。
焦って指先がすべるのをなんとか押しとどめつつ、寝巻きを着替える。喉がからからに渇いていたので枕元の水差しをとってごくごくと飲み干した。と、電話機の横に、置手紙を発見する。
『さっちゃんへ
おかゆは、冷ぞうこに入れておきました。水分ほきゅうはしっかりしてください。プールが終わったら、もう一回来ます。なにかあったら、連らくしてね。
秀郎』
ヘタクソな字の横に、ヘタクソなキャラクター絵も添えてあった。それを見つめていたら、泣きたくなるような気持ちが胸の奥をきしませた。あったかくて優しくて、でももどかしく切ない気持ち。
こうしちゃいられない。手紙をひっつかんでポケットに仕舞い、いつものウエストポーチを巻き付ける。覚束ない身体を励ましながら洗面所に行って、顔を洗って髪を簡単に整えて。真っ白な顔色に活を入れる意味で、ぱんっと両頬を両手で叩く。大丈夫、あたしは大丈夫。
長時間横になっていたのに急激に動いたせいで手足ががくがく震える。でも、行かなければ。机の上、テディベアの横に置いてあるものを掴んで、ポーチの上ポケットに入れた。最近はこれを持ち歩くのが癖になっている。薬を持ち歩くのは大嫌いなのに、これが共にあるだけでだいぶ気分が紛れる。しゃり、という小さな粒の音が、なぜだか奇妙な安心感を与えてくれるのだ。
そんなに動いていないのに勝手に荒くなる呼吸を落ち着かせながら、玄関を通り抜ける。霞む視界の中、なんとか鍵をかけて外に一歩踏み出す。ここから歩くのに学校は遠い、でも辿り着いてみせる。
炎天下ではない曇り空だったのはせめてもの救いか。ぐわんぐわんと歪む世界の中、耳鳴りと寒気と動悸に追い立てられながら、紗絵子はふらふらと歩き出した。
長く生きている動物の声が「聴こえる」、不思議な聴覚。
時折発揮される、超人的な身体能力。
そして……離れていても大切な人の危機を感じ取る、第六感。
昔、そういった能力のことを紗絵子に教えてくれた人は、こう言っていた。
「あなたのような子のことを『霊法師』というのだよ」と。




