さっちゃんとぼく 3
※今より少し前の時代設定なので、スマフォとかは無いです
あっという間に時間は過ぎる。さっちゃんの誕生日が明日に迫った、真夏のある日。
「さっちゃん、まだ起きてないんですか」
「起きてはいるんだけど、部屋から出られなくて。昨日の夜から具合が悪いみたいなの」
夏休み中のプール行事がその日にあって、秀郎はいつものようにさっちゃんを迎えに来ていた。さっちゃんの家はお金持ちで、とても広くて綺麗な一戸建てだ。派遣のお手伝いさんもいて、そのうちの一人とはもう顔なじみである。
顔なじみの家政婦さんは済まなそうに眉を下げて、秀郎に言った。
「かかりつけのお医者さまに診てもらったら、風邪ですって。学校にはもちろん連絡しておいたけど、今日のプールは休むわね。お粥を作っておいたのだけど、ちゃんと食べてくれるかが心配ね。食欲が無いみたいだから」
「お薬は、飲んでますか。吐いたり、とか……」
「夜の服用分はちゃんと飲んでくれてしっかり寝て、辛いところは過ぎたのよ。けど、朝はまだ……困ったわね。お昼から私、外せない用事があるの」
さっちゃんはとても人見知りする子だ。仲良くなったら優しいけど、慣れるまでが長い。今の家政婦さんだって、普通に話せるようになるまで随分かかったみたいだ。そしてこのお屋敷内では、彼女以外に懐こうとしない。
さっちゃんと共に暮らしているはずのお父さんは仕事で家に戻らず、お母さんもいない。そしてまだ小さい孫を預かっているはずのおじいさんおばあさんは――
(思い出したくない)
「ぼくが様子みてます。だいじょうぶです。お粥、ちゃんと食べてもらいますから」
「ありがとう、ヒデちゃん」
心優しい家政婦さんから預かった鍵を失くさないよう、握り締めた。
「レディの部屋に入ってくんなよ、すけべ」
秀郎が部屋に入るなり、子供用にしては大きなベッドの上で、さっちゃんはそう言った。言ってることはひどいけど、迫力は無い。声は掠れて白い頬は真っ赤で、視線はどこかぼうっとしていた。心配していた持病の発作ではないようだが、夏風邪であることに間違いは無いみたいだ。身体の抵抗力が弱って、発熱している。
そしてやっぱり、お粥の皿に手をつけられた様子は無かった。傍に用意された薬方にも。
「入ってこられるのがイヤだったら、ちゃんと食べなよ」
さっちゃんの部屋に入ることは、初めてじゃない。前にも何度かあって、最初は確かに恥ずかしかった。とても広い一人部屋はお嬢様らしく、ピンクのクッションとかクマの縫いぐるみとか美少女キャラクターのカレンダーとかが女の子らしい。男の子とは違う甘い雰囲気があって、しかもさっちゃんの香りがいっぱいの部屋は、年頃の少年である秀郎にとって未だに慣れない場所だ。でも不思議なことに、部屋主であるさっちゃんが具合が悪い日だと、そういう感情はさっぱり無くなる。引け目や浮ついたものがどこかに消え、さっちゃんの悪口にも動じない冷静な自分が現れる。「今出来ることをしなければ」という真剣な気持ちになるのだ。
そんな秀郎の様子を見て「ヒデちゃんは男版ナースみたい」と言ったのは当のさっちゃんである。
「……食べたくない」
「だめだよ、食べなきゃ。お薬飲めないよ」
厳格な男版ナースの前では、患者の駄々なんて蚊に刺されたようなものだ。
「……飲まなくていいもん。ヒデちゃん、コジュウトみたいでしつこい。きらい」
「きらいでいいよ。お薬はぜったいに飲まないとだめ。お粥は食べられるだけでいいから、食べて。畑野さん、せっかく作ってくれたのにさっちゃんが食べてくれないとかなしむよ」
「……」
しばらくして、駄々を捏ねていた子供患者はのそのそと起き上がる。人見知りする子だけど、一度心を許した相手に対してはいっしょうけんめいだ。今もそう。食欲は湧かないし身体は絶不調だけど、仲良しの家政婦さんをかなしませるのがイヤだから頑張って食べようとしている。さっちゃんは優しい子だ。
「……ごちそうさま」
「お水も飲んで」
「……ん」
でもやっぱり、お皿の半分程度が限界だった。長い時間をかけもぐもぐしてゆっくり飲み込んで、薬を嫌々流し込んで、口を濯いでから細い身体はすぐ横になった。身を起こすのもしんどいらしい。
「……ヒデちゃんも、もう帰りな。カゼ、うつるよ」
「さっちゃんより先に引いたから、もう平気。――寝るまで、傍にいるよ」
「……すけべ」
相変わらずひどいことを言いながら、ゆっくり閉じていく色素の薄い瞳。いっぽうの秀郎は、自分の口から零れたさっきの言葉に自分で動揺していた。「寝るまでそばにいる」なんて、なんてキザな言葉なんだろう。確かにすけべと言われても仕方ない。こんなこと言うつもりじゃなかったのに、苦しそうなさっちゃんを見ていたら勝手に言っていたのだ。最近こういうことが多くて、自分で自分を持て余している。
でも。
「……ありがと。ごめんね、きらいって言って」
「さっちゃん?」
「……」
すう、と穏やかな顔で眠りに入ったさっちゃんを見つめていたら、それでいいのかもなと思った。
さっちゃんの具合が悪いと聞いてから、すぐお母さんに頼んだ。午前中に入れていた学校プールでの演習を、午後に入れなおしてもらうように。秀郎のお母さんは慣れたもので、すぐに学校に連絡を入れてくれた。今日は午後から曇りだから少し冷えるかもだけど、がんばって泳ごうと思う。
フローリングの長い廊下をぺたぺた歩いて台所に向かい、慣れた手つきで踏み台を運んで、食器棚に置いてある耐熱容器を取った。冷蔵庫を覗くとちゃんとお昼分がある、ちょっと迷ったけど食べかけは耐熱容器に入れ一緒に仕舞っておく。夏場だし、本来は処分しておくべきなのだろうが、そういう気になれなかった。温め直すか捨てるかはさっちゃん本人が判断すればいい。
何度か訪問するうち、この広い家の間取りも大体わかってきた。普段、さっちゃんと数日替わりのお手伝いさん以外の人間は長く滞在しないらしい。広々とした最新式のシステムキッチンはとても綺麗で、調理用具の一部を除きあまり使われない家具は新品同様につやつやしている。そして家ぜんたいは静謐そのものだ。家政婦さんがおらず、起きている人間もいないとこういうものなのだろう。でも。
(どうして、さっちゃんのお父さんはここにいないんだろう)
今の状況が、秀郎にはどうしても理解出来ない。納得いかない、と言ったほうがいいだろうか。ふつう、風邪を引いたときって家族が看病してくれるものじゃないのか。赤の他人、しかも子供である秀郎が、どうしてこんな広い家の鍵を預かる事態になっているのか。
思い起こす。この前夏風邪を引いたときも、去年弟がインフルエンザにかかったときも、お母さんは仕事を早引けしたり休んだりして傍にいてくれた。お母さんの都合が悪いときはお父さんが。お父さんが入院していたあの頃だって、具合が悪くなったらおばあちゃんがしっかり看病してくれてたのだ。看病されるっていうのはこそばゆいけど、辛いときは気持ちが楽になる。家族に大切にされてるんだって、そう感じることの出来るひとときなはず。だから仮病のズル休みはやりたがる子が大勢いるんだ。お父さんお母さんが優しくしてくれるからって。
さっちゃんのお母さんがここにいないのは、別居状態であるせいだ。戻れない理由もなんとなくわかる。秀郎自身、あんまり思い出したくない出来事と共に渋々納得している。でも、お父さんは。さっちゃんのお父さんは、さっちゃんの看病をするのになんの問題も無いはずだ。
(なのに、いない)
秀郎はまだ子供だから、大人の世界のことはわからない。わからないけど、納得できないものは納得できないのだ。
(仕事が、いそがしいから? どうしても休めないのかな)
さっちゃんのお父さんがどんなところで働いているのか、どんなことをしているのか、聞いたことはあるけどそれがどのくらい重要なのかは正直よくわからない。でも秀郎のお父さんはさっちゃんのお父さんのことを決して悪く言わないし、仕事仲間のおやっさん――ベテランの建設作業監督で逢うたび秀郎らを可愛がってくれる――も前に言っていた。
『ヒデ坊、男にはな、矛盾と闘わなきゃならねえ時があるんだよ』
矛盾。さっちゃんのお父さんは今、そういうものと闘っているってことなんだろうか。
(でも)
広いベッドの上で、辛そうに縮こまるさっちゃんの姿が過ぎる。今やってる仕事っていうのは、あの状態のさっちゃんを放っておいてまで優先しなければならないのだろうか。まして、明日はさっちゃんの誕生日なのに。
(仕事、やすんでほしい。一日だけでいいから、さっちゃんのところに帰って来てほしいな)
さっちゃんのお父さんが帰ってきたらきっと、というか絶対、さっちゃんは大喜びする。口ではクソ親父だとかカイショウナシだとか言ってるけど、本当はお父さんのことがだいすきなんだ。部屋に置いてあるものはぜんぶ、お父さんが買ってくれたものだってわかってる。ピンクの薄汚れたクッションも、目玉の取れかけたクマの縫いぐるみも、一年遅れてるキュアムーンのカレンダーだって。みんな、お父さんがプレゼントしてくれたものだからこそ、さっちゃんは大切にしているんだ。
もしお父さんが帰ってきたら、さっちゃんは喜ぶ。
ぼくが一緒にいるときよりも、ずっと。
「……」
冷たい水で食器洗いをしながら、つきんっと胸の奥で何かが痛んだ。どうしてだろうか。さっちゃんには喜んでもらいたいのに。
お皿とレンゲを濯いで水切り台に立てかけて、さっちゃん用にストックしてある給水用のスポーツドリンクを作り足して冷蔵庫にしまい(これもだいぶ慣れた作業だ)、秀郎はぺたぺたとまたフローリングを歩いてさっちゃんの部屋に戻った。そろそろお昼ご飯を食べに自宅に戻らなければ。
すうすうと寝息が聴こえる。薬が効いているみたいで、ほっとした。うっすら汗もかいているようだ。お母さんの言葉が過ぎる、『お薬飲んでたっぷり寝てしっかり汗をかくと、お熱が下がるのよ』。きっと起きたときは、具合も良くなっているだろう。
(あとはもうだいじょうぶだよね)
まさか女の子の部屋でタンスを勝手に漁り、着替えを準備しておくわけにもいかない。さっちゃんは秀郎よりよっぽど体調不良に慣れているので、具合さえ良くなれば大丈夫だろう。水差しもコードレスの電話も充電器付きでちゃんと枕元にある。カレンダーの横に貼り付けてあるお手伝いさんの派遣表を見ると、畑野さんのあとに来る人は夕方近くのようだ。
「……時間、あるよね」
それでもなんとなく、帰りがたかった。手持ち無沙汰に、寝顔を見下ろす。
子供用の氷枕の上にさらさらの栗毛が散っている。おでこからぽとんと冷布が落ちて、それを拾おうと手を伸ばしたときにちょっと触れてしまった。さっちゃんの髪は柔らかい。
お母さんが熱を出したときの弟にそうしているように、ほつれたところをちょっと直してあげる。人の手が気持ちいいのか寝顔がふわっと綻んだ。起きているときのきりっとしたものとだいぶ違う、ちっちゃな女の子みたいな表情。夢心地でにっこりする妹も、よくこんな顔をする。
(ぐっすり寝てるときのマアちゃんみたいだ)
気分が和んで、冷布を取り換えたあとも髪を撫で撫でしていると、ふとさっちゃんの頭が動いた。すり、と甘えるように手の平に顔を当ててくる。いつもよりほんの少し色の濃い薄桃色の唇が、吐息と共に秀郎の指に触れた。
ぞく、と何かが背筋に走る。
(――)
ちょっと変な気分になってしまい、慌てて手を離す。さっきまで真剣にさっちゃんのことを心配していたのに、またいつもの浮ついたものが戻ってきてしまった。そんなつもりじゃなかったのに。それに、今もまださっちゃんが具合を悪くしてるのに。
――もっと触りたいな、とか、顔をくっつけたいな、とか思うなんて。
居た堪れなくなって、振り切るように部屋を出た。さっちゃんの勉強机の上、縫いぐるみの横に置かれていたお手玉から「ヒデちゃん、おイタはダメだよ」と声が聴こえたような気がした。縮こまって反省する。さっちゃん、おばあちゃん、ごめんなさい。
鍵をかけてさっちゃん家を出てから、スイミングバッグを持ってない方の手をぎゅっと握りこみ、家までダッシュした。触れた感触は中々消えなかった。
『すけべ』
(本当にそうなのかもしれない)
さっちゃんに知られたら問答無用で蹴り飛ばされそうだ。
◇◇◇
――おばあちゃん、おばあちゃん。変だよ。どうして山のかみさまは、お願いをきいてくれないの
――お願い?
――ぼく、しんけんにお願いしたんだよ。さっちゃんの病気を治してくださいって。山中のおじさんと一緒に裏山のおそうじしてきたし、お供えしたし、おこづかい無しでお母さんのお手伝いしたし、ドッキリマンのレアシールも育郎にあげた。でもさっちゃんの具合、よくならない
――おやおや。いつの間にやら、ヒデちゃんとっても頑張ってたんだねえ
――がんばったよ。でも、さっちゃんの病気、まだ治ってないんだ。がんばったのに、山のかみさま、ぼくのお願い聞いてくれてないんだ。変だよ
――……言っただろう、ヒデちゃん。さっちゃんは生きる上で、とうに無理をしているんだ。山の神様のお力は無限ではないよ。ヒデちゃんのおこないはとても偉いけど、叶えられない願いもあるんだ。これ以上、無理なものを望んじゃいけない
――いやだよ。だってさっちゃん、『だいじょうぶ』じゃない時はとっても苦しそう。かわいそうだよ
――……ヒデちゃん。本当にさっちゃんは、かわいそうかい?
――……え?
――ヒデちゃんが頑張ったのと同じくらい、さっちゃんも頑張っている。だってお勉強ができて、優しくて、動物としゃべれて、かっこいい、素敵な子なんだろう?
――……うん
――長いこと苦しみながら、それでもたくさんのことを頑張っているさっちゃんはかわいそう? ヒデちゃんは本当に、そう思うのかい……?
――……ぼくは……
◇◇◇




