さっちゃんとぼく 5
◇◇◇
――おばあちゃん、おばあちゃん。昨日ね、……どうしたの、おばあちゃん。具合、わるいの
――だいじょうぶだよ、ヒデちゃん。それはそうと、昨日はさっちゃん達と一緒にお出かけしたんだってねえ。楽しかったかい?
――うん! さっちゃんのお父さんにね、ドライブで海まで連れてってもらった。車がすごくぴかぴかで速かった。さむくて泳げなかったけど、さっちゃんすごく嬉しそうだったよ。うみべのレストランで貝もたくさん食べた。おいしかった!
――そうかい、それは良かった
――あ、でもね、おばあちゃん
――なんだい
――さっちゃんのお父さん、来年からあめりかに行くんだって。しばらく帰ってこれないんだって
――まあ、本当にかい
――うん。さっちゃんさびしそうだった……ねえおばあちゃん、どうしてさっちゃんのお母さんは、さっちゃんと一緒にいないの?
――ヒデちゃんには少しむつかしいことかもねえ。でも、そうだねえ、さっちゃんが寂しいなら、ヒデちゃんはどうしたい?
――一緒に遊びに行こうって言うよ。今日みたいに楽しいと、きっとさっちゃんもさびしくないから。ぼく、さっちゃんと遊ぶのすきだし。さっちゃんもぼくといると楽しいって
――そうかい。二人とも楽しくて幸せなら、それは素敵なことだねえ
――うん!
……ただしヒデちゃん、気をつけなさい。世の中には、嫉妬という感情も存在するのだから。
◇◇◇
「……その三年生が、手が滑ったみたいでモップを落としたんです。それで、僕は拾うのを手伝おうとしたんですけど、ちょっとつまづいて、危ないって思ったら咄嗟に手が出て……、」
そんなことを好き勝手に喋る上級生の口元を見つつ、秀郎は更衣室ベンチの上でタオルに包まっていた。足下には季節はずれの電気ストーブ。がたがた奥歯が鳴るのは、準備運動無しの着衣水泳を余儀なくされたからである。寒いとかなんとかよりも、失態を回避出来なかった自分が歯痒い。
「だから、ワザとじゃないんです。僕は、」
「ケンカではなく過失だったのなら、次からはこんなことにならないよう充分注意をしなさい。森下は危うく溺れるところだったんだぞ。本当なら親御さんに来てもらっているところだ。それとも宮本は、来てもらいたいのか」
秀郎をタオルに包まらせた指導担当の体育教師はそう言って、太い腕を組んだ。ずぶ濡れとなった服を洗って西日の差す場所に干してくれたのは別の先生だ。
「そ、それは、」
「話を大ごとにしたくないのなら、黙っていなさい。森下は何か、言いたいことはあるか」
「……ありません」
「そうか? 宮本の言う通りで、間違い無いか?」
「先生、僕がウソついてるっていうんですか。本当です。本当に僕は、悪くないんです、」
「宮本、先生は今、森下と話をしているんだ」
だらだらと弁解を重ねる上級生と寡黙を貫く秀郎を見比べ、先生は溜息をついた。目撃者は多くないが、状況からしてどちらに非があるのかうっすらわかっているのだろう。
「森下?」
「……」
ここで正直に事情を話して上級生を糾弾するのは簡単だったが、秀郎は沈黙した。突き落とされたことは確かに腹が立つが、その理由について説明するのは余りにバカバカしく、低俗なことだと感じたのでやりたくなかった。つまらない言い訳を重ねて、ダラダラねちねち言い募るこいつとドウルイになることだけは避けたい。そんなの、男らしくない。
『つりあわねーんだよ』
(そんなことない。つりあわないのは、こいつの方だ)
「何も無いのなら、話は簡単だな。宮本、ちゃんと森下に謝るんだ。これは人間として、基本的なことだぞ」
「ッゴメン、ナサイ。でも、僕は本当に悪くないんです、こいつがドジって道塞いでたから、つまづいて、」
「宮本。ワザとではなくとも、それは過失をした側の態度ではないよ。もう六年生になるのだから、それくらいはわかるだろう」
「ッ」
上級生は歯軋りし、濁った目で秀郎を睨んだ。勘弁して欲しい、と秀郎は思った。これじゃ逆恨みされるのが目に見えてる。
ただし先生の厳しい物言いに快哉を叫んだ自分がいるのも事実だ。ニヤっとしたくなるのを堪え、紫色の唇を引き結んで、上級生を睨み返す。ここで重要なのは、キゼンとした態度だ。
「ッんだよ……」
もともと目力のある秀郎である。臆することなく睨み返され、相手はたじたじとなったようだ。やましいことが有るか無いかの、当然の勝利である。
(こんな男らしくないやつ、怒られて当たり前だ)
平和主義な秀郎だって、人並みに感情はある。あの冷たいプールに理不尽な衝動で突き落とされて、しかも悪びれずウソの言い訳を重ねられて、簡単に赦してやるほど気は優しくない。憎たらしい奴が怒られてるのを見るのはスカッとするのだ。
「――とにかく、森下に大事が無くて良かった。どちらにもケガは無かったし過失というのなら、騒ぎを大きくする必要も無いだろう。けど森下の方はどうする。家の人に迎えに来てもらうか?」
「……いいえ、だいじょうぶです」
少し水を飲んだけれど、特に大したケガはしなかった。けれど、服がまだ乾いていないのでタオルの下は素っ裸だ。お母さんに着替えを持ってきてもらいたいのは山々だけど、今頃はまだ仕事中のはずである。クリーニング屋の受付業務、夕方近くのこの時間帯は特に忙しい。こういうことで来てもらうのはやっぱり、なんとなく恥ずかしいし。
「そうか。服が乾くまで時間あるな。暗くなるだろうし、もし良かったら、先生が送っていってやる。少し待ってもらうことになるけど、どうする?」
「あ……お願いします」
正直もう身体はヘトヘトだ。楽が出来るのなら、楽をしたい。
「ヒデ、だいじょぶだったか!」「ヒデちゃん、何があったの」「森下、ケガ無いのか」
更衣室の外で心配そうにうろついていた友達が駆け寄ってくる。知り合いもわらわらと集まってきてその対応に追われつつ、秀郎は一人でそっと更衣室を出て行く上級生の背中を眺めた。そして意地悪いことをこっそりと思う。
(友達がいないって、さびしいな)と。
待たされた時間はわずかだったが、真夏の暑気で服は半乾きとなり、それを着込んで秀郎は先生の車に乗った。そしてあの上級生の前では頼めなかったことを頼んだ、さっちゃんの家の前までお願いします、と。先生は笑って了承してくれた。
田舎道をなめらかに走る四駆、車窓を開けて外を眺める。時刻はすっかり夕方で、落ちるのが遅い夏の太陽がゆっくりと傾いでいる。カナカナカナ、と鳴く夕刻の蝉。
「森下は泉川と仲良かったな。宮本も、そのことで突っかかってきてたのか」
「あ、はい……」
タバコの匂いがうっすらと漂う車内にて、先生は運転しながら話しかけてきた。やはり、お見通しだったらしい。
「宮本はな、焦っているんだよ。なんでも親が『泉川の娘となんとしてでも仲良くなれ』って発破かけてるらしくてな。あ、発破ってわかるか?」
「わかります」
「そうか。まあそんなわけで、本人も必死なんだろうな。でも巧くいかなくて、巧くやってる森下のことが羨ましいんだろう。要するに、嫉妬だな。しかし最上級生なのに、あんな形で下級生に当たるなんてなぁ……でもこればっかりは、本人が気付いて悪いところを直していくしかない。男なら正攻法でアタックしろよって先生は思う。個人的な意見だがな」
「せいこうほう……ってなんですか?」
「ああ、正直でストレートな攻め方、って意味だ」
確かに、さっちゃんは金持ち度をアピールするよりストレートに気持ちを伝えてくれる方が好きだろうな、と思った。そしてちょっと安心した。あいつ、さっちゃんの好みをわかってなくて良かった。まあ、秀郎もさっちゃんの異性の好みは具体的には知らないのだが。聞いたことも無いし。
(さっちゃんはどういう男が好きなんだろう)
胸の奥がまた、正体不明に痛む。
秀郎のそんな心地をしらず、先生は笑って続けた。
「とにかく森下、お前は偉かったよ。よく我慢した」
その一言で、ほの暗いものを抱えていた秀郎の胸はスッとする。悔しさを堪えた甲斐があった。そしてやっと、あの上級生を赦してやる気になれた。
(かわいそうだな)
あの小さく丸まった背中を思い起こすに、もう怒りは湧かない。逆にすごくかわいそうな奴だと感じる。だってあいつは、秀郎みたく何かが起こったとき心配してくれる友達がいないのだ。
かわいそうって。
(『かわいそう』って思いは、色んなところにあるんだ)
気持ちに余裕が出て、秀郎はそっと傍らを見上げる。ハンドルを握る先生の薬指には、銀色の指輪が一つ収まっていた。ルームミラーの上には、御守りと一緒に可愛らしい編みぐるみが引っかかっている。きっと先生にも奥さんがいて、大切な家族が家で待っているのだろう。
「泉川の具合はどうだ。森下から見て、今季、プールやれそうか?」
「わかりません。最近は『だいじょうぶ』な日が多いけど、今日の風邪みたく、いつまた具合悪くなるのか、わからなくて」
「そうか……親御さんが中々家に戻れないってことは知ってるが、風邪引いたときは心細いだろうなぁ」
「……」
信号機の前で止まると、蝉の声がやけに物悲しく耳に入ってくる。気の早い川蛙はもう鳴き始め、近くの家畜舎からの臭いも漂ってくる。田舎らしい、濃密な生き物の気配。それらは慣れた感覚なのに、秀郎はなぜか身震いした。服が生乾きのせいだろうか。
ゆっくりと暮れていく夏空の下、何かが押し流されていくような暗い空気。生臭く湿ったものを運ぶ、どろりとした風。
クラスメイトから預かった包みを握り締める。どうしてだか、さっちゃんに逢いたいと強く感じた。
(もうすぐ逢えるのに、どうしてだろう)
目には視えない、嫌な予感が忍び寄る。
◇◇◇
――おばあちゃん、おばあちゃん。今日はね……おばあちゃん?
――……ヒデちゃん、かい……ごめん、ちょっと、お母さんを呼んで、きて……
――おばあちゃん、どうしたのおばあちゃん……!
◇◇◇
お礼を言って先生の車から降りて、秀郎はさっちゃん家のドアベルを鳴らす。派遣のお手伝いさんが来ている時間帯のはずだが、なぜか灯りは点いていない。視界は開けているけど陽の光はそろそろ差し込みにくくなっており、家の中は暗めなはずだ。
(まだ来てないのかな)
そして家の住人はまだ起きていないのだろうか。起きていたら、ぜったい灯りを点けているはずだ。明りが無いときは、テレビをつけている。さっちゃんはお化けが嫌いで、暗くて静かなのが苦手なのだ。
「さっちゃん、起きてる? 秀郎だけど」
インターフォンに話しかけても、応答が無い。まだ起きてないのかなと思いつつ、合鍵を使って中に入ることにする。この辺りは勝手知ったる図々しさだ。
うす暗い玄関内、ぽちりと電灯を点けてさっちゃんの部屋に向かう。テレビの音もしないから、居間にもいない。なら部屋に――
「っ……なんで、」
なんで、いないのだろう。
手にしていた可愛らしいラッピングの誕生日プレゼントが、無意識に床に落ちた。
さっちゃんが、いない。
逸る手元を押さえ、なんとか鍵を閉めて秀郎は外へ飛び出した。家の中を探し回ったけどやっぱりいなかった、冷蔵庫のお粥は減っていないし家具も動いた様子が無い。ではどこに行ったのだろう。
さっきも確認した車庫を覗く、やっぱりいない。ここが空ということは、お手伝いさんも来ていない。勝手だとは思ったけど電話を借りて、自宅にかける。出たのは弟で、聞いてみたが何も知らないようだ。お母さんからも何も情報無し。少なくともさっちゃんが真っ先に頼るだろう森下家には、なんの連絡も来ていない。
玄関をもう一度確認したけど、さっちゃんがいつも履いているサンダルだけ無くなっていた。やっぱりさっちゃんは外に出たのだ。でも。
(まだ、具合が悪い、のに)
風邪が治りかけの病み上がりで、一体さっちゃんはどこに行ってしまったのだろう。置手紙も電話連絡も何も無しで。家を出る前に置いていった手紙は無い。机の上のお手玉も消えていた。さっちゃんが持って行ったのか。でも、どうして。それを持って、いったいどこに。
どこに。
(さっちゃん、)
走りながら、秀郎の心臓は痛いくらい波打った。
(さっちゃん……!)
すごくすごく、嫌な予感がする。
・
・
・
「あら森下くんこんばんは。梓は塾でいないのだけど、何かご用?」
「こんばんは。あの、こちらに、さっちゃん、きて、ませんか」
「さっちゃんって、泉川紗絵子ちゃんのこと? 来てないけど……どうしたの、何かあったの? そんなに息を切らして」
「ありがとうござい、ました。だいじょうぶです。失礼しました」
ぽつりぽつりと田舎道の電灯が点き出した。夏のこの時期、ここまで暗くなるのは相当だ。
喉が破れるかと思うくらい痛い。呼吸も苦しい。ズックの足裏もじんじんする。どのくらい走ったんだろう。
子供の脚では高が知れているけど、とにかく思い当たる場所へしらみつぶしに走った。近くの公園、空き地、友達の家、図書館、役場、そして学校。気がついたときはもう辺りは真っ暗で、元から残り少なかった秀郎の体力は限界だった。
「……やっぱ、り、大人に、さがして、もら、わなきゃ……」
せっかく先生の車で送ってもらったのというに、自分は何をしているんだろう。無闇やたらに走り回って、それで見つけられなくて、何を焦っているんだろう。
空っぽのベッドを見た瞬間、秀郎の頭の中にあった冷静な部分が吹き飛んでしまったのだ。さっちゃんがいない、それだけの事実がその他を全部塗り潰した。そして気がついたら、外に飛び出していた。
(ほんとうに、何やってるんだろう)
プールの水で濡れていた服はすっかり乾いて、でも代わりに秀郎の汗でじっとり湿っていた。くたくたになった布地で額を拭い、棒切れのようになった脚でまた歩き出す。なんとか頭の中の冷静な部分をかき集め、予定を組みなおす。
(さっちゃん家に戻って、もういちど電話を借りて。もしかしてぼくの家にむかってる最中だったかもしれないし、何かが食べたくなって、どこかのお店に買い物に行っているのかもしれない)
まだ、手軽な通信機器が家庭に出回って間もない時勢である。秀郎はそういったものを親に持たされていない。田舎なので電波状況が悪いということもあり、大半の世帯は所持していないのだ。さっちゃんは緊急用のポケベルを持っているが、連絡先はそういったわけで限定されており、離れてしまえば秀郎個人と繋がるすべは限られていた。
だからこそ、秀郎はおのれ一人で探し回る必要は無いのだ。探したいのなら、他人――特に、車という脚と連絡手段の多い大人――と分担して、効率よく探すのが筋なはず。
なのに。
(どうして)
唇を噛み締める。どうして、それを咄嗟に判断できなかったのだろう。こうやって、いたずらに走り回って、意味無く体力を消耗して。連絡してあるとはいえこれだけ遅くなればお母さんは心配しているだろうし、お父さんにも怒られる。そしてさっちゃんにもきっと、笑われる。
それなのに。それにしたって。
いるのが当然だと思っていた人が突然いなくなるのは、今の秀郎には到底耐え切れることではなかった。
生臭い家畜舎の空気が鼻につく。風があまり強くないせいで、どろりと重い暑気が身体中に纏わり付いている。
予想外の状況、巧くいかない状態。自分でもヤバい思考回路になっていることに気付き、秀郎は深呼吸する。勝手にがくがく震える手を握り締めた。焦るな、と自分に言い聞かせる。
(焦るな。焦っちゃだめだ。きっと急に『だいじょうぶ』になって、それで家の中にいるのがイヤになって、ちょっと出かけただけなんだ。ぼくが心配すること、無い)
そう思いたい。でも、この嫌な予感は一体なんなんだ。
「はぁ、はぁ、はぁ、は……っ」
歩を緩めても、息切れは中々収まらない。不可解なものを、自分への苛立ちに転換する。もっと多くのことをしたいのに、出来ないことが悔しい。子供はどうして、大人より体力の上限が低いんだろう。
(どうして、もっと早く走れないんだ)
この覚束ない脚が憎い。
(どうして、もっと長く歩けない)
弱っちいこの身体が忌々しい。
(どうして……!)
想いの強さと『つりあわない』自分の力の無さが、心底憎たらしかった。
……太陽が沈んだのちは、蝉の鳴き声は静まる。代わりに高まるのは、蛙のそれ。
ゲコゲコと、ひたすらにやかましいそれは意味がある。雄が雌に求愛しているのだ。蛍のように美しくは無いけれど。秋の鈴虫のように情緒的ではないけれど。
やかましくも、懸命に。
不恰好ながら、まっすぐに。
「そこの、」
かつり、と。
「そこの幼き人間。探し人はこちらだ」
不意に現れた、一人の男。
「探しているのだろう。―――おぬしの、つがいを」
田舎の夜道。
秀郎の前に現れたそいつは、真っ白な髪をしていた。
ヒーローは遅れてやってくる(遅いよ




