09 闘争か逃走か
突然、資料室のドアが蹴破られるような勢いで開かれた。
「大草ァ!」
これが怒声でなければ、罵声としか表現できないであろう声だった。
ひっ、という奇妙な声を上げて、美幸は硬直する。
つい先程までの和やかなやり取りが遠い世界のことのように感じられるほど、一気に血の気が引いていく。
「お前ェ! なんてことしてくれたんだ! あぁ!?」
指先や足先、それに頭から一気に血の気が引いていった。
椅子に座ったまま腰を抜かしたのか、立ち上がることも身動きすらもできない。
「鈴木課長、どうしました」
完全に怯えてパニックを起こした美幸の前に立ったのは、部長の中谷だった。
「そんな大声出さないでも聞こえますよ」
「お前っっ……部下にどういう教育しとるんだ! あぁ!? えぇおい! どう責任取るんだオラァ!」
「だから大声を出さないでください、と言ってるでしょう。何があったんです」
鈴木は顔を真っ赤にして目を見開き、怯えて顔色が土気色になった美幸を見下ろしていた。
「そいつが! 大草がなァ! 商談中のデータを消しやがったんだよォ! 大口商談の! 8億だぞ! 8億の受注に関わるデータを! そいつがなぁ!」
「具体的に、何のデータを、いつ消したんですか。そもそも、彼女がどうして営業部のデータを消すんですか」
「証拠があるんだよ証拠がァ! なぁ! そうだろうが! 斎藤ォ!」
鈴木の後ろから現れたのは、良く企画部の坂巻とつるんでいる女だった。どこか落ち着きがなく、何かに怯えているような表情である。
「なぁ! お前言ったよなぁ! 商談データを消したのが大草だって、そう履歴が残ってたって! なぁ!?」
「は、はい……あの、え、営業部の、商談中フォルダのデータが、あの、け、消されてて、あの……アクセス履歴見たら、最後のアクセスが、大草さんで……」
目が泳いだ状態で落ち着きのない斎藤は、入社4年目の営業社員だ。
「コイツが消したデータなぁ! 今日中に提出するはずのデータだったんだよ! コイツが消したせいで8億の売上が失注になってんだよ! あぁ!? オラどうやって責任とるつもりだぁ!? あぁ!?」
美幸はあまりの恐怖のためか、ひっ、ひっ、という奇妙な呼吸音を立て始める。
「吉田さん、紙袋かレジ袋持ってないっすか」
「おう」
たまたま居合わせた幸一が吉田に目配せをすると、過呼吸の発作を起こした美幸の口に紙袋を当てさせて、優しく声を掛ける。
「大丈夫。ゆっくり息をして。吸うことより、ちゃんと息を吐いて。大丈夫だから」
そう幸一が声を掛けると、吉田が大きな身体で美幸を庇うように間に割り込み、連携するように幸一が中谷の隣に立ちはだかった。
「その話、本当っすか」
怒り心頭の鈴木は、幸一の襟首を掴む。
「俺がウソついてるってのかこの野郎? あ? ケンカ売ってんのかお前? あぁ?」
「ケンカ売ってんのはどっちですか。こんなあからさまなウソついて、ミスの責任を誰かになすりつけようとしてんの、バレバレっすよ?」
幸一は全く怯まなかった。
そのあまりのふてぶてしさに営業部の鈴木も若干戸惑いの表情を浮かべる。
「俺が誰だか分かって言ってんすか? 情報システム部の、森林ですけど? 俺は、社内でどこの誰がどのファイルにいつどんなアクセスをしたのか、全てのログを解析できる権限持ってるんすよ? さっきの発言、記録しましたよね吉田さん?」
「おう」
振り返ることもなく幸一は先輩社員にあたる吉田に声を掛けると、吉田も振り返りもせず応える。
「中谷さん、パソコン借りていいっすか」
「どうぞどうぞ。使ってください」
「で? そこのえーと……斎藤さん? だっけ? 営業部販売課、社員ID229の。消されたファイルってのは具体的にどのサーバーのどのフォルダにある何てファイル?」
斎藤、と名指しされた女子社員の手は震え始めた。
あの、えっと、と戸惑うばかりでなかなか答えない。
「どこのファイル? 鈴木課長、答えてくださいよ。ねぇ? どこのなんてファイルが消されたんです? いつ?」
「コイツが消したのはなぁ! 営業部用サーバーの! 仕掛中フォルダの! 丸三通信フォルダだよ! フォルダは昨日の夜の10時までは確かにあったんだよ! それをコイツが消しやがったんだ! コイツが!」
「コイツって誰のことっすか?」
「大草だよ! おい! お前泣けば許されるとか思うなよ! どう責任とるんだオマエ! 8億だぞ8億! あぁ!?」
「へぇ、吉田さん、録音オッケーすか?」
「おう」
再び吉田が短く答えた。
「で? アクセス履歴を見たら、この資料室の大草さんが最終アクセス者だったと、斎藤さん今確かにそういいましたよねぇ? ほら、そのフォルダ、これですね? で? どうやってその最終アクセス者とやらを調べたのか、見せてもらえません?」
斎藤は青ざめて後ずさろうとする。が、上司の鈴木が斎藤の肩をばん、と叩きPCを指さした。
「オラ見せてやれ斎藤! お前調べたんだろ!? なぁ!? オラこの役立たずに見せてやれよ!」
「あ、あの、あの、私……」
斎藤は何故か席に座ろうとしない。顔はすでに青ざめており、手は傍目から見ても明らかなほどに震えている。
「斎藤さんだっけ? 情報システム部のモンにシステム関係でウソが通じるとか思うなよ? ファイルサーバのログへのアクセス権限は俺しか持ってないのに、どうやってアクセス履歴を確認した? さぁ見せてみなよ。履歴確認したって言ったよな? ホントなら不正アクセス。ウソなら虚偽報告。さぁやってみなよ、どうやって確認した? 再現してみろって言ってんだろ、早くやれよ」
「あ、あの、あの、ち、ちが、違うんです、あの、私」
「そもそもだ」
幸一は目の前でまだ顔を赤くして怒り心頭のままの鈴木に詰め寄ると、自分の襟首を掴んでいる鈴木の手首をぎりぎりと音を立てて握る。
「大草さんな、営業部用サーバにアクセスする権限なんて無ぇんだよ。参照、編集、実行のどの権限もない。そんな彼女が? 部外秘フォルダにどうやってアクセスしたっての? ハッキング? パソコンもろくに使えない、先週までガラケーだったIT音痴の大草さんが?」
鈴木の手を振り払い、中谷のパソコンを職人の手つきで操作する幸一は目だけが笑っていない表情で斎藤と鈴木の二人を見上げる。
「じゃあ鈴木さん、説明してもらいましょうか? 昨日の18時に退社して、オフィスからの退去ログも18時15分に記録されて、会社に居もしない大草さんが、どうやって社外からアクセスも不可能にしてる社内ネットワークに、わざわざ22時に侵入して、アクセス権限もない営業部サーバーにログインして、ピンポイントに仕掛中フォルダのフォルダを削除したのか。ガッチガチにセキュリティ確保してるネットワークで、読み取り権限もない大草さんがどうやって削除したのか、その具体的な方法を説明しろって言ってんだろうが! なぁ! オマエが言ってることがホントならなぁ、これは不正アクセス禁止法に抵触する事態なんだよ! さぁ言えよ! 言ってみろよ!」
次第に幸一の声は大きくなり、最後には叱責を飛び越えて怒声になっていた。
斎藤の顔は青ざめ、いつの間にか鈴木の顔も同じように血の気が引いていた。
「なぁ、教えてくれよ斎藤さんさぁ。仕掛中フォルダの丸三通信フォルダ、削除した履歴は確かにあるんだけど、削除ユーザーの社員IDは大草さんのじゃないんだよなぁ。社員ID229番のユーザーが削除した、っていうログがしっかり残ってんだよ。大草さんの社員IDは517番。なぁどういうことか、この場で全員に説明してくれよ、社員ID229番営業部販売課の斎藤さん? ほら早く、みんな待ってんだろ? なぁ?」
幸一がノートPCの画面を鈴木と斎藤に向ける。
そこには、ファイルサーバへのアクセス履歴を示すログが表示されていた。
英語で記載されているために読みやすいものではなかったが、確かに「ID229のユーザーが丸三通信フォルダ内のデータを削除した」と記録が残っている。
鈴木は青ざめた顔から、今度は顔を真赤にして斎藤に掴みかかる。
「おま……オマエ! オマエがやったのか!? あ!? おい! オマエ俺に嘘ついたのか!?」
「はいはいはいはい鈴木課長? 斎藤さんを責める前に、やらなきゃいけないことがあるんじゃないですかねぇ? いきなり言いがかりをつけて過呼吸起こすくらい脅した相手に、頭下げるのが先じゃないんですかねぇ?」
美幸はもはや意識朦朧の状態となってしまっている。自力で座っていることも出来ず、全身が痙攣に近いほどブルブルと震えてしまっていた。
痛々しい姿を見た幸一は、鈴木と斎藤の二人にさらに一歩詰め寄った。
「なぁ、情シス嘗めんじゃねぇぞ。二人とも、誰にケンカ売ったか分かってんだろうな? あ? 俺の前でよくもまぁアクセス履歴だの何だのってウソつけたよな。バレねぇとでも思ったんだろ、それが情シス嘗めてるってことなんだよ。大方自分で消した責任を大草さんに擦り付けようとしたんだろうがな、バカもここまでくると可哀想になってくるわ」
怒りの収まらない幸一は、今度は顔を鈴木に向けて低い声で話し始める。
「あんたもあんただよ。ろくに調べもしねぇ、裏も取らねぇ、それでよその部署の女の子がこんなになるまで脅すか普通? どういう躾受けたんだよ。声がデカけりゃ正義か? あ? 脅せば自分の考えが通るとか教えられたのか? 親の顔が見てぇわ。言っとくけどな、ここでのやり取り全っっ部記録してるからな。社長にも報告する。ゴマかせるとか考えんじゃねぇぞ。営業部は今日、この場で、資料室と情シスにケンカ売ったんだからな。その事よぉく覚えとけ」
「な、お、オマエ、課長に向かって何だその口の利き方は!」
「うっせぇんだよ! オマエこそ何だその口の利き方ぁ! あ? それとなぁ、襟首掴んだ時点で暴行罪が成立するって知ってっか? きっちり警察沙汰にしてやるから楽しみにしとけよ手前ェ。中谷さん、警察から問い合わせ来たら証言してもらえます?」
「もちろん。警察への協力は市民の義務だからねぇ。それと吉田くん、今日はちょっと大草くんのことが心配だから、具合が落ち着くまで付き添ってもらっていいかな? 帰りもどうするか考えないとねぇ」
「あぁ、それなら俺、大草さんの自宅の住所、こないだヨドバシで会ったときに聞いてますんで、俺が家まで送ります。大草さん、それでいいかな?」
美幸は意識朦朧の状態で机にもたれかかったまま、ちいさく頷く。ようやく呼吸は落ち着いて来たが、指先はぶるぶると震えたままだ。
「わかりました。じゃあ吉田くん、森林くん、この場はお願いしていいかなぁ? 僕はちょっと鈴木課長に、それから麻原部長とも話さないといけないからねぇ」
「……っす」
珍しく笑みを浮かべていない中谷がゆっくりと立ち上がり、鈴木と斎藤の二人に向かって顎をくい、と動かす。『表出ろ』といわんばかりの仕草だ。
この日、美幸は幸一に付き添われて早退する事になった。
普通に話せるようになったのは、会社のビルを出て幸一が同乗したタクシーが美幸の住むマンション前で止まったときのことだ。
「大草さん、何かあったら、いつでも連絡して。必ず力になる。情シスと資料室は、大草さんの味方だから」
幸一の言葉にちいさく頷いて、美幸はフラフラと幽鬼のような足取りでマンションへ入っていった。




